2016年3月26日土曜日

3月に読んだ本


「暴力の人類史」上下 スティーブン・ピンカー

例によって物凄くぶ厚い。図書館で借りたのだが、上下各二週間で読み切るのは中々キツかった。上巻に比べ下巻の予約は簡単に取れたのも、読み切った人があまりいなかったせいなのではないかと推測。
内容は、人類が如何にして「暴力」を減らす努力をしてきたか、その結果どのくらい減ったか、今も続くその努力はどのようなものかという話。戦争が起こる要因として、貧困(食物、物資などの欠乏)・不安(報復されるのではないか)・名誉の問題、というのが興味深かった。意外に、心の問題が大きいのだ。
先人が積み上げた膨大な研究調査結果のデータをもとに、新たな仮説を立て検証していくというスタイルで、一般向けにわかりやすくするための事例など豊富に取り上げているため非常に密度が濃く、無駄に頁を稼いでいるというわけではない。なので、図書館で借りたことはちょっと失敗だった。いつもならば返却期限があることで集中して読めるメリットがあるのだが、今回は相当読み飛ばした感が拭えない。ああもったいない。人類史という大きなくくりはもちろん、昨今流行りの人間関係指南本としても使えそうなので、即検索できる電子書籍化を強く望む。Kindleさんにはお願いしておいたがいつになるやら。
以下、気になったところを抜粋。(太字は私)実際にはもっとたくさんあるが、書ききれない。
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食い物にしようとしている対象が防衛的な手段で対抗してくると、とたんに人間の感情は高ぶってくる。捕食される側の人間は、いったん隠れて再編成してきたり、あるいは反撃してきたり、ことによると捕食者に先んじてやっつけてやると脅かしてくるかもしれない。
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そして絶滅させるのがむずかしそうで、直接的にであれ第三者を介してであれ、加害者側がいつまでも被害者側に対処しなくてはならないとなると、その処置には怒りがこもってくる。捕食者は被食者の防衛的な実力行使にあううちに、自分が攻撃されているような気にさせられて、見当違いの義憤を感じ、是が非でも報復しなければと思うようになる。
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どちらの側も、不当行為をそれぞれの見方に沿って数えあげーーー加害者側は偶数の攻撃を勘定し、被害者側は奇数の攻撃を勘定するーーーその計算の違いが報復のスパイラルを増幅させていくのだ。

力は、自尊心が足りないことによる問題などではなく、ありすぎることによる問題なのであり、とりわけ分不相応にあるときが問題なのだ。自尊心は測定が可能だが、ある調査によれば、その測定方法の上限を超えるほど自尊心が高いのが、精神病質者、街のごろつき、いじめっ子、虐待夫、連続レイプ犯、憎悪犯罪加害者であるという結果が出ている。
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精神病質者をはじめとする暴力的な人びとは、自己愛が強く、しかも自分の業績に比例して自分を高評価するのではなく、生まれつきの特権意識からそうしている。しかし、そんな彼らにも現実はいやおうなしに侵入してくるので、自分にとって嬉しくないことを言われたりすると、彼らはそれを個人的な侮辱だと見なし、彼らの傷つきやすい評判を危険にさらしているその発言者を、意地の悪い陰口叩きだと思い込む。
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共感には暗黒面がある。第一に、公平性と衝突したときに、福祉を転覆させる可能性がある
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近代性を備えた制度とは、共感の絆に縛られない抽象的な信任義務を遂行できてこそのものなのだ。
共感のもう一つの問題点は、人々の利益をあまねく考えるための力とするには、これがあまりにも偏狭なことである。
汝の隣人と敵を殺すな、たとえ彼らを愛していなくとも。
究極の目標は、政治と規範が第二の天性となって、共感が不要なものになることと考えるべきだろう。愛と同じく、実際には決して「共感こそがすべて」ではない。


「加瀬俊一回想録」上下
「東條内閣総理大臣機密録」東條英機大将言行録 伊藤隆・廣橋眞光・片島紀男 編集

この二冊をなぜ借りたかというと、この前観た映画「日本の一番長い日」(新)で、どうしても引っかかるシーンがあったからである。部下の前で徹底抗戦をうたう東條英機、のシーンである。

「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」

このセリフ、かの映画ではさらに改変されていて、いやそんなこと普通言わないでしょ…という言い回しだった(うろ覚えなのではっきり書けないが)。ちなみにWikiには「~と部内訓示していた」と断定的に掲載されているが、出典は「加瀬俊一回想録」。こちらの本では「~と聞いた」と伝聞になっている。東條英機という人はメモ魔だったらしく、後者の「言行録」ではちょっとした挨拶文でさえも詳細に載せているが、かの「部内訓示」の記録はない。聞いていた誰かがメモしたのだとしたら、全文がどこかに残っているのか? そもそも一部なのか要約なのか? ネット上をけっこう探したが、私には見つけられなかった。もしかしたらソースはこの「回想録」のみか?

