「十二国記 幽冥の岸」

  ハイもちろん入手しましてよ。勿体ないのでちびちび読んでました(そういうの多し)。

新潮社webサイトより

「十二国記 幽冥の岸」小野不由美(2026)

 大長編にして内容激重の前作「白銀の墟 玄の月」にまつわる四つの掌編、ではあるがどれもこれも濃ゆい。十二国における「天」はつまり作者だと思っているが、読む者も「天」の一部なのだ。残酷で理不尽で冷徹、ただ見ているだけで誰も救わない「天」。刺さりますわ……

「戦場南」

王を裏切ったとして蔑まれ非難を浴びる山村の生き残りの話。弱い民草の立場ではどうにもならない、やむにやまれぬ事情はあった。しかし時代のせいだ仕方ない、と言い切ることもできない。どちらが勝った、負けたでは終わらない戦後処理のリアル。かなりシンドイ話だが最後に薄っすらと光明も。

「異邦の客」

驍宗と琅燦の出会い譚。これまであまり明らかにされていなかった「黄海の民」黄朱の成り立ちや日常生活が詳細に描かれる。ここでの体験がのちに驍宗が王を目指す展開の伏線になっている、逆伏線回収。

「夢の結び」

戦災孤児の少女・白玉が、とある男に救われ夢のような幸せを手に入れる。ところがその男は訳アリで(以下ネタバレ厳禁)……白玉が賢くて可愛い。

「幽冥の岸」

王奪還に成功したものの、自らの手を血に汚すという麒麟としてはありえない禁忌を犯してしまった泰麒。此方も「戦場南」の件と同じく「仕方なかった」では済まされない、国としても必須の戦後処理といえる。泰麒の出自や蓬莱での経験から生じた特殊事例ではあるものの、周囲より本人の背負い込みっぷりがもうのっけからヤバい。「魔性の子」からの壮大な伏線が回収どころか現在進行形で炸裂しまくってて、「天」の存在もここで最大限に意識されて震える。タイトルとするに相応しい一編。

 

 十二国って一体なんなんだろう。「天」なるものの下で特殊なルールと規律によって成り立つ世界は、蓬莱(現実世界)とも一部繋がっていて、時折異なる種のものが放り込まれる。雁王しかり、陽子しかり、中でも屈指のワイルドカードは泰麒。ただ載国の争乱は泰麒の存在に関わらず起こっただろうし、逆に泰麒という定石を外れた麒麟でなければ解決は難しかっただろう(とはいえギリギリのところではあった)。改めて、泰麒は紛れもなくこの壮大な物語の主人公なんだなと実感した次第。この先の物語はもちろんサイドストーリーやスピンオフももっとずっと読みたい。永遠に続いてほしいと切に願う。超絶面白かった!! 

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「ディスクロージャー・デイ」

  今ひとつ伸びてないとかタイミングを逸したとか芳しくない噂をちょいちょい耳にしたものの、劇場はなんやかんや結構人多めだった。

「ディスクロージャー・デイ」スティーブン・スピルバーグ

Disclosure Day / Steven Spielberg(2026米)

「未知との遭遇」「E.T.」を作ったスピルバーグ監督らしい、最初から最後まで宇宙人愛に溢れた映画だった。もっといえば宇宙人にまつわるあらゆる創作物、画像映像、都市伝説からゴシップまがいのヨタ話にいたるまでのすべてに対する半端ない愛情。それはとりもなおさず、監督の宇宙もの映画をリアルタイムで経験し、テレビや雑誌でも宇宙人やら大予言やら謎スペシャルが溢れていた世代の私にもストレートに刺さるものでもある。以下ほんのりネタバレなんで注意:


 なのでこの「ワーデックス」なる組織が、「徹底した隠ぺいを目的とした組織」であるとしてもどうしてここまでやるのか、秘密を持ち出した人間を殺すことも辞さない(!)くらい執拗に追いかけ回すのか、もその文脈で理解できる。「厳重に隠されたもの」のチラ見せってそそるよねえ、結局何も明らかにならずそもそも真偽のほども怪しくてもついつい見ちゃうんだよね、という「あの頃のワクワク感」をまんま期待通りの展開にて超絶ハイクオリティの映像化をやってのけたってことだ。冒頭シーンからして象徴的、なんせ「プロレス」ときたもんだ。「国家的機密」が徐々に明らかになり、解像度の悪かった「UFOや宇宙人の写真らしきもの」が惜しげもなく大スクリーンに映し出され、「宇宙人に誘拐されて身体検査され記憶を消された」人々はとあるトリガーにより記憶を取り戻す。遂にその時が来たのだ!大宇宙で私たちは一人ではなかった!仲間内で争ってる場合じゃない! 

