手習 二
こうしてお世話するうち四月、五月と飛ぶように過ぎ去りました。が、一向に良くなりません。わたくしは心配のあまり兄僧都に文を送りました。
「やはり一度山を下りて来ていただけませんか?この人を助けて下さいませ。何にせよ今日まで命がありますのは、死ぬべき運命ではないんですわ……きっと何かが取り憑いて離れないせいでしょう。兄君を神仏とも頼んでお願いいたします。何も京まで出て来いというのではありません。この小野ならばお山のうちでしょう?」
半ば強引に何度も訴えましたので、
「ふむ、たしかに不思議なことだな。今の今まで生き永らえている命、あの時見捨てていれば消えていただろう。何かの宿縁があればこそ私に見つけられたのであろうな……よし、ならばとことんまでやってみるか。それでダメなら命数が尽きたということだ」
「これほど長患いをしておれば、普通は見た目からして病みやつれてしまいますものを、いささかも衰えぬばかりか輝くばかりにお美しく、拗けたところもなくいらっしゃるのです。今わの際とも見えながら辛うじて蘇生いたしましたのも、ご本人に元から備わった美質ゆえではないかしら……何卒、お救いくださいませ」
わたくしはもう実の娘同様に、心底大事に思っておりましたので、途中から泣けて泣けて仕方ありませんでした。
「あの宇治の院で発見された時点でも、滅多に見ないような人であったな。どれ」
兄僧都はそっと覗き見ると、感心したように言いました。
「いやまことに、たいへんな美貌だね。何らかの功徳が報われて、これほど見目麗しくお生まれになったんだろう。いかなる行き違いでこんな酷い目に遭われたのやら……もしや、とでも思い当たるようなことはないか?」
「いいえ、まったく……きっと初瀬の観音様がわたくしに授けてくだすったんですわ」
「いやいや、何らかの宿縁に従ってお導きくださったんだろう。因縁無きことなどないからね」
兄は首をひねりつつも、修法の支度を始めました。
ですが弟子たちにしてみれば、到底納得のいかない振舞いであったようです。
「朝廷のお召しにすら従わず深く籠りきりだった山を出られ、気まぐれにこんな、何処の誰とも知れぬ女人のためにお勤めなさるとは如何なものか。誰かに聞かれたらどう思われよう」
アレコレと隠す算段をしながら、口に出して非難するものも少なくありませんでした。
兄僧都は、
「大徳たち、まあ静まらんか。私は破戒無慚の法師にて、破った戒律は数えきれないが、女方面で何か言われたことも過ちを犯したこともない。六十過ぎの今になって世の誹りを受けるとならば、それこそ前世からの因縁というものよ」
と涼しい顔です。
「口さが無い連中が面白がって埒も無い噂を言いふらしたりすれば、仏法の瑕ともなりかねませんぞ!」
なお渋る弟子たちをよそに兄は、
「これで効き目が無かったら、私はもう二度と修法などせぬよ」
並々ならぬ決意のもと、一晩中加持祈祷を行いました。
そうして、もうすぐ夜も明けようかという頃。
何かが憑坐に乗り移りました。
「何奴がここまで人を惑わせたものか……!」
あらましだけでも言わせようと、弟子の阿闍梨たちも交替で声を張り上げます。
何か月もの間一切現れることのなかった物の怪がつよく調伏されて、ついに―――
「私は、このような場所で、このように調伏されるような身の上の者ではないッ……生前は修行中の法師だったのだ。現世にいささかの恨みをとどめ彷徨ううち、良い女が大勢暮らしている場所に棲みつき……一人は命を失わせたが、この人は……自分から世をお恨みになり、何とかして死にたいと昼も夜も口にされていたのにつけこみ……とある真っ暗な晩、独りで起きているところに憑りついた。だが、観音が何やかやと加護なさったものだから、この僧都に負けてしまった……もう帰る。帰るッ……」
などとわめき立てたのでございます。
「お前は誰なのだ?」
と兄が問いましたが、憑かれた者の能力がさほどではなかったせいでしょうか、あとは言葉にはなりませんでした。
憑き物が落ち、ご本人の気分もスッキリ晴れたのでしょう。少し意識も戻って辺りをキョロキョロと見回していらっしゃいます。ですが一人として見た顔のものはなく、皆老いた法師か、腰の曲がった者ばかり。お可哀想に、きっと知らない国に来たかのように思われたのでしょう。何とも悲し気な表情をしていらっしゃいました。
女は―――浮舟その人であった。
昔のことを思い出そうとしても、何処に住んでいたのか、何という名前だったのかすら判然としない。ただ―――自ら川に身を投げようとしたことだけははっきり覚えていた。
