手習 五
浮舟が髪を下ろしたその時。
少将の尼は自室に下がり兄の阿闍梨と談笑、左衛門も知人の応対中であった。久しぶりの僧都一行の訪問につけ、旧交を温めるのに忙しかったのだ。
ただ一人、浮舟の傍で成り行きを見守っていた女童のこもきが、
「こんなことが!」
と告げに走った。慌てて尼たちが駆けつけると、僧都が自身の法衣や袈裟を浮舟に形ばかり着せかけているところだった。僧都は、
「このようなお若くお美しい盛りで髪を下ろされたこと、ゆめゆめ悔いることなきよう」
三帰の功徳を説き十善戒を授ける。
(若すぎるからと皆に反対され引き留められていた出家を、ついに果たせた……これこそがわたくしの生きた甲斐であると、仏が示してくださったのだ)
浮舟はこの庵に来てはじめて、生きる喜びを感じた。
僧都一行が京に向けて出立すると、庵はしんと静まり返った。
夜の風の音に尼たちの嘆きが混じる。
「こんな心細いお住まいももう暫らくのこと、今にきっと素晴らしい良縁がと期待しておりました。なのに貴女をこんな姿にしてしまって……まだまだ先の長い人生、どうするおつもりなのですか。老いて衰えた人でも、いざ世を捨てるとなるとたまらなく辛くなるものですのに」
何を言われても浮舟は動じない。
(嘘のように気持ちが楽になった。素晴らしい良縁だなんて……そういう俗世じみたことを考えなくてよくなったことが何より素晴らしいわ)
胸のすく思いであった。
翌朝。さすがに誰の同意も得ずにやったことなので、明るい日の下に尼姿を晒すのも気恥ずかしい。髪の裾がガタガタに不揃いなまま、中途半端に削がれているのが気になって、
(うるさいことを言わないで削ぎ直してくれる人はいないかしら)
と思うものの自分からは言い出せない。
何からも身を引いて、部屋の中もわざと暗くしたまま座り込む。
他人に自分の気持ちを事細かに伝えるなど、元より苦手な浮舟である。まして今近くにいる尼や女房はさして親しくもない。弁明すべき相手とも思えない。
浮舟はただ独り硯に向かう。心がざわついてどうにもならない折には、手習いに思いのたけをぶつけた。
「我が身を亡きものに、人との繋がりも断ち切って
捨てたこの世を今また捨てた
もうこれですべて終わったのだ」
我ながら身に沁みる文字の列である。
「これを限りと思い成した此の世を
繰り返し背くことになった」
同じようなことを気の向くまま書き殴っていると、中将から文が届いた。まだ動転していた尼たちは、使者に浮舟の出家を伝えて帰した。
中将は仰天した。
(出家だと?!なんてことだ……世を捨てるって本気だったの?だからちょっとした返事もくれず距離を置いていたと……残念だ。あの、美しすぎた長い髪……もっとはっきり見せよと昨夜も彼方の女房に頼み込んで、ではタイミングを見計らってお呼びします~って話をつけていたっていうのに)
酷く落胆しながらもすぐに折り返し二通目を出した。
「何と申し上げていいやら……
岸遠く漕ぎ離れていく海人(尼)舟に
私も乗り遅れないようにと気が急きます」
浮舟は珍しくその文を手に取った。ただでさえしんみりしていた折、もうこれで最後だと思うと憐れを催したのか、その辺の紙の端に
「心こそ憂き世の岸を離れますが
行方もわからないまま漂っている海人(尼)の浮き木のようです」
いつもの手習いのようにサッと書き、包んだ。
「ちゃんとした紙に清書なさったら?」
と周りの女房達は言ったが、
「かえって書き損じてしまいそうですから」
とそのまま出してしまった。中将にとっては待望の自筆だったが、今となっては何の甲斐もない。ただただ胸が締めつけられる。
初瀬詣でから帰って来た人々はこの事態を知って大騒ぎした。
「わたくしも尼の身ですから、むしろお勧めいたすことが本来だとは思いますのよ。だけどまだまだお若い貴女がこれからどう暮らしていきますの?わたくし自身あとどのくらい生きられることやら、今日とも明日ともわかりませんのに……どうやって後々の憂いなくお世話できましょうかといろいろ考えて、仏様にもお祈り申し上げてきましたのよ……」
この世の終わりのように泣き伏す尼君を目の当たりにして、実の母親はまして亡骸もないままどれほど惑乱していたことか、と浮舟も悲しくなる。例によって黙り込んだまま顔を背けているその姿はひたすらに幼く、子供のようにあどけなく見えた。
「なんとまあフワフワと、頼りなげでいらっしゃること……」
尼君は泣く泣く、浮舟の法衣の支度にとりかかった。
尼用の服は慣れている。小袿や袈裟なども誂えた。周りの女房達も作業をしつつ、
「まことに思いがけなく山里に射した光と、朝晩嬉しく拝見いたしておりましたのに」「ほんに惜しいこと」「僧都も僧都ですわ、勝手にこんなこと」
非難の矛先は僧都に向かった。
こんにちは、侍従です!ご無沙汰してまーす。
え、もう忘れてる?浮舟の君の元女房で、今は明石中宮さまにお仕えしてまっす!