 というわけでストーリーの辻褄は気にせず、ただただ目の前で繰り広げられるドラマとアクションをそのまんま受けとめ堪能するのが当映画の楽しみ方だと思う。細けえことはええんやで映画は夢の世界だから。月刊「ムー」やノストラダムスの大予言シリーズ、暗黒星雲の謎とか愛読しまくってた私、大変に面白かったですハイ。

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「ENA」「裳着」

  クラファンでご支援した映画の試写会を観てまいりました。


「ENA」(2025)
「裳着」(2026)佐藤敬

※クラファンは「裳着」の方。

 ひっさびさの渋谷駅は迷宮だった。会場の「ユーロライブ」にはミニシアター「ユーロスペース」も入ってる。若かりし頃何度か行ったことがあるはずだが、2006年に今の場所に移転しておった。つまり何もワカラン。僅かな記憶と方向感覚(どっちも当てにならず)を頼りにダダ広い構内からマークシティを歩いてみたものの、エッどうして上るの?エッ下りるの???ドコに???てな体たらくで、スクランブル交差点を上からスマホで撮りまくってる外国人観光客以下の完全お上りさん(フォトスポットあるのね!)。どう考えてもこの先迷子確定という予感しかなく、やむなくお外に出て平日夜でも混みっ混みの109界隈をうん十年ぶりに歩きました。東急跡地の脇でひっそり佇むBUNKAMURAを横目に見つつ狭い路地に入る。薄暗い緩い坂道をてくてく歩く間にもひっきりなしに爆走するマリオカート(みたいなカート、なんて言うんだアレ)。立ち並ぶ店も歩いてる人もカオス。ネオンと暗闇が同居してる、こういう場所も久々だなあ。

 開場が18時ということで外で暫く待ってみたが、ご同輩らしき方々が次々中に入っていくので便乗。既に階段に列が出来てた。時間通りに受付開始、確認を済ませたらあとはてんで勝手に座る。こういうのも久々だなあ。と思いつつ中央列の真ん中へんの端に陣取る(端が好き)。
 監督の端的にして簡潔な挨拶が終わっ、たかと思ったらまた戻って来られて「センシティブ表現あるのでご注意を」とのこと。ほーん?今時は大変ねえと思いつつさあ本編。最初に言っておくと、今回私は佐藤敬さんという監督について何一つ前提知識を入れず、何も知らないままクラファンの文面だけで支援を決め、試写会に突入した(「この作品を創ることはもう決めているけれど、支援によってそのクオリティが上がります」というところがなんか響いた。正直でいいな、と)。なので、最初の「ENA」にしても「裳着」にしても、「鹿の国」みたいな民俗学ドキュメンタリ形式に近いんかなと勝手に思っていた。が、大いなる勘違いだった。
 以下、ほんのりネタバレなので注意:


