おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

夢浮橋 一

2022年5月5日  2022年6月9日 


 薫は比叡山に行き、いつものように経本や仏像などを供養させると、翌日は横川に出向いた。僧都は突然の訪問に驚き、畏まって迎えた。

 長年、祈祷などの依頼くらいで特に懇意というわけでもなかった。この度の女一の宮の病いにおいてすぐれた効験をしめし、尊い高僧としての名声がさらに上がったこの僧都に対して、薫としてもいっそうの親交を深めようという心づもりもあった。

「あんなに重々しい身分でいらっしゃる右大将殿が直々においでになるなんて!」
 横川の寺では皆が大騒ぎしてもてなした。
 薫と僧都は二人でじっくり語り合い、湯漬けも一緒に食べた。
 ようやく周囲が落ち着いて静かになった頃、薫は切り出した。
「僧都、小野の辺りにお知り合いはおありか?」
「ええ、ございますよ。たいへんみすぼらしい草庵ですが、拙僧の母である老尼がおります。京にははかばかしい住処もございませんので、こうして山に籠る間、夜中だろうが明け方だろうが駆けつけられるようにと住まわせておるんです」
「あの辺はつい最近まで人が多く住んでいたが、今はだいぶ減っているようだね」 
 薫は言って、つと膝をすすめ声をひそめた。

「まことに現実味がなく、どうしてまたそんなことを、と訝しく思われないかと気が引けるが、ひとつお尋ねしたい。小野の山里に私と関わりのある人が隠れ住んでおられると聞いた。真実その人であると確認できたなら事情をお話ししようかと思ううち、仏弟子となられて戒を授かった―――と伝わってきた。これは本当なのか?まだ年若く、親もある人だ。まるで私のせいでこうなった、と恨まれかねないのでね」

 僧都は、

(なんと、あの女人は大将殿の……通りで、ただ人とは見えない様子だった。ここまで仰るからには余程思い入れのあったお方なのだろう)

 と察して、

(法師の役目とはいえ、考え無しにすぐ尼にしてしまったな)

 胸がドキドキしてどう返事をしようか迷った。

(ある程度確かな情報を掴んでいらっしゃるのだろう。心得た上でお尋ねになられているのだから、隠し立てしたところで意味が無い。無理に誤魔化そうとするほうが余程不都合が生じる)

 心を決めて、

「はて、どういうお話ですかな。ここ数か月、素性も不明なまま内々に面倒をみている人ならおりますが……その人の話でよろしければ」

 薫の顔をちらと見やると、僧都は話し始めた。

「三月の終わりごろでしたかな、小野の尼どもが初瀬に願をかけ詣でた帰途、宇治の院という所に中宿りいたしました。といいますのも母尼が急に体調を崩しまして、酷く患っていると人が告げに来ましたものですから、拙僧もそちらに出向いたのです。そこで何とも妖しい出来事が……」

 声をさらに低くして、

「妹尼が、今にも死にそうな母をも差し置いて見知らぬ女人を親身に介抱しておりました。その女人もまるで死んでいるかのような重態だったのですが、微かに息はしておりましたので―――安置していた遺体が蘇生したという昔物語を思い出し、さてはこれもそうかと、弟子の中でも効験ある者どもを呼び寄せ交替で加持をさせました。ただ、拙僧は老母の方にかかりきりで、一心不乱に念仏をするべく仏に向かっておりましてな。何、母はもう惜しむほどの年齢でもございませんが、旅の空ではあまりに不憫と存じまして―――そんなわけでその人の有様をつまびらかには見ておりませんでしたが、おおかた、天狗や木霊の類が誑かして連れ去って来たものだろうと推察しておりました」