実を言うと、元の話ではもうアタシは出てこないんだけど、行きがかり上語らせていただきますね♪ヨロシクです!
中宮さまの愛娘・女一の宮さまがね、よくわかんない体調不良でずっと寝込んでらしたんだけど、すごいねあの横川の僧都とかいう人!メッチャ効果あったみたいでメキメキ良くなった!もう皆でさすがは名だたる尊いお坊様!ってやんやの喝采よ。
ただ、それなりに長く患ってたからまだ暫くは油断ならないってことで、御修法を延長したのよね。だから僧都一行は今夜も滞在中。一時の派手な加持祈祷はもうなくて、雨がシトシト降る静かな夜よ。
ずっと付き添っていらした明石中宮さまもすごく喜んでいらしたから、僧都を夜居の僧に指名されてお召しになったのね。直にお話ししたいからってことらしい。
この夜は側近の女房さん達、殆ど自分たちの局に引っ込んでたのよね。なにせ何日間も中宮さまと一緒につきっきりで看病してたもんだから、寝不足と疲労がもう限界突破よ。だから御前にはアタシみたいな下っ端の女房とかが数人だけ。それもまさかすぐ近くには寄れないから遠巻きにチラホラってかんじ。
女一の宮さまが寝てらっしゃる同じ帳台の辺りに中宮さまがいらして、
「昔から信頼申し上げておりました僧都には今回も助けていただき、ますます来世も同じようにお手を貸していただけるだろうと、頼もしさが一段と増しました」
手放しのお褒めの言葉よ。僧都は、
「私ももう長くはないと仏も教えてくださっていることもありまして、今年いっぱいいけるか、はたまた来年までもつか、というくらいの気持ちでおります。それ故仏を一心にお祈り申し上げようと山深く籠っておりましたが、この度の仰せ事にて下山してまいった次第です」
そんなことを仰りつつ、今回の物の怪が執念深かったこととかいろいろ名のったりしたとか、かなりホラーな話を散々した挙句に、
「そういえば……先だってたいそう不思議な、珍しいものを拝見しましてな。この三月に、年老いた母が願があるといって初瀬に詣でたのですが、帰途の中宿りに宇治の院とかいう所に泊まりました。あのような、人が住まなくなって長く経ちました大きな建物というのは、大抵よからぬものが通い住みます。重い病人には不都合があろうと思っておりましたがその通りでして」
いきなりあの話キター!
なんかさあ僧職の人って、本当口軽いよね……中宮さまの御前だし他に人もいないからって、スッカスカの平安家屋、誰がどこで耳を澄ましてるかわかりゃしないのに。ほらアタシみたいにさ。
まあアタシの感想はどうでもいいわね。
たださ、ふるーい建物の裏の真っ暗な中で、白い着物の女が蹲ってシクシク泣いてる―――なんて、絵面だけでホラーじゃん。しかも話し上手の僧都でしょ、すっごく真に迫ってるわけ。中宮さまからしたら「本当にあった怖い話」どころじゃない、夜中のことだし人少ないしですっかり怯えちゃった。
「なんということ……」
怖すぎて周りで寝てる女房さんを何人か起こされたんだけど、アタシみたいに最初からこっそり全部聞いてた人もいたのよね。誰だと思う?宰相の君よ。薫さまといい仲の。
僧都は畏れ多くも中宮さまをメチャクチャビビらせちゃったのにやっと気づいて、
(不用意だったな。配慮が足りなかった)
浮舟の君に憑いた物の怪がどうとかの描写は適当に打ち切って、
「このたび下山のついでに、小野におります妹尼たちを尋ねようと立ち寄りましたら、この女人が涙ながらに出家の志が深くあるとの由、切々と訴えましたので髪を下ろしてやったのです。故衛門督の妻であった私の妹尼には随分恨まれてしまいました。亡き娘の代わりにと随分労って世話していたものですからね、留守の間に勝手に出家させるなんて!と。まことにこの女人、顔だちが整っていて姿も美しく、尼として身をやつすのもおいたわしい限りでした。いったい何者なのか未だにわかりませんが」
とかなんとか結局、殆ど全部の経緯を喋り倒した。
ここで宰相の君のツッコミよ。
「どうしてそんな山奥に、それなりに身分のあるようなお方をお連れになったのですか?さすがに今では素性もおわかりなのでしょう?」