 そんなわけで「ENA」、いきなりの不穏すぎる「なまにく」に続く展開に脳内横転。なんだなんだいきなりバイオレンスじゃん裏社会もの?と思ってるうちに事態はあれよあれよとホラーに雪崩れ込み、結構なスプラッタを伴う人怖へと転じていく。いやこれホラーグロ耐性あるアテクシはイケるけど「裳着」目当ての平安ファン大丈夫か?!などと余計な心配をしてしまった(いや「裳着」だってダークな平安を描くて言うてたやん)。
 そうはいってもENAはやはり胎衣のことであるし、舞台装置のひとつひとつが何かを象徴していて存在を声高に主張してる感もあり、細部まで相当の拘りが観てとれた。私は「サイコ」と「くだんのはは」と「羊たちの沈黙」を思い出したよ。ただ個人的な好みとしては、正体はギリギリまで見せないでほしかったかな。前半の緊迫感の高まりが半端なかっただけにちょい勿体ない(何様だ)。「この場所からどういうわけか逃げられない」描写があればより恐怖感が増したかも。何で二人とも逃げないねん!と思ったので(何様その2)。ともあれ俳優さんたちの熱演は素晴らしかったしラストの表情もお見事、綺麗に着地が決まってました。
 さて間髪を入れず「裳着」。ハイキタコレ、平安にありがちな三つの事。「疫病」「呪い」「基本暗い」。えさしの里で撮影されたという映像、あちこちに配置された紙燭が闇を際立たせる。紛れもない平安の夜。女たちの衣裳、衣擦れの音、衣にかかる長い髪の表現にもいちいち痺れる。大河「光る君へ」が「平安」の影を明るい日のもとにわかりやすく展開して見せたのだとしたら、此方は影の中にすっぽり入り込んで覗き見した、というところだろうか。それ自体が平安っぽいね。ラストシーンはまるで絵巻物のようでした。
 何よりナイスアイディアでよくやり遂げたな、というのがセリフをすべて「平安言葉」としたこと。サ行の発音がしゃしゅしぇみたいになってて、外国語というよりキツイ方言のような趣だった。平安の話し言葉については諸説あるみたいだけど、この試みは本当に素晴らしいと思う。「あなかま」をリアル音声で聴ける日が来るとは思わんかったよ。生きててよかったわ(大袈裟)。セリフ書き起こしと字幕の載ってる本ほしいなー。
 と油断しているとやはりぶっこまれるバイオレンスとエログロ。いうて平安時代だって対外的な戦争が殆どなかったというだけで、貴族であっても現代とは比べ物にならんくらい野蛮で凄惨な日常だったろう。その意味で唐突さは感じなかった。まあこの時代の人ならこのくらいやるかもね。ただ声大きすぎだけど(笑)。何故アレで陰謀が成り立つと思うのか。バレた後の言い草の酷さといいリアル寄せ平安人ヤバい。
 それと終盤の姫君ブチギレ場面は、おそらく多くの平安ファンが同じ場面を連想したと思う。「源氏物語」において髭黒大将が錯乱した妻に灰をぶっかけられ罵倒される場面。状況はだいぶ違うものの、こういった出来事は平安といえども普通にあったんだろう。理由は精神疾患によるものかもしれないし、単に感情が爆発してのことかもしれない。何にせよその背景にあるものは覆い隠されすべて「物の怪」のせいとして片づけられた。紫式部はそのありようをまんま書き残し、千年あとの佐藤敬監督がこうして曝け出してみせた。「物の怪」なんて平安の昔も、誰も信じていなかったのだと。というより物の怪の正体は常に「人間」そのものであるのだという、時空を超えた「共感」を見せられたのかもしれない。
 ニワカ平安ファンとしても大変に興味深く面白く、楽しませていただきました。佐藤監督はじめ制作に関わった皆様に大大感謝です。こういう平安言葉での作劇、シリーズ化しないかしら。三分くらいのミニ劇でEテレの深夜枠とかダメかしら?
 今後の展開に大いに期待します。面白かった!

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「踏切の幽霊」

  読書の秋到来しましたね。今日は雨だけど、この少し肌寒いくらいのスッキリ感が本当に快適。もう一年中これでいい(と毎年各所で言ってる)。

 この本は完全に表紙とタイトルで読もうと思った。ご覧の通りそんなに奇をてらった感じでもないんだけど何となく。第169回直木賞候補作(←この年の受賞作に「木挽町のあだ討ち」がある!)。

「踏切の幽霊」高野和明(2022)

 物語が「1994年」にて始まった辺りでは、そのまま現代へと繋がっていくのかと思っていた。だけど飛ばない。あくまでこの年代の物語として続き、終わった。期間としてはさほど長くない。何でこうしたのかなあと少し不思議に思ったが気づいた、30年以上も前だ。若者からしたら十分に「昔」の話だ。自分に置き換えてみればわかる。私が二十代の頃、三十年前っていうと……詳述しないがちょっとばかりショック。90年代なんてほんのちょっと前って感覚なんだけどなあ。

 それはともかく物語はとても面白かった。ホラーでもありミステリーでもあり、社会派小説といってもいい気がする。「幽霊」にまつわる謎が徐々に解き明かされ、遂に真実への「接点」が開かれるといった趣。一気に読んでしまった。この世ならぬものの存在が常にベースにあるというところが良い。最愛の妻を若くして亡くし業界人としての旬も過ぎてしまった主人公にとっての、さまざまな「接点」にもなってるのだ。

