手習 三
琵琶湖から見る比叡山:比叡山延暦寺HPより |
小野の尼君の亡き娘の婿はこの時、近衛中将となっていた。その弟・禅師の君は横川の兄僧都の弟子として山籠りしている。中将は他の兄弟とともにたびたび比叡山を登ったが、その前後に小野の庵にも立ち寄ることがあった。
この日、久しぶりに中将一行がやってきた。前駆が先払いしつつ身分のありそうな男が入って来る―――浮舟には、宇治の山荘に人目を忍んで通う薫の姿と重なってみえた。
なんとも心許ない簡素なつくりの庵ではあるが、小奇麗に趣味よく調えて住みなしている。垣根に植えた撫子も形よく、女郎花や桔梗なども咲き始めたところに、色とりどりの狩衣を身に着けた若い男たちの集団が加わって、賑わしさも一通りではない。
同じような狩衣姿の中将は南面に迎えられ、座ったまま辺りを見回している。年は二十七か八だろうか、いっぱしの官人らしくものを弁えた態度である。
小野の尼君は障子口に几帳を立てて元婿と対面した。挨拶より先にまず涙が零れる。
「年月が積もりますれば、過ぎ去ったことはあれもこれも遠ざかるばかりのような気がいたしますが、この山里での栄えとして貴方さまのご訪問をお待ち申し上げる気持ちだけは忘れません。不思議なものですね」
「心の内でしみじみ昔を思い出さない折はありませんが、きっぱりと俗世を離れられましたご様子に、つい気後れしてご無沙汰申し上げました。山籠もりの弟が羨ましくてちょくちょくと出かけてはおりますものの、是非にと便乗したがる人々に邪魔される格好で、中々此方までは伺えませんでした。今日は皆すっかり断ってまいりましたので」
「まあ、山籠りを羨まれるなんて、かえって今時の流行りに乗っておられるようですわ。亡き娘をお忘れにならないそのお心ざし、何でも新しいものを追いかけるばかりの世間の風潮には染まらずいらっしゃると、ひとかたならぬご厚意に常々感謝しておりますのよ」
家来たちには水飯が、中将には蓮の実のような軽食が振る舞われた。元婿と元姑の気安さで、この手の饗応をする方も受ける方も馴れている。折よく降り出した村雨にも足止めされ、ゆっくりと話をかわす二人である。
(亡くなった娘を惜しむというより、この婿君―――申し分ない細やかな情愛をお持ちのお方が、もはや他人だなんて残念でならないわ。どうして忘れ形見の一人でも残していかなかったのか……)
小野の尼君は短かった娘夫婦の幸せな暮らしを未だに引きずっている。こうしてたまさかにでも自分を訪ねてくれる元婿の思いやりがしみじみ有り難く、つい気が緩んで言わずともいいことをも口走りそうになる。
浮舟は浮舟で否が応でも記憶を呼び覚まされて気持ちが落ち着かない。ぼんやり外を眺めるその姿は非常に美しい。ただ白いだけの簡素な単衣に尼の檜皮色を見習ったかのような艶のないくすんだ赤の袴という恰好は、
(何もかも以前とは違う)
という思いはある。
だがそんなごわごわした肌触りのよくない地味な衣装を着ていても、年老いた尼ばかりのこの庵では格段に目立つ。女房達は、
「亡き姫君が帰っていらしたような心地でいたところ、中将殿までいらしたとは……感無量ですわね」「ね、同じことなら昔のように婿殿として通っていただければよろしいのに」「そうよ、きっとお似合いのご夫婦になられますわ」
などとこそこそ言い合っている。漏れ聞いた浮舟は密かに思う。
(とんでもないことだわ。生きている間はどんなことがあっても結婚などするものですか。何かにつけ思い出したくもない過去に向き合わねばならないし、もう恋愛沙汰など懲り懲り……全部断ち切って忘れたい)
尼君が奥に引っ込んだ後、客人は一向に止まない雨に倦んで、更なる話し相手を呼び寄せた。
「その声、やはり少将の君だったか。昔は世話になったね。馴染みの人たちは皆此方で仕えているのだろうと思いつつも、このところ伺うことも難しくなってしまって、さぞ薄情なことと思っていらしただろうね」
婿として通っていた間、主に世話をしていた女房が少将の君であった。中将は暫し思い出話に花を咲かせた後、そういえば……と切り出した。
「さっきあちらの廊の端で、風が強く吹いてね。簾が動いた隙間から普通の女房とも思えない人が見えたんだ。髪が長く尾を引いててね、尼ばかりの中に誰が?と驚いたよ」
少将の君は、
