蜻蛉 一
「どこにもいらっしゃいませんっ!」
そこかしこから悲鳴のような声が上がる。
浮舟は忽然と消えてしまった。
まるで物語の姫が誰かに盗まれた翌朝のような、筆舌に尽くしがたい状況である。
京の常盤守邸では先日の使者が帰参しないのを心配して、さらにもう一人送って寄越した。
「まだ鶏の鳴く早朝に出立せよと、北の方に急かされまして」
と使者は言って浮舟の母からの文を渡したが、言づけるべき女主はどこにもいない。乳母をはじめ全員が慌てふためいていた。隅から隅まで探しても手掛かりひとつない。騒然とする中、事情を知る右近と侍従は悪い予感に震える。
「このところ毎日泣いていらしたわよね……」「まさか、川に……?」「やめてよ、縁起でもない」「だって……出入り口はガッツリ警護されてるし、他に外に出る所って」
埒が明かないので、泣く泣く母親からの文を開ければ、
「何だか不安でたまらなくて眠れないせいでしょうか、今宵は夢でさえゆっくり見られません。何かにうなされて、気分もいつもと違ってあまりよろしくありません。やはり恐ろしいような気がしてならないので、お引越し間近ですが、その前に此方へいらっしゃいませんか?今日のところは雨が降りそうなので、後日にでも」
などとある。
「……侍従ちゃん、昨夜浮舟の君がお返事書いてたわよね。そっちも見てみましょう。何かわかるかも」
置いてあった母親宛の文も開けた。
「来世でまたお目にかかることを思いましょう
此の世の夢には惑わされず」
此の世、は子の世とも当てられる。親に対し現世で子としてある者を忘れよ、とはいかにも不穏だ。
「右近ちゃん、これ!」
侍従がもうひとつの結び文を見つけた。
「鐘の音が消えていく響きに声を添えて
わたくしの命は尽きたと母君に伝えてください」
もう間違いない。
浮舟は、自ら命を絶ったのだ―――宇治川へ身を投げて。
右近は文を握りしめたままへたり込んだ。
「そんな……そこまで思いつめていらしたなんて。だからあんなに心細いことばかり仰って……どうして私に少しでも相談してくださらなかったの?乳母子として、幼い頃から何の遠慮も無く、塵ほどの隠し事もしないでやって来たのに。最期の最期に別れ路で私を置き去りにし、その素振りさえお見せにならなかったなんて……辛すぎる……!」
足摺をしながら幼い子供のように泣く。浮舟が酷く思い悩んでいる様子は傍からも見て取れたが、まさかこんな思い切った行動に出るとは―――いったい何をどう考えたら自分の命を絶つという選択になるのか、右近にはわからなかった。
乳母はまして茫然自失で、ただ
「どうしよう……どうしましょう」
と呟くのみであった。
匂宮の方もまた、浮舟からのいつにない含みを持った文に困惑していた。
――亡骸をさえこの嫌な世に遺さなければ
何処を目当てにすればよいのかと貴方も怨むでしょうね――
「亡骸って……どういう意味?何だかんだ私に気持ちはある風だけど、心変わりを疑ってて、どこか他の場所へ身を隠すよってこと?」
どうにも腑に落ちず、急ぎ使者を遣わした。
ところが使者が宇治に着いてみると、一人残らず泣きわめいていて文を届けるどころではない。
「どうしたことだ。何があった?」
と下女に問うと、
「ご主人様が今宵、急にお亡くなりになったので、皆何もわからなくなっております。頼りになるお方もいらっしゃらない折なので、お仕えする私どもはただオロオロするばかりにございます」
などと言う。深くも事情を知る男ではないので、それ以上詳しくも聞かないまま慌てて京に戻った。
知らせを受けた匂宮は耳を疑った。
「嘘だろう……?そんなバカなことがある?そこまで酷く患っていたとも聞いてない。近頃気分がすぐれなくて~くらいで、昨日の返事は特に変わったこともなかった。むしろいつもよりいい感じだったのに」
何がなんだかわからない。宮はすぐに時方を召し出して、
「宇治に行って状況を確認し、事実かどうか調べよ」
と命じたが、
「薫右大将殿におかれましては何がお耳に入ったのかわかりませんが、宿直の者が怠慢であるなどと訓戒されたようで、今は下人の出入りすら厳しく問いただすようです。何の口実も無くこの時方が参ったということが漏れましたら、さては、と思い当たる節にもなりましょう。それでなくとも急に人が亡くなった所は騒がしいものですし、人目も多うございます」
顔が割れている自分は下手に行けない、と渋る。
「だからといって何もわからないままではいられないよ……とにかく何か適当に言い繕って、ほらあの乳母子とかいう右近とか、あと侍従とか、仲良しだよね?どうにかして会って、どうなってんの?って聞いてよ。下人はよくトンチンカンなことを言ったりするものなんだから」
涙目で懇願する宮のいたましさに負けた時方は、夕方頃京を出た。
宮を連れていなければ身軽なものだ。あっという間に宇治に着いた。
少し降っていた雨は止んだが、ぬかるんだ山路を行くために極力簡素ないでたちである。下人を装って山荘に入ると、大勢の人が右往左往して騒いでいる。
「今宵のうちにお弔いを済ませてしまうそうだ」
などと言っているのが聞こえ、時方も驚く。右近に案内を乞うも会うことは叶わず、
「何がなんだかわかりません。起き上がる気力もありません。今宵が最後のお立ち寄りともなりましょうが、ご挨拶も申し上げられず失礼をば―――」
と言づけられた。
「いやいや、何もわからないままでは私も帰れません。せめてもうお一方にでも」
