2010年12月28日火曜日

エンド・ロール

俺のせいじゃない。 何度も、何度もそう言い聞かせてきた。俺には何の責任もないと。知らなかったから仕方ないと。すべてはあの女が悪いのだと。 

 マスクを通した息が白く凍って、薄汚れた革のコートにまとわりつく。
 気温は午後から徐々に下がり始め、日が落ちた今は刺すようにつめたい空気が満ちている。冷気が衣服のわずかな隙間から入り込み、皮膚の柔らかい部分を容赦なく貫く。
 喉の奥からは相変わらず嫌な音がする。が、ゆっくり休めるような場所は見当たらない。さっき入った店では、即座につまみ出された。大きなファッションビルの中なら、閉店まではいけるかもと思っていたが、甘かった。俺はもういろんなことに麻痺しきっているのだろう。自動ドアを抜けて暖かい空気に触れた途端、周りの人間が息をのむ音が聞こえ、一分もしないうちに警備員がすっ飛んできた。無理もない。仕事を辞め寮から追い出されたのは秋口、ゆうに三ヶ月は風呂に入っていないことになる。

 クリスマスイルミネーションを外された並木は寒々しい姿だが、通りを彩る着飾った若者たちの流れは相変わらずきらきらしく目を射る。
 俺は何故こんなところを歩いているのだろう? 何年も来たことはなかったのに。そうだ、いつもこの時期・・・クリスマス前から年末年始は特に店が混むので、休みなど取れたためしはなかった。
 きつい香水の匂いが鼻をついた。とたんに咳の発作が襲った。胸の奥からこみ上げる激しい咳に、おとろえた腹筋がひくひくと痙攣する。人の波が見事に俺を避けて左右に分かれた。俺は体を折り曲げながら、表通りを外れた脇道に入った。
 煤けた薄暗い外灯に照らされた、真ん中に植え込みのある遊歩道には、等間隔にベンチが置いてあった。白いペンキがところどころ剥げかけた古い木のベンチに倒れこむように座る。ジーンズやコートを通し、尻から背中から冷たさがしみてくる。咳は止まらない。俺はポケットを探り、クシャクシャになったのど飴の袋を取り出した。街頭で配っていた試供品だ。最後の一つを口に放り込むと、徐々に咳は治まったが、代わりに胸の痛みがひどくなった。不気味に甲高く濁った息の音は、アル中だった父が死んだ時にそっくりだ。肺炎にかかっているのかもしれない。震える手でもう片方のポケットを探ったが、50円玉ひとつと10円玉が三つ。ペットボトルの水すら買えない。

「ねー、超カワイイでしょー?」

 甲高い声に耳を疑い、思わず苦しさも忘れ顔を上げた。若い女の二人連れの後ろ姿は表通りに消えていったが、その声だけは何度も何度も繰り返し、俺の頭の中で鳴り響いた。
 超カワイイでしょー? ねー、超カワイイでしょー?

 聞こえるはずのない声が頭の中でこだまする。無駄とわかっていながら俺は両手で耳を塞いだ。
 俺のせいじゃない。
 俺のせいじゃない。
 俺のせいじゃない。
 誰か、俺のせいじゃない、と言ってくれ。

 咳がこみあげてきた。ごほん、とやった瞬間、胸と喉に激痛が走った。俺は体を折り曲げてうめいた。ベンチの下では、枯れて白茶けた雑草にタバコの吸殻が絡み、虫の死骸が朽ちかけていた。羽らしきものが薄く崩れて、微かな風に揺れる。
 斜め後ろ、目の端に小さな水飲み場が見えた。咳をするたびに襲う激痛に耐えながら立ち上がり、蛇口をひねる。力加減に失敗して勢いよく水柱が上がった。水は氷のように冷たく、口に含むと金臭かったが、無理に飲み込んだ。痛みがいくらか和らぐ気がした。咳は止まり少し落ち着いたが、冷えすぎた。 
 辺りはもう真っ暗だ。今夜は何処で過ごそうか、とりあえず地下道に降りるべきかと考えながらベンチに戻ろうとすると、足が何かを蹴った。マッチだ。Star New One、と書いてあるだけで何の店かはわからない。幸い湿気てはいないようで、擦るとすぐ火がついた。落ちていた空き缶の口にのど飴の包み紙を詰めて小さな火を上に乗せた。思いの外あたたかい。俺は両手をかざした。

 路地の奥にあるイタリアンレストランからガーリックの香りが漂う。笑い声が聞こえる。数メートルと離れていない場所に、ここに座っている俺とはまったく関係のない世界がある。かつては俺も所属していた世界が。

