夢浮橋 二
薫は、文を持たせた童を
(このまま小野の庵に遣わそうか)
と思ったものの、人目が多すぎてどうにもならない。
ひとまず三条宮邸に帰り、翌日改めて出立させることにした。
特に親しい家来ばかり仰々しくない程度に二、三人を付け、昔から宇治への使者として使っていた随身も加える。
周りに誰もいない間に童―――小君をそっと呼び寄せて、
「お前の亡くなった姉の顔は覚えているか?もう此の世の人ではないと諦めていたが、実は生きていたらしい。赤の他人には聞かせたくないから、お前が行って確かめてきてくれ。ああ、母君にはまだ話してはいけないよ。きっと驚いて大騒ぎするだろうから、知るべきでない人にも知られかねない。あれほど嘆き悲しんでおられる母君がおいたわしいからこそ、まずは真実姉君なのかどうかお前が確かめるのだ。よいな?」
予め堅く口止めをした。
大勢の姉弟の中でも浮舟は抜きんでていた。幼な心に美しい姉の死を悼みつづけていた小君である。
その姉が生きていた!
小君は嬉しさのあまり涙が零れたのを恥じて、
「はい、はい」
とわざとぶっきらぼうな返事をして誤魔化した。
一方、小野の庵ではまだ早朝のうちに僧都の所から文が届いた。
「昨夜、大将殿の使者として小君が其方へ参上されたでしょうか?事の次第を承りまして困惑しており、いささか恐縮しておりますと姫君に知らせてください。私から申し上げるべきことも沢山ありますが、今日明日が過ぎてから伺います」
尼君は仰天して、
「これは、いったいどういうこと?!」
とすぐ浮舟に文を見せた。浮舟は顔をさっと赤く染めて、
(もう世間に知られてしまった?尼君に申し上げていないことまで?どうしよう)
動揺のあまりどう答えていいのかもわからず、言葉が出なかった。
「もう全部打ち明けてくださいませ。未だにお心を隔てておられるなんてあんまりですわ」
尼君がいくら恨みがましく責めても黙り込んでいるので、何ひとつ事情がわからない。ただ皆で慌てふためくところ、誰かが来客を告げた。
「山から僧都のお文をお持ちしました、とのことです!」
尼君はまた?!と不審がったが、
「とすると今度こそ、詳しい話がわかるかもしれないわ。此方へ!」
使者を案内させた。
現れたのは、たいそう可愛らしく品の良い少年であった。上等な装束をきれいに着こなして歩み寄る。
円座を差し出すと簾近くに膝をつき、
「このような余所余所しいお扱いは受けないだろうと、僧都が仰っておられたのですが」
といっぱしなことを言う。
尼君は返答をしつつ少年が持ってきた文を受け取る。
「入道の姫君の御方へ、山より」
とあり、僧都自身の署名がある。人違いなどと惚けることも無理だ。
浮舟は見るなりいよいよ後ずさりし、人に顔も向けない。
「引っ込み思案はいつものことだけれど、さすがに僧都から貴女宛のお文よ?ご自分で見もしないとは情けない」
尼君は溜息をつきながら僧都の文を開いた。
「今朝、此方に大将殿がいらっしゃいました。貴女の身上をお尋ねになりましたので、始めからの経緯を詳しく申し上げました。お心ざし深いお二人の絆に背き、賤しい山がつの中で出家されたこと、かえって仏のお叱りを受けましょう。事情を承り驚いております。もう今となっては致し方がありません。元々の御宿縁を損なうことなく、大将殿の愛執の罪を晴らして差し上げてください。一日であっても出家の功徳は無量といいますのでご安心を。詳細は拙僧自ら伺ってから申し上げます。とりあえず、この小君が貴女に申し伝えることでしょう」
疑う余地も無い。はっきり薫との仲を明記しているが、何も知らない尼たちには通じていない。
「この小君とやら、いったいどなたなの?本当に辛いこと……この期に及んでも頑なに隠し立てなさるとは」