(さてはあの方が奥に入っていく後姿をご覧になったのね。もっとハッキリ見せたなら、きっとお心を奪われるにちがいないわ。亡き姫君など全然及びもつかない容姿でいらしたのに、未だに忘れがたくいらっしゃるんだから)
と独り決めして、
「尼君は亡き姫君が諦めきれず、お気持ちの持っていきようがございませんでしたの。それが最近、思いがけなく代わりになるようなお方を手に入れられまして、明け暮れの慰めにされております。きっとその方をご覧になったのでしょうね」
などと言う。
(なんと、そんなことが。何者なのだろう?本当に良い感じに見えた)
中将は一気に興味を引かれ、ちらりと垣間見ただけの面影を追う。詳細を聞こうとしたが、少将は直截には言わず、
「そのうちおわかりになりましょう」
とかわしたので、急にアレコレ問いただすのも気恥ずかしくなって口を閉ざした。
「雨も止みました。日も暮れてまいります、今のうちに」
折しも、出立を促す家来の声が上がった。
中将は庭先の女郎花を折り、
「何匂うらん」
※ここにしも何匂ふらむ女郎花人のものいひさがにくき世に(拾遺集雑秋、一〇九八、僧正遍昭)
と口ずさみつつ、名残惜しそうに立ち去った。
「人の物言いが気になると」「あんなに興味津々でいらしたのに、真面目な方ねえ」「まことにスッキリと理想的な男ぶりでいらっしゃいますこと。同じことなら、昔のように婿君としてお世話したいものですわね」
褒めちぎる古参の女房たちに尼君も同調する。
「藤中納言のお邸には足しげく通っていらっしゃるらしいですが、たいしたご執心もなく、もっぱら親のお住まいでお暮しとのことですわ」
浮舟にも語りかけた。
「いつまでもお心を閉ざしていらっしゃるのがつらくてたまりません。もはやこれは宿縁なのだと腹を括って、晴れやかなお気持ちでいてくださいませ。この五、六年片時も頭を離れることのなかった亡き娘への想いも、こうして貴女をお世話するようになって以降はすっかり忘れておりました。貴女をご心配申し上げるお方がどこかにいらしたとしても、今は亡くなったものと諦めておられるでしょう。誰でも、何でもそうですが、その当座の気持ちのままではいられません。変わっていくものなのよ」
浮舟は聞くうちに涙ぐんで、
「心を閉ざしているつもりはないのですが、何の間違いか生き返ってしまい、万事が夢の世界のようにぼんやりしたままなのです……違った世に生まれた人はこのような気持ちになるのかと存じます。今は、知った人が生きていようがいまいが気になりません。ひたすらに貴女さまを頼りに思っております」
と言う。本心からの言葉に聞こえ、尼もつい笑みを誘われた。
一方、中将一行は弟のいる横川の寺に到着した。久しぶりの訪問に僧都も喜び、近況など語り合う。夜を徹して声の尊い人に経など読ませ、管弦の遊びも催した。
その後中将は、弟の禅師の君と二人で水入らずの話をするついでに、
「此方に来る前に小野の庵に立ち寄って来たんだが、何とも趣のある住まわれようだった。世を捨てたといってもあれほど嗜みの深い方は滅多にいないだろうね」
と尼君の暮らしを褒めつつ、
「風に吹かれて開いた隙間から、すごく髪の長い素敵な女性が見えたんだ。人目につくのを憚ったのか、立って奥に入ろうとする後ろ姿が並の人とは見えなかった。あのような庵に身分の高い女性を置くものではないね。朝から晩まで見るのは法師ばかりだ。知らず知らずそういう暮らしに慣れて、常の嗜みを忘れてしまってはよろしくない。お前は何か知っているか?」
庵で見た人の話をした。禅師の君は、
「この春、尼君方が初瀬詣でをした際に偶然見つけた方、と聞いております。ただ私自身がこの目で見たわけではないので、詳しくは」
「偶然?それはまた不可解な話だな。どういう人なんだろう?世をはかなんでああいう場所に隠れ住んでいるとか?昔物語を地で行くような感じだね」
中将はますます好奇心を抑えられなくなったか、翌日の帰り道も、
「とても素通りできない」
と再び小野に立ち寄った。
庵の面々も、この中将の行動はある程度予測して準備を整えていた。昔と同じように主として接待するのは少将の尼君である。その袖口は鈍色に変わっているものの、それはそれで場所柄に合った風情がある。
小野の尼君はましてこの流れに目を潤ませる。
