手習 四
九月に入ると、小野の尼君はまたもや初瀬詣でを思い立った。
亡き娘を諦めきれないまま寂しく心細い山里暮らしを長年続けていたところに、降ってわいたような浮舟という存在―――尼君にはとても赤の他人とは思えなかった。兄僧都には否定されたが、やはりあの時詣でた観音の効験にちがいない、ならばお礼参りをしなくては!という心づもりである。
尼君は浮舟をも誘った。
「ご一緒しませんか?誰に知られることもないでしょう。同じ仏様であってもああいう場所に行って勤める方が霊験あらたかで良いことも多いのです」
だが浮舟は、
(昔、母君や乳母が同じようなことを仰って、たびたび詣でていたけれど何の甲斐もなかった。自分の命さえ思うに任せず、世にも酷い目に遭ってしまったし……そもそも、親族でも無い他人と一緒にそんな遠出をするのは気が引ける)
霊験も信じていなければ、尼君への遠慮もあった。
とはいえ強く撥ねつけるような言い方はしない。
「まだ体調が安定しませんので、長い道中に何かあっては……と憚られまして」
(ああ、そうね。あんなにおそろしい思いをした宇治の近くも通るし、仕方ないわね)
尼君も察してそれ以上無理じいはしなかったが、辺りに散らばった手習いの紙に、
「儚い身で此の世に辛い思いをして生きている私は
二本の杉のある古い川に尋ねて行く気はいたしません」
と書きつけた歌を見つけて、
「二本とは……もう一度お逢いしたいと思うお方のこと?」
冗談交じりに言い当てた。図星を突かれてぱっと朱のさした浮舟の顔は、たとえようもなく愛らしく魅力的である。尼君は、
「古川の杉がどなたのことかは存じませんが
私は貴女を亡き娘の代わりと思っていますよ」
深く突っ込むこともなく、たわいもない返歌をさらりと返した。
女房達は皆我も我もと供につきたがったため、ちょっとした物詣でのつもりが大人数になってしまった。尼君は庵が人少なになることを心配し、気の利く少将の尼君や左衛門という年配の女房、女童を留守番に残した。
出立を見送った浮舟は、
(思いのほか尼君のご不在が不安……でも今さらどうしようもない。尼君お一人だけを頼りにしていたなんて、何とも心細いこと)
我が身の不甲斐なさを噛みしめた。
特にすることもなくぼんやり過ごすうち、あの中将からまた文が届いた。
「どうぞご覧に」
女房達は勧めたが見向きもしない。人が減りがらんとした静かな庵で、昔を思い先々を考えつつ、沈み込むばかりの浮舟を見かねて、
「また考え事ですの?碁でも打ちませんこと?」
少将の尼君が誘いかけた。
「すごく下手ですけど……」
と言いつつも満更でもなさそうだったので、碁盤を取りに遣った。少将の尼君は言葉通りに受け取って先手を譲ったが、なかなかどうして浮舟は強かった。先と後を入れ替えて打つも、まったく歯が立たない。
「降参、とても敵わないわ。ああ、尼君が早くお帰りにならないかしら。貴女の腕前を見せて差し上げたい。あの方もすごくお強いのよ。僧都の君がお若い頃から碁に嵌ってらして、そこそこ自信もおありだったのね。棋聖大徳気取りで、
『自分から挑む気はないが、お前には負けないからな!』
なんて豪語してらしたのに、尼君と三戦して結果は二敗。貴女はその棋聖とやらよりきっとお強いと思う。ホントにすごいわ!」
面白がる少将の尼君に浮舟は、
(この人、盛りもとうに過ぎた尼削ぎの額をして何をはしゃいでいるのかしら。これでまた何やかやと構われると面倒くさい……)
と嫌になって、
「……気分が悪くなりました」
臥せってしまった。
「またですの?時々は気持ちを上げて明るくお振舞いになればよろしいのに。いい若い娘さんがそんなに落ち込んでゴロゴロしてばかりじゃ勿体ないでしょう、玉に瑕とはこのことですよ」
この言葉も浮舟にはまるで響かない。
夕暮れの風の音が胸に染み、あれこれ思い出すことも多く、また手習いに励んだ。
「私には秋の夕べの情趣はわからないが
眺める袖に露が零れ落ちる」
差し出た月が美しい頃、昼間の文に続いて中将自身が小野の庵を訪れた。
(え……ちょっと待ってどういうこと?)