昭和天皇のご聖断が下ってからは、終戦に反対する将校たちのクーデターへの打診に対し「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と諭している。戦争回避のため陸軍を抑えるにはこの人しかいない、と天皇陛下の厚い信頼を受けて総理となり、開戦時には陛下に申し訳ないと号泣したという東條が、部下に対してとはいえこのような過激なセリフを本当に言ったのだろうか? 言ったとしたら、それほどの覚悟を、ご聖断後にあっさり翻したのはどういうわけか?
何だか辻褄が合わない。よくある「一部だけ恣意的に切り取った」ものなのではないかとの疑いを捨てきれない。もし本当に言ったのだとしても、しょせん「部内訓示」。重臣会議などでこのような発言をしたわけではない。その発言が宮城事件のきっかけになったとかならともかく、そんな事実もない。むしろ止めようとしている。映画で使うならむしろこっちのエピソードだったのでは。元総理でも血気はやった将校たちの暴走を止められなかった、てことで。

「回想録」はもちろん、一次資料ではない。動乱の時代に、事務方として奔走した「有能な」一外交官の思い出話である。資料を提示し順を追って経緯を述べておられる部分は、その場にいた者でないとわからない生の迫力があり読み応え十分だが、些か人の好き嫌いが激しいようにもお見受けした。問題は多々あったかもしれないが、最終的には逃げ隠れせず敗戦国の元総理としての責任を果たした東條に対し、「歴史的に何の意味もない伝聞情報」をわざわざ書き残すというのはどうなのだろう。
当時の政府と軍部とは、それぞれの立場を考えれば、どちらの言い分も理解できる気がするが、官僚、特に外交に関わる辺りは異質だと感じた。なんだろうこの違和感は。科学者とか、文学者とか思想家とかの区別ではない、何か根本的なところで全く違う人間、という感じがする。

2016年3月8日火曜日

2月に読んだ本

※いつものことながら、今回は特にネタバレ注意!


「殺人鬼ゾディアック 犯罪史上最悪の猟奇事件、その隠された真実 ゲーリー・L・スチュワート、スーザン・ムスタファ 高月園子訳

もしも自分の親が稀代の凶悪犯だったら?
とうてい想像がつかない。たとえその親の顔を一切見たことがなく、育てられた覚えもなくても、同じDNA配列を持つという紛れも無い事実を、どう考えて生きていけばいいのだろうか。

ゾディアック=ヴァンの最初の結婚はまだ14歳のジュディ、何度引き離されても逃げ出し遠い地で一緒に暮らしていたが、次第に二人の仲は冷え、子供が生まれてからはさらに酷い状態に。ついに子は父によって捨てられる。年上の「大人の男性」と一緒に恋の逃避行…と言えばロマンチックだが、そもそも27歳の男性がたった14歳の少女に手を出すことが異常だし、その執着っぷりも尋常ではない。本当に彼女のことを愛し大事に思っているならこんな振る舞いは絶対にしない。「アイスクリーム・ロマンス」とはよくいったものだ。始めは甘くて美味しそうだが、時間が経てば醜く溶けて無くなってしまう。
ヴァンが何故人を殺すようになったのかは、あまりよくわかっていない。厳格な牧師の父と浮気症な母の間に生まれ、一方では強く抑圧され、また一方では放埒な性をみせつけられる。アンバランスで歪んだ家庭で、十分な愛を受けること無く育った男は、内に激しい怒りを抱えるようになる。特に、自分の元から逃げ出した最初の妻に似た若い女に。

一方、捨てられた子はある夫婦に引き取られ、我が子として慈しんで育てられた。信心深く善良な義両親の愛をたっぷりと受けたゲーリーは、自身のアイデンティティを探すうち、本当の父が誰かという事実を知り動揺するが、根幹は揺らがない。苦しみを克服し、ついには実の父の墓前に至り、自分の人生に神の存在を実感する。義父への手紙が圧巻。
むやみに甘やかすのではない、ただ厳しく抑えつけるのではない、本当に子供のことを真剣に考え導いてくれるような親に育てられた子供はかくも強い。
ヴァンも、真の愛を与えられればゲーリーのような人間に成長するチャンスはあった、と考えると切ない。子供をきちんと愛して育てるというのは本当に大事なことなのだ。


「沈黙の町で」奥田英朗

いつもの新聞連載小説。奥田作品はいくつか読んだことがあるが、だいたいラストが大団円ではなかった気がする。これもそのひとつ。モヤモヤがそのまんまで終了。
学校の運営って相当難しい。何しろ抱える人数が多い、しかも全員子供。公立であればなおさら、本当に色々な家庭の子がいるわけで、一切何事もなく過ごすことは皆無に近いだろうと思う。悪意がなくとも、ちょっとした行き違いで疑われたり批判に晒されたり、いやホントに先生なんてなるもんじゃない。
保護者の方は、やはり自分の子供を守ることが第一義だから、学校の「全体を守る」という論理とは当然衝突する。ここに出てくる親たちは、ものすごくモンスターというわけでもなく、無関心というわけでもない、何もなければごく普通の、常識ある大人たちだ。だからこそ一気に解決しない、すっきりしない状況が延々と続くことになるのだろう。

ただ本作品内において、いち親としては、学校より保護者たちの言動に疑問がわく。どんな理由があれ自分の子がいじめをしたことに対しては首根っこひっつかまえてでも真相を喋らせねばならないし、相手に謝罪にもいくべきだと思う。いじめられる方にも問題は多々あったが、だからといって転落したのを放っておいて知らん顔で帰宅していいはずはない。故意でなかったならなおさら、すぐに大人に報告しに走るべきだった。その「逃げ」の罪を、親は体を張ってでも理解させるべきだった。子供にろくに話を聞かないままで、なんで信じられるのか、守らなきゃとか言っちゃってんのか。学校側だって、配慮しすぎて一周回って話がおかしくなってることになぜ気づかん。ぬるい! ぬるすぎる!

と怒りだしたくなるほどに、「モヤモヤ感」たっぷりの本であった。