 現代には妖怪や魑魅魍魎の類が住める場所がなくなったとよく言われてるけど、そんなことないんよね。その時代時代においての、そういうものの「在り方」の違いはあれど完全にいなくなることはないんじゃないだろうか。90年代というのはまだ「幽霊」というものの存在がマスレベルで身近だったのかもな、と思ったりもした。 同時に、主人公がマスメディアの人間であり「一般人ではありえない」様々な資料や機微な情報にアクセスする伝手と手段を持っている設定は、令和ではもう現実的ではないとも思った。個人でのネット利用がまだ一般的でない時代の「謎解き」は、この時代設定がギリギリ絶妙なラインかもしれない!

 この話を現代設定にしたら成り立つだろうか?と考えてみると、「幽霊」の扱いはともかくとして登場人物の諸事情がやや現実離れしてしまう気がする。してみると少しは世の中マシになっているんだろうか。三歩進んで二歩下がる、という感じかもしれないけど。というわけで大変面白かったです。映画化しないかしら。普通にできそう。

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「我々は宇宙人」

  最近(珍しく)なにかと多忙につき、書く方は完全に滞ってる。とはいえツイ廃なので例によってこれもTwitter(x)にて見かけて突発的に観に行った。だいたいこういう映画は二週目も過ぎると早々にレイトショーとか早朝とかの時間帯に移動しがちなのだが、三週目に至ってもなお私にとって行きやすい昼前後の回であったのも大きい。広い部屋ではなかったものの、けっこう埋まってたので好調なんだと思う。

 結論からいえば予想を遥かに超えた名作だった。逃げ場のない映画館で最後までじっくり観られてよかったです。


「我々は宇宙人」門脇康平(2026)

 まず音。小学校のプールの水底で聞こえていた音。そして雨。車のフロントガラスをさかのぼる水の流れ。ああこれは確かに、見たことがあるし聞いたことがある。

 お若い監督さんだから、たぶんこの小学校の風景と小学生の諸々は2005年以降のそれ。つまり私の子世代にドストライク。それでも自分の小学生時代、子の小学生時代、見事に蘇りました。実写ではなくリアル寄りのアニメ、にした意味もよくわかる。観る人それぞれの記憶の中にあるそれぞれ違う小学校と小学生が、この「絵」によって勝手に補正されてくのだ。ああ私もたしかにあのような風景の中にいた、あの集団の中にいたと。それほどに解像度が高い、絵も内容も。今年は私、同窓会やクラス会目白押しだったせいか刺さりまくった。

 ストーリーはしっかりとあるものの、ここで語る必要性を感じない。ただひたすらに「小学生」のリアルを味わうのがよいと思う。物知らずで元気で可愛いだけでは全然ない、子供ながらの「純粋な」剥き出しの悪意、「たわいもない」悪戯だが途方もなく残酷な所業、も容赦なくさらけ出されてかなりしんどい。「親」や「先生」は小学生にとって完全に埒外であることも改めて実感。自分だってそうだったじゃん?とも。とはいえ大人の影響は小さくないのも事実で、だからこそ厄介。教育とか躾とかって何なんだろうな。難しいわ。

 二人の小学生のその後が私には意外だった。逆かと思ってた。それもこれも、二人の関係の「躓き」の認識が、両者でズレていたせいも多分にある。中々にしんどい。こういうのあったよな確かに。悪気はないけど周りとの距離感がつかめずになんとなく避けられてしまう現象、避けたことも避けられたことも両方ある。中学生の頃の自分を思い出して胸が痛かった。ただ、この二人は確かに「友達」ではあったのだ。向かう道も居場所も何もかも違ってしまっていても、子供の頃好きだったものの名を忘れてしまっても、その事実は消えない。何なら今も、もしかしたらこれからもずっと「友達」であり続けるのかもしれない。自然にそう思わせる、非常に美しいラストだった。人によっては綺麗すぎると感じるかもしれないが、私は素晴らしいと感じた。ここまでリアルに拘り寄せてきたことの効果が、最大限に発揮され奇跡を産んだ、と思う。

 映画館で観るべき映画だと断言します。面白かった! 

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