 時系列はやや前後させ、あくまで「妹尼の独断で助けた」として語る。

「宇治から小野の庵に連れ帰りました後も、三月ばかりは死人同様でしたが、妹尼がそれは熱心に看病しておりました。故衛門督の北の方だった妹は、一人娘を喪って尼になりましてからもう長の年月が経ちますが、未だ悲しみは癒えず嘆いてばかりでした。そこに亡き娘と同じような年回りで、しかも容姿端麗な女人が現れた、すわ、観音さまが授けてくださった!とそれは大変な喜びようでしてね。死なせてなるものかと一生懸命に面倒をみて、拙僧にも何とか助けてくれと泣きついてきたものですから……拙僧も小野までわざわざ下山して、護身など修法いたしました。幸い徐々に回復しようやく人心地がついたところ、

『やはり憑りついた物の怪が身から離れないような気がする。この悪霊の妨げから逃れて、来世を祈りたい』

 と悲し気に仰る。あまりに熱心にお願いされるものですから、法師の勤めとして叶えてさしあげなくてはと存じ、遂に出家をさせ申し上げた次第です。貴方さまと関わりのあるお方とは、知りようがございませんでした。滅多にないような出来事ですから恰好な噂の種となりそうで、厄介事も起こりかねないと尼どもが口止めしたもので、ここ数か月間は誰にも話しませんでしたから」

 此方はほぼ事実そのままである。薫が小宰相の君からほの聞いた話とも合致したので、

(これは夢か……亡くなったと思い込んで諦めていた浮舟が、実は生きていたとは……!)

 薫は感極まり涙ぐんでしまった。

 眉一つ動かさず姿勢も崩さない僧都を前に、

(いけない、取り乱しては)

 とすぐに取り繕ったが、もちろん気づかなかったわけがない。

(大将殿がこれほどお心をかけていた女人を、現世では死んだ者と同じ尼にしてしまったのか。私自身の手で)

 僧都は失敗した、なんと罪深いことをと後悔しながら、薫に問いかけた。

「悪霊に取り憑かれることになられましたのも前世からの宿縁にございましょう。思うに、高貴なお生まれにございましょうが、いかなる過ちにて流離うことになりましたのか?」

「皇族の末裔とでもいうべき血筋だが、私としては初めから正式な妻としては考えていなかった。ひょんなことで世話をするようになったものの、まさかこんなことになるとは思わず……突然跡形もなく消え去って、川に身を投げたかどうかすらはっきりしない。確実に事実といえるようなことは何ひとつわからなかったんだ。そちらで罪障を軽くするような処置をされたなら願っても無いこと。私としてはひと安心だが、母親に当たる方は今もたいそう娘を恋しがり悲しんでいる。これこのように聞いたと知らせてやりたく思うが、何か月も伏せておられた皆さんのお気持ちに背いては、かえってややこしいことになるだろうか?親子の間の恩愛はそうそう断ち切れるものではない。会えない悲しみに耐えかねて、きっと訪ねていくだろうからね」

 薫はそこまで一気に言い、さらに

「実に大儀なことだが、案内役としてその小野の庵へ下りて貰えないか?ここまで聞いた以上、いい加減に知らない振りで捨て置けるような相手でもない。どんなに夢のような経緯であっても、今は今として語り合ってみたいのだ」

 今すぐ会いに行きたいと懇願した。いかにも真剣な薫の態度に胸を打たれた僧都は、

(髪や鬚を剃り落とした法師ですらよからぬ色欲が失せない者もあるというのに、まして女の身なら……髪を下ろして出家したつもりでいても、実際にこの方と会ってしまっては何がどうなるやら知れたものではない。かえって罪を得る事態にならないか?)