慌てた浮舟はさらに奥へと退いたが、少将の尼君が見咎めて言った。
「そこまでなさらなくても……中将殿のお心ざしの深さもひとしお身に沁みる折にございましょう?少しくらい彼方の仰ることをお聞きになられては。一言でも耳に入れたら何やら染みでもつくように思っておられます?」
この言いように浮舟はますます不安を覚えた。主である尼君もいない、全体に人も少ない隙を向こうは明らかに狙ってきているというのに、別にどうなってもよかろうという気持ちが透けて見える。
居留守を使おうとしたが通じなかった。昼間に文を持ってきた使者が予め浮舟の在宅を確認済みだったからだ。中将からは恨み言の雨あられである。
「お声を聞かせろとはいいません。ただお傍近くで私の申し上げることに耳を傾けて、聞く価値があるともないともご判断いただければ」
手を変え品を変え言い募るも、一切反応が無いのに痺れを切らした中将は、
「冷たすぎませんか?このような情趣ある所におられればおのずとあわれを解するお心も深まるというものでしょう。あまりといえばあまりな仕打ちでは」
ちらりと本音を覗かせた―――こんな山奥で何を気取っているのかと。
「山里の秋の夜更けの情趣を
物思いされるお方ならばおわかりでしょう」
という歌を取り次いだ少将の尼君も、
「尼君がお留守ですから言い繕う者もおりません。ご自分で仰らないと……世間知らずにも程がございますよ」
と責め立てる。
「情けないわが身とも弁えのないまま暮らしている私が
物思いする者だと他人が分かりますか」
返しのつもりでもなく口をついたこの歌は、すぐさま中将へと取り次がれた。
「ああ、やっとお歌が。やはりお目にかかりたい……もっと近くに、もう少しだけでも出て来てくださるようお勧めしてくれないか」
ますます感情を高ぶらせ女房達をせっつく。ほとほとうんざりした少将の尼君が、
「どうしてそこまで冷淡になさいますの?」
と奥に入ると、浮舟の姿が見えない。
なんと、いつもは間違っても目すら向けない大尼君の部屋に逃げ込んでいた。
驚き呆れた少将の尼君が中将にその旨告げると、
「何故にそのような……お隠れになるお心のうちを想像すると何ともおいたわしいね。大体のご様子から察するに、人の情を解さないお方とも思えないのに、本当に何も分からない人がするより極端なあしらい方をなさる。そうなる程の酷い経験をしていらっしゃるのか……ひとつ聞きたいが、あの方はどういう風に世を厭うて、いつまで此処にいらっしゃるおつもりなのか?」
事細かな事情を知りたがったが、教えようもない。ただ
「尼君がお世話申し上げねばならない筋の人です。ここ数年疎遠に過しておりましたが、初瀬詣でで行き会いましたのをしおに、此方にいらしたのでございます」
と言うだけに止めた。
一方浮舟は、誰も寄りつかない大尼君の元にうつ伏せたものの、寝るに寝られない。年寄りの早寝ですっかり熟睡中だったが何とも形容しがたいイビキが響き渡り、すぐ前に寝ている同じ年回りの老尼二人と大合唱を奏でている。
あまりにも煩く、気味も悪すぎて、
(何かの物語に、化け物が老女のふりをして人を喰らうというのがあった……わたくしは今宵、この人たちに食べられてしまうのかも)
とまで思う。命は惜しくなくとも大変な怖がりの浮舟である。一本橋に怯えて引き返したという物語のように、ひたすら身を縮めていた。
付き添うはずの女童こもきは、如何にも風流めかして座っている客人を珍しがってそちらに行ってしまった。浮舟は、
(今に来る……今に来る)
と耐えていたが全く戻って来ない。何とも当てにならない供人であった。
中将はもうそれ以上言葉もなく諦めて帰ってしまったので、女房達は口々に、
「なんとまあお可哀想に」「ああやって引っ込んでばかりってどうなの、いい若い娘が」「勿体ないわねえ。せっかくの美貌も持ち腐れというものよ」
文句を言い言い、ひとところに固まって寝てしまった。
(もう真夜中かしら)
と思う頃、大尼君が咳き込んで目を覚ました。灯影に照らされたその頭は真っ白で、得体のしれない黒っぽい何かを被っている。すぐ傍で寝ている浮舟に気づいて、額に手を当てながら、
「まァ、これは誰?イタチの化け物か何か?ねェ、貴女ダアーレ?」
としつこく何度も言いながらじろじろとねめつける。
浮舟は背筋がゾっとして、
(もう食べられちゃう……絶対食べられちゃう)