「かんぱーい!愛ちゃん、お誕生日おめでとう!」
 シャンパンのボトルのふたがぽんと鳴る。笑い声とさざめき、グラスが打ち合う軽やかな音。クリスマスソング。愛の笑顔。美しい、だがすこし寂しげな、切れ長の目。
「好きな人がいたの。とても好きな人が。でもうまくいかなくて・・・私、すごいブスだったから」
 何を言っているのかわからなかった。愛はこの界隈では有名な高級店のナンバーワンホステスだ。本当なら俺みたいな二流ホストが気軽に声をかけられる存在じゃない。
 そう言うと愛はうっすらと笑い、わかってるくせにと呟いた。整形は、この世界では珍しくはない。だが愛の完璧なまでの美しさと輝きが、人工的に作られたものだとはとても思えなかった。それに愛の魅力は外見だけではない。
「ありがとう」
 俺は愛に何を贈ったのか、もう忘れてしまった。お決まりのブランド物バッグか、アクセサリーの類か。だが愛がお返しに、とくれたものははっきり憶えている。優しく俺の手に触れた、つめたくなめらかな白い指。

 オルゴール。

 燃え尽きたマッチが缶の底にことんと落ちた。
 あのオルゴールは何処に行ってしまったのか。寮を出たとき、俺の部屋は空っぽ同然だった。愛が突然街から姿を消して以来、俺は店を休みがちになり、何やかやと借金を重ね、持っていたものはほとんど換金してしまった。だがあのオルゴールだけは手放した記憶がないのに。

 俺は燃やすものを探し、もう一度マッチを擦った。

 けばけばしいミラーボールの輝き。濃すぎる化粧と香水の匂い。惜しげもなく開けられる高級シャンパンの甘い香り。
「ねー、超カワイイでしょー?」
 あの女は店に来るたび子どもの写真を見せた。ストラップのジャラジャラついた派手なピンクの携帯の画面には、毎回違うアングルで、幼い二人の子どもの笑顔が映っていた。仕事も育児も頑張ってんだね、エライねとお世辞をいうとひどく嬉しそうだった。大して美人ではなかったが、笑うとどことなく愛に似ていた。

 俺はそろそろ帰らなきゃ、という女を何度となく引き止めた。時には他のホストと一緒に夜中のドライブへ連れ出したりもした。こんなことをするのは君だけだよ、君は特別だよと囁いた。そのうち女は、自分から帰るとはいわなくなった。子どもの話もしなくなった。誰かに聞かれると目を泳がせ、知り合いに預けているからと笑った。
 女はキャバクラ勤めだったが、乳幼児二人を抱え決して余裕のある生活ではなかった。だがそんなことは俺の知ったことではない。店に少しでも多く来るよう、少しでも長くいるよう、あの手この手で煽り続けた。お前本当に惚れてるんじゃないか?と周りにからかわれるほど。春から夏にかけての数か月間、俺は入店以来最高の成績を上げた。

 いろんなことがどうでもよかった。愛の来ない店での仕事は、俺にはまったく意味をなさなかった。稼いだカネはすぐ使ってしまった。

 火が消えた。

 春から夏にかけての数カ月……尋常ではない暑さだった、あの数カ月間。

 あの女の、幼い二人の子どもは、マンションの部屋に放置され死んだ。女が逮捕され、警察が店に事情を聞きに来たその夜、俺は店を辞めた。

 俺は再びマッチを擦った。

 窓の外からジングルベル、すぐ隣の店のBGMだ。便利だね、と笑う母とこたつに入りツリーを作る。
 広告を樅の木の形に切り、クレヨンやマジックで色を塗る。母は折り紙で鈴やトナカイを器用に折る。三角帽子も、ポップコーンの入った紙皿も、全部広告で手作りだ。
「サンタさん、きづいてくれるかな。おうち、とおりすぎちゃわないかな?」
「大丈夫、こんなに一所懸命作ったんだもの。きっと来てくれるよ」 
 しみだらけの壁、へこんだ古い畳、テレビも何もない狭い部屋は、あたたかく安心できる場所だった。
 母がいたから。母が、いつも笑ってそこにいたから。
 笑顔。そうか、母の笑顔はそのまま、愛の笑顔だ。そうだ、こんなに似ていたんだ。何で気がつかなかったのか。そのままじゃないか。
 窓の外からジングルベル。


 火が消えた。

 暗く寒く人気のない遊歩道のベンチの上に俺はいた。体中どこもかしこも寒く冷たく凍るようだ。そうだ、前にもこんなことがあった。あの部屋の前で、膝を抱えてずっと待ち続けた、母の帰るのを。春も夏も秋も冬も、ずっと。呑んだくれの父の暴力を嫌って逃げ出した母が、もう二度と帰らないと……俺を迎えに来てくれることは絶対にないのだと、諦めたのはいつのことだったのか。