(わたくしは……何処に来たのかしら?たしかあの時は……酷く辛くて、何かと思い煩って泣いてばかりいた。女房たちが寝静まった後、妻戸を開け放って外に出たら……風が激しく吹きつけて、川波も荒々しい音を立てていた……独りぼっちで怖ろしくて、しゃにむに簀子の端に足を差し下ろしたものの、どっちへ進めばいいのかもわからなくて……引き返そうか、いや絶対に此の世から消えるのだと気力を奮って、
『誰かに見つかって連れ戻されるくらいなら、鬼でも何でもいい、わたくしを喰い殺して……!』
と呟いて座りこんでいたら……そうだ、とてもきれいな顔をした男が近づいてきた。
『さあ、おいで。私の所へ』
と言って抱き上げられて……あれは誰だったのかしら。宮……?とか仰る方のような気がして、いいえそんなはずはと……ああ、頭に霞がかかったよう……それから知らない所に置いていかれて、男はいつの間にか消え失せてしまった。とうとう目的も果たせないまま終わったのだと泣きに泣いて……そのあとは何ひとつ覚えていない)
(ここにいる人たちが言うには、あれからだいぶ日数が経ったらしい。どれだけみっともない姿を見知らぬ人に晒してしまったのかしら……恥ずかしい。結局わたくしは死ねなかった……おめおめと生き延びてしまった)
考えれば考えるほど口惜しく、辛くてたまらない。寝たきりで人事不省だった間は、食事も出されるがまま口に入れていたが、正気に戻った今はかえって薬湯すら拒んだ。
「何故そんなに頼りなげな風にばかりしていらっしゃいますの。ずっとお熱がありましたのも下がりましたし、治りきったようで嬉しく存じておりますのに」
小野の尼は涙を落しながらも、気を緩めることなくつきっきりで世話をする。他の女房達も、若く美しい浮舟を気の毒がって真心から看病した。浮舟の内心では依然、
(どうにか死ねないものか)
という気持ちがあったが、あれほどの危篤状態から快復をみた生命力の強さは半端ではなかった。徐々に枕から頭も上がるようになり、食欲も出て来た。ぼんやり影の薄かった顔も引き締まって輪郭がはっきりしてきた。
喜ぶ周囲をよそに浮舟の表情は暗いままで、
「わたくしを尼にしてくださいませ。さすれば、まだ生きようもあろうというもの」
などと言う。
「まあ、そんなお若いみそらでおいたわしい。どうしてそんなことが出来ましょう」
小野の尼は兄の僧都と相談して、ただ頭頂部の辺りを形ばかり削ぎ、五戒のみを受けさせた。浮舟にとっては不十分すぎる処置であったが、元々はっきり物を言えない性分で、強情に望みを押し通したりはしなかった。
僧都は、
「これで今のところは大丈夫だろう。よくよく養生させて大事に看病しておやり」
と言い置いて山へと去って行った。
小野の尼にとっては、まさに夢のような贈り物だった。
浮舟が少しずつでも元気になっていくのが嬉しくて、せっせと身体を起こして座らせ、髪もきれいに削いでやった。長い間束ねたままほったらかしだった割には殆ど乱れがなく、紐を解き放つと豊かな黒髪が艶々と広がった。「一年足らぬ九十九髪」というような白髪頭の者ばかり多い所に、目も絢な若く瑞々しい女……まるで天女が降臨したかのような……そのまま忽然と消えてしまいそうな危うさまで感じられた。
※百年に一年たらぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ(伊勢物語)
「貴女はどうしてそんなにお辛そうなの?わたくしたちは皆貴女のことを大切に思っておりますのに、頑なにお心を閉ざしていらっしゃるように見えます。どこのどなたで、なぜあんな場所にいらしたのですか?」
思い切って尼が問うと、浮舟はたいそうはにかんだ様子で、
「寝たきりでいる間にすべて忘れてしまったのか、以前何をしていたのかまったく覚えていないのです。ただ、かすかに記憶に残っておりますのは―――もう死んでしまいたいと思いつつ、夕暮れになる度端近でぼんやりしておりましたら、庭先の大きな木の蔭から誰かが出て来て、何処へやら連れて行かれた……それだけです。それ以外のことは何も……わたくし自身のことは何も思い出せません」
と、まるで幼い子供のような声で言い、
「この世にまだわたくしが生きていることを知られたくないのです。どうか、誰にもわたくしのことは仰らないで……」
さめざめと泣く。あまり問い詰めても苦しめるだけと悟った尼は、それ以上は聞かなかった。
(かぐや姫を見つけた竹取の翁のような……いいえ、それ以上かもしれない。この子も同じように、いつかふっと消え失せてしまいそうだこと)
気が気ではない。