と震えるばかりである。
宇治で鬼らしきものに攫われた時は茫然自失状態だったため、怖いも何も無かった。今は何があっても自分で考えてどうにかしなければならない。
(見苦しくも蘇生して、また元に戻って……過去の様々な辛い出来事に苛まれ、厭わしいやら恐ろしいやら悩んでばかり。あの時もし死んでしまっていたら、地獄の責め苦を受けて……こことは比べ物にならないくらい恐ろしい、醜い鬼どもの中にいたのかもしれない)
眠れないまま、自分の生い立ちから常よりも深く掘り下げてみる。
(悲しいことに、父親とおぼしきお方とは一度も顔を合わせることなく、遙か遠い東国を移り住む年月を過した。たまたま巡り合わせて、嬉しくも頼もしいと思った姉君……中君のいらっしゃる二条院を心ならずも去り、薫さまが現れてようやく寄る辺なさも解消されるかという矢先、呆れ果てた過ちで身を持ち崩してしまって……匂宮を、すこしでも愛しいと思ったのが間違いだったんだわ。何もかもあの宮と関わったせいで、こうして流離う羽目になったんだから)
(橘の小島の色を……年を経ても変わらない心になぞらえてお約束になったけれど……どうして素敵、なんて思ったのかしら)
変わらないものなどない。あれは嘘だ。匂宮にとって浮舟は単なる浮気相手の一人だと今でははっきりわかる。恋の熱は気がつけば残らず消え失せていた。
それに引きかえ―――初めから淡々とはしていたがゆったり穏やかに接していた薫。あの時この時と、記憶を辿れば辿るほど宮とは比べ物にならない。が、だからこそ身を投げてから今までの経緯を知られてしまうことが誰よりも恥ずかしい。
(この世で、薫さまのお姿を余所ながらでもいつか見たいと思うこと自体、悪い執着心でしかない。そんなこと、考えることすらダメ……)
浮舟は独り心を決める。
やっと一番鶏が鳴きはじめた。
(母君の声も今聞けたら、どんなに嬉しいことか)
徹夜してしまったので気分も良くない。供人として此方に来るべき者もすぐには来そうにないので、まだ横たわったままでいた。
大イビキをかいていた老人たちは皆とっくに起きて、粥のような不味そうな朝食を大騒ぎで用意して食べている。
「さあさ、貴女も早く召し上がって」
女房が寄って来て言うが、給仕する手元もあやしいし、よくも知らない顏ばかりでどうにも口にする気になれない。
「体調が悪くて……」
それとなく断るのをきかず、なおも食べさせようとする老人たちに辟易する浮舟であった。
暫くすると、むくつけき風体の法師たちが大勢やって来て声を張り上げた。
「僧都、本日山を下りられます!」
「まあ、どうしてまた急に」
女房達が問うと、
「一品の宮(女一の宮)が物の怪にお悩みとの由、山の座主がご修法を仕まつられたが、やはり僧都をお呼びしなければ験がないとして、昨日から二度のお召しがございました。右大臣殿のご子息・四位少将が昨夜、夜更けてから山を登られ、后の宮(明石中宮)のお文をお持ちになられたものですから下山せざるを得なくなったのです」
などと誇らかに答える。
浮舟は、
(僧都が此処にいらっしゃる……恥ずかしいけれど、お会いして尼にしてくださいと言おう。止める人もいないし絶好のチャンスだ)
がばと起き上がって大尼君に、
「ずっと気分が酷く悪うございますので、僧都が下山されましたら、授戒をお願いしたく思っております、とそのように申し上げてください」
と言った。大尼君は呆けた顔で頷いた。
浮舟は自室に戻った。いつもは尼君に梳いてもらっていた髪を、他の女房に手を触れさせたくなかったので、自らの手で出来るだけ解き下ろした。母親にもう二度とこの姿を見せられないと思うと、自分から望んだこととはいえ悲しくてたまらない。死にかけるまでに病んだせいか少し抜けて細くなった気はするが、いささかも衰えず豊かな六尺あまりの長い髪である。毛先は揃っていて髪筋も艶々と美しい。
「かかれとてしも」
※たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪を撫でずやありけむ(後撰集雑三-一二四〇 僧正遍昭)
母が毎日自分の髪を撫でていた頃には、こうなるとは思っていなかっただろう―――そんな歌を独りごちる。
夕暮れ時に僧都が小野の庵に到着した。片づけて設え直した南面に坊主頭があちらこちらと行き交って、ガヤガヤと騒がしい。いつもと違う様相に浮舟はすっかり気後れする。