 心を騒がせながらもおくびにも出さず、

「下山いたしますには、今日明日と障りがございまして……来月辺りにお便りを差し上げましょう」

 と答えた。勢い込んでいた薫はガッカリしたが、だからといって「是非に!」と強く念を押すのも体裁悪い。素直に「ではそのように」と引っ込んだ。 

 今回、浮舟の弟である童を供に連れて来ている。常陸守と浮舟の母との間に生まれた子だが、他の兄弟どもより見目が良い。薫はその童を呼び出して僧都に紹介した。

「その人と近しい親族だ。とりあえずこの子を遣わせよう。短い文を書かれよ。誰それとではなくただ、探している人があるとだけお伝えいただければいい」

 僧都は慌てた。

「拙僧がそのような手引きをするなど、きっと罪を得ることになりましょう。事の次第は詳しく申し上げました。今ご自分で立ち寄られ、するべきことをなさったところで、何の差支えがありましょうか」

 薫は笑って、

「罪を得ると仰せか。私が何か仕出かすとお思いなのか、恥ずかしいことだ。私は……在俗の形で今までよくも過して来たものだと思うくらい、幼き頃より出家への志が強くあった。だが三条の母宮が心細いご様子で、頼りがいのない私一人を頼みに思し召している。この逃れられない絆しをはじめ何やかやと俗世に縛られるうちに、自然官位なども高くなり、我が身を処すにも思うままとはいかなくなった。出家への望みはあれど、帝から新たな絆しとなるようなものも賜り、どうにも動けない。公私ともにやむを得ない事情はさておき、僅かなりとも仏が戒められる方面だと聞き及んでいることだけでも、何とか守り抜こうと身を慎んでいる。心の内は聖にも負けまいと思っているよ。なのに、こんな文の一つで重い罪を得ようなどと……それこそあり得ない。お疑いなさいますな。ただ、可哀想な親の思いを聞くに堪えず、心を晴らしてやりたいだけだ。私も嬉しいし気も休まる」

 昔から道心深かった、信用しろと言い切る。

 僧都もこれ以上は逆らえない。なるほどというように頷き、

「ますます尊いお志にございます」

 と言ううちに日も暮れて来た。

(中宿りとしても小野の庵はちょうど良さそうだが、こんな上の空の状態で行動してしまうのもどうなんだろう)

 薫は思案したあげく、一旦帰ることにした。

 僧都は浮舟の弟童の愛らしさに目を細める。薫の、

「この子に文を託し、まずはそれとなく―――」

 という頼みに応え筆をとりさっと文を書いた。童に渡しながら、

「時々はお山に遊びにいらっしゃい。貴方と私は、まったく縁のない同士というものでもありませんからね」

 などと話もした。自分の姉がこの僧都によって尼になったことなど、この童には知る由もない。何もわからないまま文を受け取り、供人の一人として列に戻った。

 小野の辺りに差し掛かると、薫は行列の間隔をすこしずつ空けさせた上、

「静かに行くように」

 と命じた。

  

 くろぐろと茂った青葉の山に向かい合わせた小野の庵に、気の紛れるようなものは何もない。浮舟は、ただ遣水の蛍ばかりを昔を偲ぶ慰めとして、ぼんやり眺めていた。

 いつも遙か遠くに谷を臨む軒端から、前駆の先払いの声がはっきりと聞こえた。数多の松明が次から次へと長く続いている。

 尼君達も端に出て来て見物しながら、

「どなたがいらしたのでしょう?先駆のご家来もたいそう大勢のようね」

「昼間、横川に引干しを差し上げたら、

『ちょうどよかった!大将殿がいらして、急に饗応をせねばならなくなったのだ』

 なんて返事がありましたわ」

「大将殿って……あの女二の宮さまのご夫君?」

 などと言い合っているのも、いかにも世間から隔絶した田舎ぶりである。

 本当に……薫さまなのだろうか?

 かつてあの宇治の山道を分け入って来た時、はっきりと聞こえた随身の声。同じ声が混じっているような―――。

 どれほど月日が過ぎようと、忘れたつもりでいようと、何かの拍子にふと昔の記憶が立ち上がってくる。

(あの行列に薫さまがいるとかいないとか何だと言うの。今さら)

 ざわめく心をただ阿弥陀仏に縋って紛らわせる浮舟はいよいよ口を閉ざすが、尼君たちはいつまでも喧しい。横川に行き来する人だけが、この小野周辺で俗世を知るよすがなのだった。

<夢浮橋 二 につづく>

参考HP「源氏物語の世界」他

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