きっかけは些細なことだった。列に割り込んだとか割り込まないとかいう類の理由で、背の低い太った若い女が男に突き飛ばされた。女の大きな尻が柵を破り、ゴムマリのように転がった。大勢が見ている前で、女は隙間からすっぽりと、穴に落ちていった。
口を開く者は誰もいなかった。全員身じろぎもせずその場に立ち竦んだ。
やがて一人が言った。笑い声が聞こえたと。するともう一人が、ああ確かに聞こえたと頷いた。さらに一人、なんて幸せ、なんて素敵という声も聞こえたと言い張った。何人かがそれに同意した。彼女は自分から落ちたのだ、それを望んだのだと誰かが叫んだ。おおおおおと地鳴りのような声。ここは強力なパワースポット、あの穴の中には最大最強のパワーが満ちているに違いないと誰かがぶち上げ、そうだそうだと口々に答えた。そんな声は聞こえないと否定する者も、様子を見よう、やめておけと止める者も、もはや誰一人いなかった。
並んでいたものたちが柵を壊し、我先にと穴になだれ込んでいったのは、女が落ちてからたった数分後のことだった。
*****
真新しいボルトをひとつひとつ締めていく男の、十字型の痣がついた手を、少年がじっと見つめている。ボルトは錆びたり朽ちたりしない最新式のものだ。以前より一回り大きく丈夫な鋼鉄の蓋は、以前より十倍も多い十倍も丈夫なボルトで留められている。少年が口を開いた。
――――おじさん、いつもこれを全部、一人で締めてるの?
――――そうだよ。
と男は答えた。
――――おじさん、毎日来てるよね。
――――そうだよ。
男は鼻をすんと鳴らすと、お前もなと呟いた。少年は男のすぐ側にしゃがみこんで言った。
―――――穴に落ちていった人たち、誰も見つからなかったんだよね?
――――そうだよ。誰一人、見つからなかった。
――――まだこの穴の中にいるのかな。
――――わからない。いるのかもしれない、いないのかもしれない……だが、もう何十年も経っているからな。
風が丈高い草の原を渡ってきた。西に傾いた日が少年の顔を照らした。
――――いつまでこうやって締め続けるの?
――――死ぬまでさ。俺が死んだら……そうだな、息子か娘を代わりに寄越すかな。
――――おじさんち、子どもはいないじゃないか。
男は答えなかった。少年はしばらく黙ると、思いきったように口を開いた。
――――僕が締めに来ようか? おじさんがもし……締められなくなったら。
男は少年の顔をちらっと見るとまた視線を下に戻し、言った。
――――そうだな。覚えていたら、の話だが。
――――覚えてるよ。
――――お前くらいの男の子は、一ヶ月、いや一週間もすりゃ、心も体も真新しく入れ替わっちまうもんだ。俺もそうだった。
――――おじさんはそうでも、僕は違うかもしれないじゃないか。
男は一瞬目を丸くし、やがて声を立てて笑った。それから作業の手を止め、少年の目を覗き込んで真面目な顔で言った。
――――そうだな。俺とお前とは、違う人間だ。お前は忘れないかもしれない。ただ、可愛い娘っ子や、身入りのいい仕事に夢中になって、俺の代わりにボルトを締めることをすっかり忘れちまっても、それは構わない。そんなことは些細なことだ。だが――――
男は巨大な鋼鉄の蓋をぼんやりと眺めながら、呟くように、だが力を込めて言った。
――――この蓋の下に穴があること、それだけは忘れちゃいけない。忘れたが最後、呑み込まれる、永遠にな。だから、片時も忘れちゃならないんだ。
少年は眉を寄せ首を傾げると、再びボルトを締め始めた男の手元を見つめて言った。
――――おじさん……おじさんは小さい頃、あの蓋の下を……見たんだよね? お爺ちゃんから聞いた。
――――ふん。爺ちゃんはこうも言ってなかったか? あいつは嘘つきの人殺しだって。俺は穴をただ覗いていただけだ。叱られるのが嫌さに、穴に入っていたと嘘をついた。あんな騒ぎを引き起こすとは思ってもみずにな。
――――それは……おじさんが悪いんじゃないよ。あの人たちは自分から落ちていったんだ。
男はまた黙った。力を込めてボルトを締めるごとに、十字型の痣が生き物のように伸び縮みする。陽が落ちて、周りは急速に色を失っていく。少年の大きな瞳だけが薄闇に輝いた。
――――それで、その……中には、何があったの? 何が見えた?
十字の動きが止まった。男は小さくため息をつき、道具を地面に置いて何事か呟いた。少年は、今なんて言ったのと膝でにじり寄った。
――――まったく、皆いつも同じことを聞くな。あの下には……何も無い。ただの穴さ。何一つ見えなかったし、聞こえなかったし、感じられなかった。なぜ穴が開いたのか、なぜふさがらないのかは俺にはわからない。だがこれだけは確かだ。あの中には、何も無い。
なあんにもな、と肩をすくめ、男は十字のない方の手で道具を仕舞い、荷物を背負って歩き出した。少年はしゃがみこんだまま、夕闇の中徐々にくすんでいく鉄蓋の色を眺めた。やがて遠ざかっていく男の後ろ姿が見えなくなると、少年は身震いをして立ち上がり、帰るべき我が家に向かって全速力で駆けていった。
<了>
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