「さあ、私は知りませんね。もしかしたら妹尼には打ち明けているかもしれませんが……本当に高貴なお人ならば、今の今まで噂にすら上らないわけがないと存じます。田舎住みの娘であってもそこそこの姿形をした者はざらにおりますし、龍の中から仏が産まれることもあるといいますから。貴族でないのなら、さぞや前世の罪障が軽いのだろうと思いますね」
この辺りでもう全員が察したのよね。ああこれ十中八九浮舟の君だって。
特に宰相の君は自分の姉伝いに相当正確な情報を聞いてるから、あの当時
「不可解な亡くなり方をした人」
つまり薫さまが通ってたっていう宇治のあの人じゃ?ってすぐにピンと来た。だけど確証はないのよね。
僧都は、
「女人は自分が生きていることを誰にも知られたくないと、何かよからぬ敵のような人がいるかのようにほのめかして、ひたすら隠れ忍んでおります。あまりに事の成り行きが奇妙でしたので、お話の種にした次第です」
まだ言い足りないことはあるっぽかったけどとりあえず口を閉じて、念仏唱えに行っちゃった。
中宮さまは、
「きっとあの方ね……薫大将に聞かせないと」
って小宰相の君に耳打ちしてらしたけど、浮舟の君にしても薫さまにしても隠しておきたいようなことを、はっきり事実って確定してもないうちから言い出せないよね。ましてあのお堅い薫さま相手に……小宰相の君も賢い人だから、安易にそうだそうだって乗らないで目で会話してたわ。さすがだわね。
というわけでこの件については若干モヤモヤしたまんまだけど、女一の宮さまはすっかりお元気になられましたあ!よかったよかった。
六条院よりお届けしました、ではまた!
女一の宮の快癒を見届けて、僧都は京を出立した。山へ帰る途中で小野の庵に立ち寄るも、いきなり妹尼に食ってかかられる。
「こんなお若いうちに出家されては、かえって罪を得ることにもなりかねません。ご相談もなく勝手に髪を下ろされるなんて酷すぎですわ」
そうは言ってももう後の祭りだ。
「いやいや、今は勤行第一。お前も尼の身だろう。老いていようが若かろうが定めなき世。まして現世をはかないものとお考えになるのも当然な身の上なのだから」
僧都の言葉にたじろぎ、恥じ入る尼君。僧都は浮舟に、
「これで法服を新調なさい」
と綾や羅、絹などの布を差し出し、
「私たちが此の世にある限りは貴女の面倒はみる。何も心配することはない。此の世に生まれ出で、俗世間での栄華を願い執着しておるうちは身動きが取れず何をも捨てがたいもの。誰も彼もそうなのだ。こんな人里離れた林の中で勤行する身の上で、何を恨めしく恥ずかしく思うことがあろう。人の寿命など薄い葉のようなものだよ」
細々と説き聞かせて、
「松門暁到月徘徊」
(松の門に暁となり月が徘徊す)
白氏文集から引いて聞かせた。
法師としてはいささか風流の過ぎる振舞いであるにしろ、浮舟は
(まさにわたくしの期待していた通りの教えをくださった)
と感嘆しきりで、じっくり聞き入っていた。
終日風が止まない日だった。いかにも寂しげな音が響く中、
「ああ、山伏はこんな日にこそ声をあげて泣くものだよ」
僧都が一人ごちるのを聞いた浮舟は、
(わたくしも今は山伏なのね。通りで涙が止まらない)
と思いながら端の方に出てみると、軒端の遙か向こうから色とりどりの狩衣姿が見える。比叡山へ登る人々でも此方の道は滅多に通らない。黒谷とかいう方から歩いてくる法師の影はまれに見かけることもあるが、一般人は珍しい。よくよく目を凝らせば、浮舟に懸想していたあの中将であった。
今更何を言っても甲斐がないと百も承知で、それでもやってきた中将である。入るなり、余所より色濃く鮮やかな紅葉に目を奪われた。
(今ここに良い感じの女性でもいたら、あっという間に恋に落ちるだろうな)
と思いつつ、案内された場所に座り、
「少々暇が出来ましてね。手持ち無沙汰な気がしたものですから、此方の紅葉はどうだろうと思い立って伺いました。やはり素晴らしい。昔に戻って木の下で旅寝したいくらいですね」
と外を眺めている。尼君は例によって涙ぐみつつ、
「木枯らしが吹いた山の麓には
もう姿を隠す場所さえありません」
と詠みかけた。
「待つ人もないだろうと思う山里の
梢を見ながらやはり通り過ぎるには忍びないのです」
中将は尼となった浮舟のことを未練がましく歌に詠むと、こっそり少将の尼に
「お姿をすこしでも拝見させてくれないか?」
と頼み込む。