尼君に責められた浮舟は、ようやく少し外の方に身体を向けた。少年は、この世を去ろうと決めた夕暮れ、最期にひと目会いたいと願っていた弟その人であった。同じ家に住んでいた頃はまだ幼く、生意気で我儘で憎たらしかったが、母がとても可愛がっていて、時々宇治にも連れてきていた。少し大きくなってからは仲良くしていたのだ。
子供だった頃の自分がまざまざと心に浮かぶが、すべてがまるで夢のように遠い。
(母君は今どうしているのかしら。それだけは聞きたい。薫さまや匂宮さまについてはチラホラと耳に入ることがあっても、母君のご様子は何一つ知る術がないもの……)
小君の顔を見て一気に母への恋しさが沸き上がった浮舟は、涙をぽろぽろ零して泣く。
尼君から見ても、小君の可憐な容姿は浮舟と似通うところがある。
「ご姉弟ではありませんの?ゆっくりお話ししたいこともおありでしょう、中に入れて差し上げては」
尼君の言葉に浮舟はなおも躊躇う。
(どうして今更顔向けできようか。もう死んだものと思われていたわたくし……世を捨てて尼となった姿など見せたくない)
長い沈黙の後、ぽつぽつと語り始めた。
「ほんとうに……心を閉ざしていると思われてしまいます苦しさに、うかうかと物も申し上げられません。宇治でわたくしを見つけられた時、あられもない姿をどれほど奇異なこととご覧になられたでしょう。長く正気を失い、魂と申すものも以前とは変わってしまったのでしょうか。どうにもこうにも、過ぎ去った昔を思い出すことが出来ません。紀伊守と仰る方が世間話をなさる中で、これは聞いたことがあるかも……と微かに気づくようなこともありましたが、その後はあれこれ考え続けましても、何もかもがぼんやり霞んだままです。ただ一人―――わたくしを何とか幸せにしてやりたいと並々ならず骨を折っていらした母君―――は、まだ息災でいらっしゃるかと……それだけが心から離れず、悲しい折々もございました。今日この童のお顔を見て、たしかに小さい時に覚えがあり、何とも堪えがたい気持ちになりましたが……もう今となってはそういった縁者であっても、生きていると知らせないまま終わりたく思っております。ただ母君だけ、まだ生きておられるのならばお逢いしとうございます。僧都が文で触れられた方には絶対にお知らせしたくありません。何とかうまく……人違いだったとでも申し上げて、このままお隠しください」
「隠せと仰られても無理ですよ。あの僧都と来たら、聖と申す中でも特に真っ正直ですからね。きっと一切合切打ち明けてしまっているでしょう。そうでなくとも、後々には必ずやどこからか漏れるもの。そんな雑な誤魔化し方をしていいお相手でもございませんよ」
尼君が懇々と諭し周りの女房達も騒ぐが、浮舟の心は動かない。
「なんという情の強いお方だこと」
皆で顔を見合わせつつ、母屋の際に几帳を立て小君を迎え入れた。
小君は、姉が生きてここにいるとだけ聞いていたものの、まだ子供なので気が引けている。
「……お文はもう一通ございます。是非、直にお渡ししたい。僧都のお導きは確かでしたのに、どうしてこんな、どっちつかずなお扱いなのですか」
伏し目がちに言うと、
「そうよね、なんてまあお可哀想に」
見かねた尼君が答える。
「お文をご覧になるべき人はここにいらっしゃいますのよ。傍にいる者はどういうことか訳がわからずにおりますから、もう少しお話ししてくださいません?随分お年若のようですが、このようなお使いを任せられたのには理由があるのでしょう?」
「余所余所しくもはっきりしないご様子のお方に、何をどう申し上げればよろしいのでしょう?他人だとお思いならばもう言う事もございません。ただこのお文を、人伝てではなく直接渡すようにと申しつけられております。どうぞお受け取りください」
「ちょっとお待ちくださいね……あんまりな対応ですわ。いくらなんでも冷淡過ぎます」
尼君は浮舟を促し、几帳の手前まで押して寄せた。されるがままに動かされるその気配は、明らかに他の者とは違っている。小君はさらに近寄って文を差し出した。
「お返事を早くいただきとうございます。さすればすぐに退散しますので」