中将は挨拶もそこそこに、
「此方に隠れてお住まいの方はいったいどなたなのでしょう?」
と問うてきた。尼君は
(え?!何でそれを……ここまで単刀直入に聞いてくるということは、どこかで隙見でもしたんだわ。ならば否定したところで仕方ない)
と思い、
「亡き人を忘れかねて罪深いとばかり存じておりました折に、慰めとしてここ数か月お世話している方です。どういうわけかいたく世を厭うておられ、生きて此処にいることを人に知られたくないようです。こんな谷の底まで誰が尋ねてまいりましょうかと思っておりましたが……どなたからお聞きになったのでしょう?」
ごく正直な返答をした。
「一時の気まぐれ心で馳せ参じるにしても、山深い道の恨み言くらいは申し上げましょう。まして尼君が亡き妻の代わりと思し召しの方なら、夫の私に隠し立てすることはない。どういった事情で世を厭われているのでしょう?私でよければお慰めしたく」
中将はストレートに気持ちを伝え、帰りがけには畳紙に、
「浮気な風に靡かないで、女郎花よ
私のものとなってくれ道は遠くとも」
と書いて少将の君を介して届けさせた。尼君もこれを見て、
「お返事を書きなさい。礼儀正しいお方ですから心配することはありませんよ」
と勧めたが、浮舟は
「字があまりにも下手なので……とてもとても」
頑として書かない。
失礼だとなおも説得を試みたが無駄であった。
やむなく尼君が代筆した。
「申し上げましたように、世慣れず普通とは違った方ですから――
此方に移し植えて思い乱れる女郎花です
憂き世に背を向けた草の庵で」
初めの文に本人からの返事がないことはよくあることである。中将も納得して帰った。
文を続けざまに送るのはさすがに若者めいた振舞いと思い控えたが、垣間見た姿が忘れられない中将であった。浮舟が何を憂えているのかは謎のままなので、余計に気になって仕方がない。
それから十日ほど後の八月十余日、中将は小鷹狩りにかこつけて小野に寄った。
例によって少将の君を呼び出し、
「ひと目見てからどうにも心が騒いで収まりません」
と言づけた。浮舟からの返事は望むべくもなく、尼君から
「待乳(まつち)の山、のように誰か他に思う人があるような気がいたします」
※誰をかも待乳の山の女郎花秋と契れる人ぞあるらし(新古今集秋上-三三六 小野小町)
と返された。
中将は尼君と対面し、思いのたけを吐露する。
「おいたわしい境遇で暮らしていらっしゃるというお方の身上を、もっと知りとうございます。私自身、何事も思うに任せないことばかりで、世を捨て山住みとなろうかという気もありますが、親どもをはじめ到底許されるはずもありません。何の屈託もなく楽し気な今の妻は、私のような塞ぎがちな男には相応しくない。何かに悩んでおられる人とこそ、思うさま語り合いたいのです」
「お悩みの方をご所望と仰るなら、たしかに不似合いでもなさそうですが……何しろ普通の暮らしはしたくないと仰いますの。それほどに世を厭うておられますのよ。残り少ない寿命のわたくしでさえ、さあ世を捨てるとなった時にはたいそう心細い思いをしたものですが……まだまだ先行きの長いお方が尼としての暮らしを全うできますかどうか、心配ではありますね」
小野の尼君はまるで親のような口をきいて、一旦奥に入った。浮舟に向かって、
「あまりに情が無いのでは?少しでもいいからお返事なさい。こんな侘び住いだからこそ、些細なことでも思いやりを以て相対するのが常識というものですよ」
などと窘めるも、
「人に何か申し上げる作法も存じません、万事お話にもならないわたくしですので」
取りつく島もなく突っ伏してしまった。
御簾の外で延々待たされる中将は、
「返事もなく放置か……なんと冷淡な仕打ち。『秋になれば』とお騙しになったんだね」
などと恨みながら歌を詠みかけた。
「松虫の声を尋ねて来たが
再び萩原の露に迷ってしまいました」
「お可哀想ですわ、せめてこの歌にはお返事を」
尼君がなお責め立てるも、浮舟にしてみれば、明らかに色恋めいたやりとりに踏み出すつもりは始めからない。一旦返歌をしてしまえば以降も文が来るだろうし、そのたびにいちいち責められるに違いないこともわかっている。ただただ煩わしいのだ。
筆を取ろうともしない浮舟に、尼君も周囲の女房達も顔を見合わせる。