 俺は憑かれたように、次々とマッチを擦った。燃やすものはもうない。細い棒の先の火がついては消える。

 空調の効いた店の中であの女が入れたドンペリを開けている時、あの女が俺に肩を抱かれ、けたたましく笑っている時、食い散らかした残飯をダストシュートに投げ入れている時、同じ街にありながら、それとはまったく関係の無い世界で、あの二人は死んでいった。そうだ、「死んだ」んじゃない、「死んでいった」のだ。ゆっくり、じわじわと、それは小さな子どもにとっては気が遠くなるほど長い時間だったろう。母親を待って待って、待ち続けて、最後の最後まで帰ってくると信じていただろう。俺と同じように。

 そうだ、俺は諦めてはいなかった。母が帰ってくると、心の何処かで信じていた。どんなに俺が引き留めても、愛に似たあの女がどんなに最低な女でも、子どもは見捨てないだろうと、信じていた。信じたかった。だから試した。どんな状況でも母親は母親なのだと思いたかった。そんなに可愛い子どもなら、何故お前はこんなところに来ているんだ? 可愛い、なんて嘘だろ? 携帯にジャラジャラつけたストラップのように、簡単に取り外しのきく、お手軽なアクセサリーでしかないんだろ?挑発しながら、煽りながら、俺は諦めることが出来なかったのだ。

 母のことも愛のことも、いまだに諦めきれない俺が、ひたすら母を待ち続けた子ども二人を殺した。

 俺は泣いた。咳がまた出始めた。ごぼ、と音がして痰が大量に出た。吐き出すと赤いものが混じっている。喉が焼けつく。胸が痛い、痛い、痛い。こじらせた風邪のせいばかりではない。俺は固くつめたい木のベンチに横ざまに倒れこんだ。苦しい。苦しい。俺はもう死ぬのかもしれないが、こんなに苦しいのは嫌だ。もう許してくれ、早く楽にしてくれ。俺は最後のマッチを擦った。

 ……い、おーい。

 誰か呼んでいる。ここは温かくて気持ちがいい、眠くて仕方ない。呼ぶな、もう俺を呼ぶな。

 俺の手を誰かが掴んだ。小さな手だ。こわばった俺の手をやさしく開き、何かを載せた。小さな手は離れて、子どもの笑い声が遠ざかっていった。

 懐かしい曲が流れている。題名はなんだったろう? 何か飛んでいる、あの虫は……そうか、俺はそういう世界に来たんだな。

 安堵の溜息をついて、手のひらに載せられたものを探った。これは……


「オルゴール、ですか」
 担当の若い看護師が目を丸くした。申し送り表を記入している年配の看護師が俯きながら言った。
「そうなのよ。どうしても離そうとしなくってね、仕方ないからそのままで処置したわ。消毒液までかけてさ」
「へえ……余程大事なものだったんですねえ。あんなにひどい状態だったのに」
 ナースコールのボタンが赤く点滅した。
「ほら、噂をすれば。いってらっしゃい」
 若い看護師は口を尖らせて立ち上がった。
「きっとまたどうでもいい用事なんですよ。 あの彼女来てましたよね?今日も」
「心配なのよ。何しろ死にかけてたんだから」
「だからって……お母さんまでつききりだし。結構イケメンなのに、マザコン?」
「妬かないの。 さっさと行きなさい」
「はーい、いってまいります」

 ナースステーションを出ると、横から幼い子どもが飛び出した。
「こらっ、走らないの。怪我するわよ? もうすぐ退院だからって油断しない」
「かんごしさんごめんなさーい。ほら」
 幼い姉が、もっと幼い弟の頭を押さえながらぴょこんとお辞儀をした。
「戻る時も走らないのよ」
 笑い声に釘を刺し、彼の病室に向かう。患者と顔立ちのよく似た母親は、まだうまく話の出来ない息子を愛おしげに眺めながら、この子、まだ夢だと思い込んでいるんですよ、と笑っていた。美しい恋人はいつも物静かに彼を見守っている。
 幸せだよね。前に何があったかは知らないけど、あの人、本当に幸せ。
 暖かな春の日が、開けた窓から差しこむ。どこからか舞い込んだ蝶がひらひらと暢気に飛び回る。
 看護師は軽く伸びを一つして、病室のドアをノックした。

<了>

2010年クリスマス競作「メリークリスマス!クリスマス競作やりましょう!」参加しました(大遅刻)。

10 件のコメント:

  1. 3カ月の風呂に入ってないなんて、汚ねえ男だなあと思って
    読んでるうちに、おさかワールドに入って行ってしまいましたね。
    実際に起こった事件もからめつつ、この1年を振り返るチックな感じで迎えたクリスマス。
    オルゴールとうまくリンクして、怒涛のエンディング!
    やったあ!
    もう年末!(笑)
    松前漬けを作ろっと。

    返信削除
  2. 何年も前に『人間交差点』っていう漫画ドラマがありましたよね、アレの一等良質なのを読んだときみたいに深いところにストンと響きました。人の心の深いところ同士が輻輳してドラマが生まれるんだなぁって。
    それでいて、オルゴールは登場するし、ステキなエンディングだし、クリスマス競作のエンドロールにぴったりです。
    おさかさん、ありがとうございます!
    皆さんのおかげでホントにステキな一年でした。
    よい年をお迎えくださいませ。

    返信削除
  3. ヴァッキーさん
    年末ですねえ。クリスマスは忙しすぎて何がなんだか
    わからないうちに終わりましたよ。
    松前漬けかあ、美味しそう♪
    うちは毎年、大晦日はおそばとすき焼きなんですよー。
    明日は牛肉だあ!
    よいお年を!

    返信削除
  4. 矢菱虎犇さん
    「人間交差点」!うちにもありますよー。
    あの名作と並びたてられるなんて恐れ多いですわ(照)。
    こんな大遅刻したのに読んでいただいてありがとうございました♪
    どうぞよいお年をお迎えくださいませ。
    来年はもう少し参加できるといいなー。

    返信削除
  5.  深くって、綿密で、暖かい素敵な物語ですねえ。いろんな意味ですごい良く出来てますよねえ。
     おさかさんって……いやおさ子さんって(笑)、いろんなところに努力を怠らない方だなあって、これを読んで思いました。
     正直最初読んだ時は情景描写細かいし、文章自体も長そうだし、読むのめんどいなあって(笑)思ったんですが、結局3回くらい読み直して、あぁ、なるほどと。読んで良かったなあって思いました。

     あんまし接点なくなってきてますが、何かの折にはよろしくです!
     今年もお世話になりました。
     来年も宜しくお願い致します。

     ではでは~

    返信削除
  6. おっちーさん
    お久しぶりですー♪
    すみません、ホント今年はなんだかいろいろ忙しくて、さらに年末になって子どもも相次いでノロにやられるしで、目が回りそうでした。
    3回も読み直していただいてありがとうございます、そんな中で書いた甲斐がありました(って書くなよ 笑)。
    今年ももうあと数時間ですね。どうぞよいお年をお迎えください。
    来年もよろしくお願いいたします。

    返信削除
  7.   想いと世界の響きに愛が流れて、不確かな、そしてありふれた、それでいて特別な夢を留めさせる。
      愛しき小物は、象徴からの光と、想いの凝縮をしたものである。
      あなたは聞くだろう。私の存在は何に寄るものかと。
      では、聞こう。なぜかと問う意味のない事などあるかと。

      どこまでもいつまでも、とわの夢。愛の響き。存在とは、愛の煌き。時と場所は、愛の慈しみに包まれた、愛の記録。

    返信削除
  8. 預言者様
    あけましておめでとうございます♪
    今年もまた、愛について、存在について、光について熱く語り合いましょう♪
    どうぞよろしくお願い申し上げま~す。

    返信削除
  9. 儚い預言者2011年1月5日 1:17

      明けましておめでとうございます。
      今年も愛もかわらずよろしゅうに。

      人生は一瞬の光
      重みも軽さも
      大いなる愛の微笑み
      
      喜びの祝福
      永遠の響き
      いのちの夢

      旅路は愛の贈りもの
      どれほど遠くに行っても
      久しく未来へと飛翔しようと
      永遠に愛されている

      幻惑とは、当に掴むこと
      それは、意味の儚さの絶望的な夢
      しかし、余りに美しい
      そして、それでしか記憶に残らない

      もしと、選択があるのなら
      しかしと問う
      流れとその外の同時性に
      異質な喜びを感じるのだ

      森羅万象は、心の内にある
      それは創造者の夢
      訪ねるのはいつも
      未知という神なる既知
      そして、それはいつも新しい

      万華鏡の内の確率は
      宇宙の事物と等しい
      それが装うのは特別という普遍性
      一が全にして、部分と全体が等しい

      喜びの祝福
      永遠の響き
      いのちの夢

      大いなる愛の微笑み

      光に時空の夢を乗せて

    返信削除
  10. 預言者様
    福井から自宅に戻ってばたばたしていたらすっかり
    ご挨拶遅れてしまいました。
    あけましておめでとうございます、本年もどうぞよろしく
    お願い申し上げます。

    今年はもっと創作に力を入れたいですわ♪
    良かったらまた読んでくださいね♪

    返信削除