冷たい対応に堪えかねた小君は帰りを急ぐ。
尼君は文を開いて浮舟に見せた。見慣れた手蹟、紙についた例の香りは世にもかぐわしく辺りに広がる。何にでも感心する出しゃばりの尼君は、たいそう有り難くも素晴らしいと思ったであろう。
「何と申し上げればよいのでしょうか―――さまざまに罪を重ねられたお心を、僧都に免じて許しましょう。ただ今はあの頃の、思いもよらぬ夢を語りたいと気が急いて、我ながらもどかしくてなりません。まして傍目にはどう映るやら」
途中で書きさした風に歌が続く。
「仏法の師と思い尋ね来た道を標としてきたのに
思わぬ山に踏み込んでさ迷っています
この童に見覚えはございますか?私にとっては、行方知れずになった貴女の形見です」
とりとめもないが深い愛情は感じられる。
細々としたためるこの書き方、まごうかたなき薫の文である。懐かしさはあれど、昔とは違う自分の尼姿を絶対に見られたくはない。もし見られてしまったら……と思うと身悶えしたくなるほど恥ずかしい。
泣いて泣いて突っ伏したままの浮舟に、さすがの尼君も
(いくらなんでもあまりに分別がなさすぎでは)
と困惑しきりである。どうあっても何らかの返事はせねばならない。
「何と申し上げますか?」
何度となくせっつかれた浮舟は、
「気持ちが混乱しているようですので、収まりましてからゆっくり……昔を探りましても、まったく思い当たることがありません。どうしたものか、まるで夢をみているように掴み所がないのです。すこし落ち着きましたら、このお文から記憶をたどることもできましょう。今日のところはお持ち帰りください。人違いであったなら申し訳ないことですから」
と文を広げつつ尼君に差し戻した。
「なんという往生際の悪いなされようなの。あまりに無礼な振舞いをされれば、世話をしている私たちも責められるのですよ?」
尼君に咎められた浮舟は、聞きたくないとばかりに顔も引っ込めて臥せってしまった。
仕方がないので尼君がこの小君の相手をして、
「物の怪の仕業かしらね。片時も普通の状態ではなく患いどおしで、尼にまでなってしまわれたものですから、もしお探しの人があれば面倒なことになろうと嘆いておりましたの。案の定でしたわ。こんなにおいたわしい、胸を打つ事情がございましたのに……まことに畏れ多いことに存じます。常日頃から病気がちでいらしたのですが、お文にお心を乱されたのかますます物わかりが悪くなっておられるようです」
などと言い訳をする。
山里らしい趣の饗応などもしてもてなすも、小君に楽しむような余裕はなかった。
「わざわざ私をお遣わしになられたというのに、何も成果が無かったでは済みません。たった一言でも仰ってください」
小君の切羽詰まった言いぶりに尼君も
「それはそうよねえ」
とため息交じりに奥に入り、浮舟に伝えるも答えはない。
「こうなったら仕方がない、これこれこういう状態でしたとありのままを申し上げるしかありませんね。遙か遠くに隔たった雲というわけでもないのですから、山風が吹いたとしてもまたきっと、お立ち寄りくださいまし」
小君としても、用もないのに日暮れまで居座るのも気まずいので帰ることにした。姉に会えると密かに期待していたのに、影すらも見ることができなかったのが何とも残念で口惜しい。後ろ髪を引かれつつ薫のもとに帰参した。
今か今かと待っていた薫は、小君が返事らしい返事も貰えず空振りに終わったのに失望して、
(なまじ使者など遣わさない方がよかったのか)
あれこれと思いを巡らせた。
(もしや、誰か他の男が隠しおいているのでは―――)
かつて遠い宇治に浮舟を住まわせるうち、匂宮にしてやられた苦い経験からだろうか。想像ばかりたくましくする薫であった。
――― 完 ―――
参考HP「源氏物語の世界」他
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