このような局面でどう振る舞うか、若かりし頃の経験で多少は心得ている尼君がまた代わりを務めた。
「秋の野の露を分けて来た狩衣は濡れましたが
葎の繁る我が宿のせいにしないでください
という感じで、迷惑がっておられるようです」
御簾の内では様々な思惑が錯綜する。
(やはり隠れたままではいられないのね……いつの間にかわたくしが生きて此処にいるということが漏れ始めている……なんと嫌なこと)
浮舟の事情は誰も知らない。ましてその思いが理解できるわけもなく、中将を元婿としていつまでも懐かしがり慕っている女房達は、
「お立ち寄りくださったついでに、少しの間お話をしたいというだけですよ?」「中将殿に限って、お気持ちを考えずに油断ならないような振舞いなどなさいませんよ」「世間並の色恋とまではいかなくても、せめてお心は汲んで一言だけでも差し上げてくださいませ」
引っ張り出さんばかりに訴える。
世を捨てたはずの尼たちが年甲斐もなく色めき立って、下手な歌を得意げに詠んでははしゃいでいる様子が、浮舟には不可解この上ない。
(どうにもならない不幸な我が身と見極めて一度は捨てた命なのに、呆れるほど長かった……この先どこにどう流離っていくのかしら。ただ亡くなった者として誰からも気にされることなく終わりたいのに)
臥せったままで動かない浮舟を、誰もどうすることもできずただ時が過ぎていく。
中将は、自身の悩み事にも思い至ったのだろうか、大きな溜息をついてそっと笛を吹き鳴らした。
「鹿の鳴く音に」
※山里は秋こそことに侘しけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ(古今集秋上-二一四 壬生忠岑)
と独りごちるさまは、それなりに風流の嗜みがあると言えなくもない。
「過ぎ去った昔を思い出すにも心は騒ぎます。今の私を受け入れてくださる人もいないようですね。都を離れた山路には憂いも見えぬものと思っておりましたが……どうやら間違っていたようです」
※世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(後撰集雑下-九五五 物部吉名)
そう言って立ち上がった中将を、いざり出て来た尼君が引き留めた。
「どうして『あたら夜を』ご覧になりませんの?」
※あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや(後撰集春下-一〇三 源信明)
「どうしてと仰られましても。そちら様のお気持ちはよくわかりましたし」
中将は軽く返して、出て行こうとした。
(ここまでハッキリ拒絶されてまだしがみつくなんてみっともない。ほんのちょっと見えた姿が目に留まっただけ、時折寂しい心の慰めとしていただけだ。あまりに余所余所しい、少しも歩み寄る気も無い態度は、場所柄にも相応しくないし不愉快だよね)
あからさまに意気消沈した中将を、尼君は何としてもそのまま帰らせたくなかった。こんな別れ方をしては、もう此処に立ち寄ることすらなくなってしまうだろう。そう思うとあの笛の音すらも惜しい。
「深き夜の月を哀れと思わないのでしょうか
山の端近いこの宿に泊まりませんか」
と、どこかチグハグな歌を無理に詠み、
「このように申しております」
浮舟と偽って言づけた。中将は一転胸をときめかせ、
「山の端に入るまで月を眺めていましょう
それでお目にかかれるのなら」
帰ろうとした足を止め、ふたたび笛を吹き始めた。
その笛の音を聞きつけたのであろうか、大尼君がいそいそと奥から出て来た。
八十を過ぎた年寄りなので口を開けばしょっちゅう咳き込み、声は震えて聞きづらい。昔がどうだこうだという話が出ないのは、つまり目の前にいる中将が誰なのかもわからないせいだ。
「これ、琴の琴を!どなたかお弾きなさいな。月に横笛、とても似合いますねえ。女童たち!はよ琴を、琴を持ってらっしゃい!」
中将にもその声は届く。
(なんと、この草庵で大尼君が今の今まで息災だとは……孫娘は若くして亡くなったというのに、まさに定めなき世だな)
感慨にふけりながらも盤渉調を実に美しく吹き、
「さあ、ご一緒に」
と御簾越しに誘った。
尼君もそれなりの風流人ではあるので、