「以前、よい折があればと言っていたではないか。せめてそれだけでも約束の証として」
散々責め立てて、密かに浮舟の部屋に案内させた。
少将の尼君にしても、請われずとも人に自慢したいような浮舟の姿であった。薄い鈍色の綾、中に萱草のような明るく透明感のある色の衣装を着ている。かなり小柄だが体のラインが美しく、顔立ちが華やかで、髪は五重の扇を広げたように豊かな裾である。
きめ細やかで滑らかな顔は、まるで濃く化粧をしたように赤く染まっている。勤行をするにあたり、読経に集中するため数珠は近い几帳に掛けてある。絵にも描き残したいような有様であった。目にする度、少将の尼君は涙が止まらない。
(ましてお心を寄せた殿方はどうご覧になられるやら)
それこそ「ちょうどよい折」とみたのだろうか、中将に障子の掛け金の下に開いた穴を教えて、目隠しになる几帳も脇に押しやった。
覗き見した中将は驚愕した。
(これはなんと……こんなにお美しいとは。まさに理想的といっていいお方じゃないか……!)
浮舟の出家がまるで自分自身の落ち度から起こったかのように惜しく、悔しく、悲しかった。激しい恋情が溢れて来て止まらず、気も狂わんばかりに心が騒ぐ。これではさすがに気づかれてしまう、と中将はその場を立ち去った。
(あのレベルの美女がいなくなって、探し回らない男なんている?それに……親がどんな人だろうと、行方知れずになっただの、でなきゃ何かを恨んで世を捨てただの、勝手に噂になるよね?)
考えれば考えるほど不審な点が多い。
(尼とはいえこれほどの美人なら全然アリだよね……それどころかますます見栄えがして眩しいくらいだ。人目を忍んでいるようだし、ならばいっそ我が物に……)
などと下心満載で庵主の尼君と話をした。
「世俗の人であった時には何かと差し障りもあったのかもしれませんが、もう尼となられたのだから気楽におつきあいできましょう?そのようにお伝えください。亡き妻が忘れられずこうして此方に伺っておりましたが、もう一つ楽しみが加わりましたと」
「まことに先行きが心細く不安な境遇ではありますから、律儀に再々と訪れてくださいますのは嬉しゅうございます。わたくしがいなくなりました後も、どうか不憫に思ってくださいましね」
尼君がそう言って泣くので、中将は
(やはり縁者同士なのか?いったいどういう関係なんだろう?)
ますます訳がわからなくなる。
「将来にわたるご後見につきましては、寿命もわからない頼りない身ながら、お話を承った以上心は変わりません。それより、あの方を探されている親族なり何なり、本当に誰もいないのですか?そこら辺はっきりさせておきたい。だからといって気兼ねしようとも思いませんが、まだ何かお隠しのことがあるような気がして」
「世間と関わり合った暮らし方であれば、たしかに探し当てる人も出て来ましょう。ですが今は何もかも切り捨てていらっしゃる。もはや俗世にはお気持ちがないようです」
尼君はそう答えるだけに留めたが、浮舟の方にも文が来た。
「俗世を捨てられた貴女ですが
私までお厭いになるのは辛うございます」
丁寧に心を込めたであろう言葉の数々が取り次がれる。
「兄妹のようにお考え下さい。ちょっとした世間話などして楽しく過ごせれば」
と繰り返すが、
「風流な会話など、何の弁えもないわたくしには無理です……残念ですが」
やんわりと退いて返歌もしなかった。
(思いもよらぬ過ちを犯してしまったわたくしだから、何を言われてももう考えるのも嫌。何もものを言わない感じない枯れ木のように、誰からも見過されて終わりたい)
中将の恋心に応える気はさらさらない。
浮舟がこの小野の庵に来てから半年以上、ずっと欝々と沈み込んで物思いばかりしていたが、出家を果たして以降は如何にも清々した様子である。尼君とちょっとした冗談を言い交わしたり、碁打ちなどして一日暮らすこともあった。勤行も真面目につとめている。法華経は勿論のこと他の経文もたくさん読みこなした。雪が深く降り積んで訪れる人も絶えると、気がかりなこともなくなった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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