2011年4月26日火曜日

読むこと書くこと

3/11の震災によって、何かが決定的に変わってしまった、というのはいろんな人がもう既に書いているけれども、変わったというよりは、思い知った…という言葉がしっくりくる。見ないふりをしてきたこと、あるはずがない、起こるはずがないと思い込んでいたことを、目の前につきつけられた。地震にしても津波にしても、原発にしても。

平和で便利で快適な生活は、実はものすごく微妙なバランスの上に成り立っていて、ひとつ間違うと一気に総崩れになる。そういうことを薄々気がついていながら、気づかないふりをしてきた。いつまでもこの生活が続くはずがないと心の底でわかっていながら、続くことを前提に生きてきた。
そういう、人生に対する根拠のない自信のようなものは、これから先持つことはもうないだろう。いいのか悪いのかはわからないが。

津波に流されて壊滅した街の映像を繰り返し目にして、もしかして自分が今いだいている気持ちは、戦争を経験した人と同じなのかもしれないとぼんやり思ったりもした。
テレビの映像には匂いもないし風も吹いてこないし、マイクが拾わない音は聞こえない(音がない状態、というのもわからない)から、「目の当たりにした」というまでには至らないが、伝聞や写真などで何が起こっていたのかを知っただけ、に比べれば、雲泥の差の情報量だ。
私だけではない、おそらく日本全国、いやもしかしたらテレビが普及している国なら全部、このようなレベルの「経験」をした人がいるのではないか。とすると、史上まれにみる、いやもしかすると史上初といえるほど多数の人々の「共有体験」となったのかもしれない。
皆が皆、同じ思いを抱いたかどうかはわからないが、あの映像を観て浮かれる人はまずいないだろうし、もしかしたらとてつもなく大勢の人が、瞬間的にでも共通の意識をいだいていたかもしれない。

ああ、かもしれないかもしれないのオンパレードだ。妄想じみたこの考えがもし真実を含んでいたとしても、劇的に何かが変わるわけではない。世界は相変わらず、戦争する国は戦争を継続しているし、殺人や暴行や窃盗や詐欺も毎日起こっている。今後もなくなることはないだろう。だがほんの一瞬でも共有された「記憶」は、時間をおいてじわじわと効いてくるようにも思う。どう効いてくるのだ?と言われると困るけれども。
元々このブログは、自分の書いた作品を掲載するためのものだった。だが一年程前から「書いてなんになるんだろう?」「いったい人様に読んでもらう価値があるのか?」と自問する日が続き、思うように筆が動かず、やむなく本や映画やもろもろの備忘録と化していたのだが、震災後はそれすらまったく書けなくなってしまった。

生活以外のことへの気力を失い、書くことへの意欲も失い、いったん空っぽになった。ああもうこれで私は何も書けなくなった、何も生み出せなくなった。これからは何かを創作するということからは離れて生きるんだろうな、と本気でそう思った。

だが空っぽになったということは、グダグダした迷いも、消えたということだ。

同じような思いを持ったであろう、焼け野原を目の当たりにした人々は、それ以後何かを創ることをやめたか?諦めたか?そんなことはない。何かが失われれば、必ず新たに産み出されるものがある。繰り返し人類が経験してきたことだ。何よりも、当の被災者である東北の人々が既に体現しつつある。復興が進み、長い時間が経てば、とてつもない創造があの地から発信されるのではないだろうか。

くだくだと書いてきたが、要は物事は常に変転するものだという、当たり前のことを、やっと納得できただけ。幸福も不幸も、ずっと同じ状態はあり得ない。いつどうなるか判らないということを肝に銘じ、緊張感を持って生きるというのは決して悪い生き方ではない。

つまりこれからも、「もの書く日々」は続くということだ。
……つまらないオチで申し訳ない。
ただ今後は、最初の目論見どおり、創作を第一に考えたいと思う。以前は、短編はともかく長編をネット公開することに躊躇する気持ちもあったが、もうなんかどうでもよくなった。読んでくれる人が一人でも二人でもいれば、それでいい。作品を書き、誰かに読んで貰えれば、それでもう作家といえる。

本や映画やもろもろの備忘録も続けようとは思うが、フェイスブックにシフトしていくかも。
あちらは実名なのでちょっとまたニュアンスが変わるかもしれないが。

まあ、おいおい考えます。

2011年4月21日木曜日

もうすぐ五月

忘れないうちに書いておく。

2011年3月11日金曜日

午後、小学校の周年記念実行委員の打ち上げランチから帰宅。ネットをしつつテレビの国会中継をナナメ観していたら、突然地震警報が鳴り響く。東北方面がマークされている。初めて見る警報画面に驚いていたら部屋が揺れ始めた。最初はゆっくりだったので座ったまま様子をみていたが、揺れは止まるどころか徐々に大きくなっていく。もはや体験したことのない揺れの規模。さすがにじっとしていられず、携帯を握りしめてベランダの戸と玄関ドアを開けた。玄関戸棚の金魚の水槽から水がバシャバシャ溢れている。慌てて段ボール紙をかぶせてガムテで固定。玄関のたたき水浸し。まだ揺れているのでとりあえず後始末は置いて外に出る。
道を歩く人が二、三人、きょろきょろ辺りを見回しているが、騒ぐ声は無い。つけたままのテレビが、地震の規模がマグニチュード8であること(のちに9と訂正された)、三陸のほぼ全域の津波警報を告げていた。

携帯電話やメールはすぐに通じなくなった。固定電話は始めのうち通じたので双方の実家に連絡し無事を知らせた。都内で働く夫とは連絡がつかなかったものの、普段から、このようなときは無理に帰宅せず会社に泊まると言っていたし、東京や埼玉はほとんど被害がなかったこともあり、さほど心配はしていなかった。それよりこれからもしさらに大きな地震が来たら、子ども3人を連れてどう逃げるか、そればかり考えていた。

あの津波の映像をいつどのようなタイミングで観たのか?ほぼリアルタイムに近い、第一報を観たことだけは間違いないが、ここのところ時系列がはっきりしない。余震も頻繁にあったし、やはり相当に動揺していたのだろう、断片的な記憶しかない。

震災で一色のテレビを横目に、それでも普通に夕飯は食べ、宿題もさせ、しかし習い事はすべて自主キャンセル(後で振替になった)。
日常と非日常が入り交じって変な感じ。
とりあえず停電に備え水のくみおき(マンションなので水道も電気を使う)、懐中電灯の用意、携帯やDSの充電(灯りがわりになる)。家具の開き戸をガムテで止め、高い位置にあるものは下におろし、転倒防止用の突っ張り棒を再確認。
かなり寒い日だったがリビングから廊下に通じるドアは、閉じ込めが怖くて開け放したままにした。
JRがすべて運行を休止した時点で夫は帰って来れないと判断。子ども三人を服のまま和室に寝かせ、枕元には荷物とスリッパ。私はリビングで布団にくるまった。地震速報を聞くためテレビはつけたまま。うとうとするたびにあのチャイムに起こされ、揺れが収まるまで身構え、ほとんど眠れなかった。

翌朝。

明るい部屋の中でテレビが津波の映像を繰り返し流す。ああ、夢じゃなかったんだ、と思った。取り返しのつかないことが今起こっている。自分たちは暖かい部屋でこうして無事にしているが、現地の人たちはいったいどのような夜を過ごしたのか。胃がきりきり痛む。それ以上想像をすることを無理矢理に止め、子どもたちに朝御飯を作った。