夕顔 ~右近ひとり語り~ その二
二
わたくしの仕えておりましたご主人、ここでは「夕顔」のお方さまとお呼びすることにいたします。
光の君と夕顔のお方さまの仲は、北の方はもちろん、他のどなたもご存知ありませんでした。ましてや六条の御方さまなど、いっさい知る由もないはずでございました。
初めはほんの遊び心でいらっしゃいました光君、日を追うごとに夕顔のお方さまにお心を奪われていかれますのが、わたくしのような者にさえ、手に取るようにわかりました。ただ、やんごとないご身分とお立場ゆえ、人目も煩く、毎晩通い詰めるというわけにもまいりません。
「いっそ我が二条院に迎えてしまおうか。世間を騒がすことにはなるが、致し方ない」
夕顔のお方さまを運命の女性と思し召し、本気でこのようにお考えになっていらしたようでございます。
「ねえ、もっと気楽なところでのんびり話したいね」
「これはまた異なことを。何だか今宵の貴方は、怖いようですわ」
「そうかな」
無邪気に笑われるお方さまにつられ、光君も微笑まれて、
「どちらが狐なのかな。今はこのまま化かされていたい」
といとおしげにおっしゃいます。
お方さまは「わたくしも」というように、そっと寄り添われて、身分のことさえなければ、まことにお似合いのお二人でございました。
光の君はこのときすでに、夕顔のお方さまがあの頭中将さまの思い人だったことを気づいておられたようなのですが、あえて問い詰めることはありませんでした。
ひとつには、お方さまが急に心変わりして姿を消すようなことはまずない、と信じていらしたこともありますが、ご自分が思うように通えなくなって、お方さまが他に心を移すことがあっても、それはそれで、むしろ愛情がいや増すのではないか、ともお考えだったようです。
なんと深く、不思議な縁でございましたことか。
三
忘れもしないあの晩……八月の、十五夜でございました。
月の光が煌々と、隙間の多い板屋にくまなく射し込み、見慣れたはずの住まいもまるで別の場所にように思われました。
夜明けが近づきますと近所の家々では、下賎の男たちがはや目を覚まし、
「はあ、貧乏はイヤだなあ」
「今年は商売もいまひとつだし、田舎に行き来する暇もないから、どうなるのやら心配だよ。北隣さん、聞こえてる?」
などと言い交わしております。
猥雑な界隈であけすけに聞こえてくる貧乏臭い会話、おいたわしくもお方さまは、大層恥ずかしく思っていらっしゃいました。見栄っ張りで高慢な人ならば、それこそ死にたくなるような有様の住まいでございましたが、夕顔のお方さまは、辛いことも嫌なことも気恥ずかしいことも、過剰に気に病むということはなく、いつも品よくおっとりと、おおらかでいらっしゃいました。
近所の家々の不躾で下品な様子も、その酷さを、今ひとつわかっていらっしゃらないようなところもあり、そのあたりが、気位ばかり高い風流人よりは余程罪もなく、憎めない感じでございました。
そうは申しましても、下た屋ばかりの通りでございます、まだ明けやらぬうちから、ごろごろという臼の音が雷よりもおどろおどろしく、枕もとのすぐ傍で響き渡ります。さすがの光君さまもこれには閉口なさっておいででした。高貴なお育ちのかたには、何の音なのかも見当がつかず、ただただうるさく耳障りとだけ思われましたようです。
あの頃、夕顔のお方さまと私たちが住んでいたのは、そのような場所だったのでございます。
ですが、其処此処から聞こえる、衣を打つ砧のかすかな音、空を飛ぶ雁の声。立派なお屋敷にはない、堪えられない趣深さもございました。庭に面したお部屋の遣戸を引き開けて、外をご覧になるお二人。こじんまりした庭でも、洒落た呉竹や、前栽の露などは、もっと大きく豪華な庭のそれと同じように、美しくきらめいておりました。
とりどりに虫の声も聞こえます。
いつもは立派なお屋敷の厚い壁越しに聞く蟋蟀の声が、耳に直接押し当てたかのように鳴き騒ぐのを、これはこれで珍しく面白いと楽しんでらっしゃるご様子の光の君。それもこれも夕顔のお方さまへの、お心ざしの深さゆえでございました。
夕顔のお方さま。ああ、今でもはっきりとそのお姿が目に浮かびます。
そのときは白い袷に、薄い色のやわらかな衣を重ねてらして、華やかとはいえないもののとても可愛らしく華奢なお姿、取り立てて何処其処が優れている、というわけでもございませんがその繊細でたおやかなご風情、口から出るひと言ふた言の、この上ないいじらしさ。
あまりにか弱く消え入りそうに儚い、美しいお方さま。
今思うと、僅かでもいい、もうすこし芯になるつよさがあったなら……これからお話しするようなことは起こりえなかったのかも知れません。
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参考HP「源氏物語の世界」
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