この小野の庵に住む尼の母娘も元は貴族である。「大尼」と呼ばれる八十過ぎの母親は高い身分の出であった。「尼君」と呼ばれる娘の方は上達部の北の方で、夫亡き後は一粒種の女子を大事に育て上げ、佳き公達を婿に迎えて世話にいそしんでいた。その娘が早くに世を去ったことであまりに無情な世をはかなみ、思いつめた挙句に髪を下ろし、この山里に住み始めたのだ。
亡き娘への思いは年月とともに薄れるどころかいよいよ深くなるばかりであった。せめて代わりになるような誰かを見つけたい……所在なく心細い山暮らしの間ずっと、尼は願い続けていた。
そこに思いがけなく飛び込んで来た浮舟―――しかも我が娘より容姿も何もかも勝っている。未だ現実のこととも思えず、夢のような心地がするも、とにかく愛情を傾ける相手が出来たのが嬉しくてたまらない。
五十を過ぎている尼だが、顔つきは美しく知的で立ち居振る舞いにも品があった。
この小野を流れる高野川は、宇治のそれよりも水音が穏やかだ。庭の造りも洒落ていて、木立ちや前栽も小奇麗に整えられ、風雅の極みである。
季節は秋に向かい、空の景色も心に沁みる頃である。門田の稲を刈るというので、土地の風習を真似た若い女房達が楽し気に唄を謡う。鳴子を引き鳴らす音が軽やかに響く。浮舟にとっては幼い頃に見た東国の風景そのまま―――実のところ、記憶は戻り始めていたのだ。
この庵は、あの「小野の山荘」――夕霧の妻・落葉の宮とその母がかつて住んでいた――よりは今少し奥まった場所にあり、山の斜面に沿って建てられている。鬱蒼と茂る松の影が濃く、風の音が如何にも心細い。勤行より他にすることもなく、静かにゆるゆると時が過ぎていく。
月の明るい夜には決まって小野の尼が琴の琴を弾く。少将の尼君と称する女房が琵琶を弾き合わせる。
「貴女も如何?何もすることがなくて退屈でしょう」
尼が誘いかけるが、のんびりした田舎育ちの浮舟には何の心得も無い。
(楽器を弾くお稽古なぞついぞやったこともない……風雅な嗜みも何もない大人になってしまって)
盛りを過ぎた女たちが「気晴らしに」琴を掻き鳴らす折々につけ、
(何一つ取り柄も無い、何とつまらない身の上なのだろう……わたくしという女は)
と我ながら情けなく、手習いに歌を詠んだ。
「身を投げた涙の川の速き瀬を
堰き止めて、誰がわたくしを救い上げたのでしょう?」
思いのほか気持ちが凹み先々への不安に駆られる。そんな自分自身がほとほと嫌になる。
煌々と照らす月の下、老女たちは艶やかに歌を詠み思い出話に花を咲かせる。若い浮舟がその輪に入り込めるはずもなく、気の利いたことひとつも言えない。ただ独りつくねんと思いに耽る。
「私がこのように嫌な此の世に生きていると
誰が知ろうか、あの月の都では」
これが最期という時には逢いたい人も多かったが、今は特に思いつかない。ただ、
(母君はどんなに嘆いておられるだろう。乳母は何かとわたくしを一人前にするのだと躍起になっていたのに、どんなに気を落していることか。今どこにいるのだろう……わたくしがこうして生きているとは夢にもご存知ないわね……)
共感してくれる人も今は誰もいない。何でも遠慮なくお喋りして馴れ親しんでいた乳母子の右近の顔が浮かぶ。
浮舟のような若い女が独り山里で、人生これまでとすべてを断ち切って籠ることは難しい。女房達は皆かなりの年寄りで、常時仕えているのは七、八人に過ぎなかったが、その娘や孫が時折京から尋ね来た。宮仕えに出ているものや結婚しているもの、様々である。
(この人たちのどなたかがもし、あの宇治の山荘近辺に出かけたり噂を聞いたりすることがあれば、わたくしの素性に思い当たる節があるかもしれない。わたくしが生きていると……もし薫さまや匂宮さまのお耳に入りでもしたら……ああ、いやだ。どんな尾ひれはひれがつくか知れたものではないわ)
(いったい今までどうしていたのか、どこで流離っていたのか、きっといろいろお考えにもなるだろう。例えば―――卑しい身分の男とでも関わったのでは、とか)
そんなわけで浮舟は、来客時には更に奥に籠って少しも姿を見せなかった。小野の尼が私的に使っている侍従という女房、こもきという女童の二人だけが傍仕えに充てられていたが、その容姿も気立ても都でのそれとは比べ物にならない。
何かにつけ不満がないではないものの、
(この世で身を隠すとしたら此処のような所が一番なのかもしれない)
とも思う。
小野の尼もそんな浮舟の様子から、
(よほど厄介な事情がおありなのだろう)
と察して、女房たちの前では極力浮舟の話題には触れないでいた。
参考HP「源氏物語の世界」他
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