僧都は大尼君の部屋に行き、
「どうだい、この頃の調子は」
などとご機嫌伺いをして、
「東の対の尼君は物詣でに出かけたらしいね。彼方にいた方はまだいらっしゃるのかね?」
と問うた。
「ええ、ええ。此方に残っておりますとも。何でも気分が悪いと仰って、授戒を受けたいと申しておりますねェ」
僧都は立って東の対に行き、
「此方にいらっしゃいますか?」
と言って几帳の前に座る。浮舟は躊躇いながらもいざり寄って挨拶した。
僧都はにこやかに話しかけた。
「思いもよらず巡り会いましたのも、しかるべき前世からの宿縁があったからこそと存じております。御祈祷なども懇ろにさせていただきましたが、法師というものはそれでなくとも誰かと文を交し合うのは難しゅうございますので、知らず知らずご無沙汰をしてしまいました。こんなみすぼらしい庵で、世を捨てられた尼ばかりに囲まれて、如何お過ごしでしたか?」
「……もう此の世にはいられないと決心いたしましたわたくしが、不思議にも今の今まで生きております。それが情けなく辛いと存じられる一方、何くれとなくお世話をいただきまして、そのご厚意にお応えしようもないふつつか者ながら、身に沁みて思われます。やはりわたくしは、此の世で普通に暮らしていく気にはなれません。どうか尼にしてくださいませ。このままでいても、普通の人のように長くは生きられない身です。どうか……お願いいたします」
「まだまだ将来のあるお若い方が、どうしてそこまで一途にご決心なさいましたものか。かえって罪を得ましょう。思い立って心を決めたその時は強い気持ちでも、年月が経つにつれ女の身の上というのはまことに難しいものでして……」
「幼少の頃より何かと心配事の多いわたくしでございました。親なども尼にして育てるかと言っていたこともあるくらいです。少し物心がつきましてからも普通の人とは違って、せめて来世ではと思う心が深うございました。この頃は亡くなる時期が近くなりましたものか、気力が萎えていくばかりです。どうか出家を」
泣きながら訴える浮舟に僧都は困惑する。
(なんとも不可解な……これほどの容姿をお持ちなのに、何故ここまで御身を厭わしく思われるようになったのか。あの時の物の怪もそれらしきことを言っていたな)
―――自分から世をお恨みになり、何とかして死にたいと昼も夜も口にされていたのにつけこみ―――
(余程の事情があるのだろう。今まで生きているはずのなかった人なのかもしれない。たちの悪い物の怪に目をつけられてしまったのは恐ろしいことだし、今後も危うかろう)
「とにもかくにも、ご自身で思い立たれて出家したいと仰るのは、三宝が最も尊びお褒めになることには違いない。法師として反対申し上げることではない。授戒を授けることはたやすいですが、ただ今は急ぎの用で下山いたし、今宵彼方の宮に参上せねばなりません。明日から修法も始める予定です。七日間のお勤めが終わりましたらお授けいたしましょう」
僧都の言葉に、浮舟は焦った。
(七日も後ではあの尼君が帰ってきてしまう。きっと反対されるに決まっている)
「御祈祷を受ける前と同じような気分の悪さで、たいそう苦しゅうございます。もし重くなりましたら授戒を受ける甲斐もなくなってしまうでしょう。やはり今日がちょうどよい機会と存じます」
と言って大泣きするので、僧都も絆されて、
「夜も更けてまいりましたな。山を下りますことは、若い時分には何でもなかったのですが、寄る年波で辛くなってきたもので、一休みしてから内裏にというつもりでした。そんなにお急ぎのようならば今すぐにお授けしましょう」
とうとう折れた。
浮舟は喜んで、鋏を取り櫛の箱の蓋を差し出した。
「おーい、大徳たち。こっちに来てくれ」
僧都の声に駆けつけてきた供人の中に、初めに浮舟を見つけた二人の阿闍梨がいた。
「ちょうどいい、そこの二人、この方の御髪を下ろし申せ」
発見された時の様子はまだ記憶に新しい。
(あんな目に遭った方だ。普通の人として此の世に暮らしていけないのだろう。無理もない)
とは思ったものの、几帳の帷子の隙間から掻き出した髪があまりに艶々と美しく、無下に切り落とすに忍びない。暫し、鋏を持つ手を動かせなかった。
参考HP「源氏物語の世界」他
にほんブログ村
コメント
コメントを投稿