「昔お聞きした音色よりなお一層素晴らしく思えますのは、山風だけを聞き馴れましたこの耳のせいでしょうか。ご相伴いたしましょう、間違いだらけかもしれませんが」
誘いを受け弾き始めた。
琴の琴はこの当時すでにメジャーなものではなく、好き好んで弾く者も減りつつあったが、だからこそ新鮮で音が心に沁みた。松を揺らす風にも実によく調和する。吹き合わせた笛の音と月の光がひとつになり、夜はいよいよ澄みわたる。興趣あるその情景に大尼君も眠気を忘れ目を見開く。
「昔はこの婆も、東琴くらいは難なく弾いたものだけど、世の中は変わってしまったわね……息子の僧都にも、
『聞き苦しい。念仏以外のくだらないことはするな』
と叱られたものだから、ああそう……と弾かなくなったの。とっても良い響きの琴もあるのにねェ……」
同じことを何度も言い募り、いかにも弾きたそうな素振りをみせる。中将が苦笑して、
「なんとも妙なことを仰る僧都ですね。極楽浄土では菩薩などが楽を奏で、天人が舞い踊るといいますのに。勤行の障りになって罪を得るということでしょうか?それほどの腕前、今宵は是非お聴かせ願いたいものですね」
とそそのかすと、大尼君はいい気になって
「主殿の女童たち、東琴をこれへッ!」
と申しつけるも咳が止まない。女房達は困惑し見苦しいと思うものの、一度言い出すときかない大尼君である。後々僧都にまで恨みつらみを訴えかねないので、致し方なく和琴を差し出した。
大尼君は今の笛の調子もお構いなしにただ我が心の赴くまま、東の調べを流暢に爪弾く。他の楽器は合わせきれず演奏が止まってしまったが、
「我が音色だけを聴きたいということね」
と都合よく解釈し、
「たけふ、ちちりちちり、たりたんな」
催馬楽「道の口」を謡いつつ撥を掻き返し、乗りに乗って弾き続けた。口から出る言葉も中身もやたらと古めかしい。
「……実に面白い。今の世では中々聴けないような曲を弾かれましたね」
という中将の世辞も、耳の遠い大尼君には聞こえない。傍にいる女房が教えると、
「まァ、今のお若い方はこういうことはお好きでないようですけどね?この数か月此方においでの姫君、そりゃァ見た目こそとってもお美しいけれど、こんな遊びなどつまらないと専ら引き籠ってばかりですものねェ」
得意顔で笑いながら大声でまくしたてる。尼君は苦々しく思うが誰も止められない。
これを汐として中将は庵を出た。山おろしに紛れて遠ざかっていく笛の音は得も言われぬ響きである。
皆眠らずに明かしたその朝、中将から文が届いた。
「昨夜は、心も千々に乱れましたので急ぎ帰りました。
忘れられない昔のこと、つれない人のこと
声を上げて泣いてしまいました
やはりもう少し私の気持ちをわかっていただけるよう説得をお願いいたしたく。心の中だけで収められる程度の想いでしたら、こんな軽々しいともみえる振舞いなどしません」
尼君にとってはまさに昔を今となす状況である。懐かしさと切なさに涙が止まらないままに筆をとった。
「笛の音に昔のことも偲ばれて
お帰りのあとも袖を濡らしております
人の情をご存知ないのかしらと訝しむほどの有様は、あの年寄りの問わず語りでよくおわかりになったでしょう?」
特に目をひくところもないこの代筆文、中将もさぞガッカリしたことだろうが、それはともかく婿扱いで一夜を過ごした事実は大きい。
荻の葉に通う秋風のように頻々と届く文に、
※秋風の吹くにつけても訪はぬかな荻の葉ならば音はしてまし(後撰集恋四-八四六 中務)
(やはり面倒なことになった……殿方というのはどうしてこう極端になりがちなのだろう)
浮舟はかつての匂宮の振舞いを思い浮べる。
「わたくしは誰であろうと結婚などするつもりはない、諦めてくださいと早くあの方に仰ってくださいませ」
そう言って、習った経を読み心の内でも念じていた。
そんな風に万事につけ俗世に背を向ける浮舟を周囲の尼たちは、
(お若いのに何の面白味もなく、陰気なご性分だこと)
などと思う。ただ浮舟の容姿の美しさは田舎暮らしの愉しみにはちがいなかったので、多少の欠点は脇に置かれた。ほんのわずかでも笑みをみせたりすれば、やはり滅多にいない素晴らしい人よという気にもなったのだ。
参考HP「源氏物語の世界」他
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