時方が食い下がると、侍従が出て来た。
「もうホント、信じられないですよ……ご自身もきっと思いもしなかったお亡くなりようで、悲しいなんてもんじゃありません。え、これ夢?って、誰も彼も途方に暮れてますってお伝えください。少しでも気持ちが落ち着きましたら、最近どれだけ悩んでおられたか、先だっての夜もどれだけ心苦しく思われていたか、詳しくお話します。死の穢れがありますから、普通に忌が明けてからまたお立ち寄りくださいまし……」
泣きじゃくりながら語る。
奥からも聞こえるのは泣き声ばかりで、乳母らしき女が、
「わが姫君や、いったいどちらにいらしたの?帰ってきてくださいまし。虚しい亡骸にすらお目にかかれないなんてあまりにもひどすぎる……朝から晩までいくら見ても見たりない、可愛い私の姫君……いつしか栄えあるお姿をこの目で見るのだと、朝夕にお頼み申しておりましたからこそ、こんなに寿命も延びましたのに。この婆を打ち棄てて行方も知らせていただけないなんて。鬼神も姫君に憑りつくことなど出来はしない、誰もがこれほど惜しむ人ならば帝釈天もお返しくださるはず。姫君を取っていかれたもの、人であれ鬼であれ、返してちょうだい!せめて亡骸だけでも……どうか……!」
延々と同じようなことを繰り返す。時方にとっては不審な点も多々混じっていたので、
「侍従さん、そろそろ正直に言ってくれないかな。まさか……どなたかが女主をお隠しになった?私は、事実を確かめるべく宮の代わりに出て来た使者だ。君たちにとっては何がどうあれ関係ないだろうが、後になって宮が他から聞かれたことと違いました、となれば私の過失になってしまう。それと、宮はご自身で『右近や侍従に会え』と仰った。信頼できる情報筋と認めてくださってる。そのお心は勿体ないことと思わない?高貴なお方が女に迷うって話は異国の朝廷でも古い前例がいくつもあるけど、ここまで深いお心は未だかつてないと思うよ?」
と迫った。侍従は涙を拭きつつ、
(実際その通りよね、すごく畏れ多いお使いには違いない。隠し立てしたところで、こんな異常な亡くなり方をしたら絶対に噂にはなる……放っておいても結局はお耳に入るもの)
やっとのことで重い口を開いた。
「誰かがお隠しにって……そんなこと、ちょっとでも心当たりがあるなら、こんなに皆して騒ぎませんよ。浮舟の君はこの頃、酷く思いつめていらしたんです。あちらの殿からも少々厄介なお文がございましたし……母君というお方も、今わめいております乳母も、今の殿のもとに行かせるべくせっせと準備を始めてました。宮さまとのことは言えるわけもなく、ただただ勿体なくも思いを募らせるうち、周りとの板挟みで疲れてしまったんだと思います。大きな声では言えないですけど……どうやらご自分でご自分を亡きものに……だからこそ乳母もあんなに取り乱して、訳わかんないことばっかり言ってるんですよ」
さすがにありのまま―――浮舟の遺体が見つかっていないこと―――は言えない。聡い時方はなお引っかかるものを感じたが、それ以上は聞きようがなかった。
「それではまた落ち着いてから参りましょう。立ちながらの話ではあまりに不謹慎な気もします。そのうち宮が御みずから此方にいらっしゃるでしょう」
「まあ、何と勿体ないこと。今になって宮さまとのことが表ざたになりますのも、亡くなった方のためにはかえって栄えある御宿世とも申せます。申せますが―――ご本人がひた隠しにしていらしたことですので、このままそーっと終わらせますのが御遺志に添うことかと存じます」
此方では浮舟の死が普通ではなかったことを他に漏らすまいと必死に誤魔化してはいるが、いずれは仔細が明らかになってしまうだろう。侍従としては時方とあまり長く話すこと自体まずいので、早々に引き上げるよう促した。
雨が激しく降り出した最中、浮舟の母がやってきた。突然の知らせとこの状況に暫く言葉が出ない。
「……目の前で亡くなったんならまだわかる。そりゃあ悲しくて悲しくてたまらないだろうけど、世の常のことだもの。仕方ないって思える。だけどこれは何?どういうことなの?」
匂宮が宇治まで浮舟を探し当て、薫と見せかけて関係を持ったこと、その後も通ってきたこと、ついに薫の知るところとなったこと―――浮舟がその全てを抱えて独り悩み苦しんでいたことを知らない母親は、娘が自ら身を投げたなどとは思いも寄らない。
「鬼に食われたのか、狐のような魔物に攫われたのか……大昔の、怪しい物語の中にそんな試しもあったけれども……」
混乱しきっている。
「まさか、あの……大将殿のご正室の辺りなのかしら。意地の悪い乳母のような者が、今度新しくお迎えになる女がいると聞いて、目障りだと拐かした……?」
下人などに疑いの目を向け、
「新参で、気心の知れない者は?!」
と声を張り上げるも、古参の女房に窘められる。
「こんな人里離れた所、住み馴れない新参者はほんの少しの辛抱もきかず、また来ますね~なんて準備したものを持ったまま上京してしまって、全然戻ってきやしませんよ」
そもそも元からいる女房たちすら半分に減って、相当人が少ない折ではあった。
侍従は浮舟の日頃の様子―――「死んでしまいたい」と泣き入っていた折々を思い、書き置いた文などを見ているうち、硯の下に「亡き影に」と走り書きした紙を発見した。
――嘆き侘び身を捨てたとしても
亡きあとに浮名が流れてしまうことが気がかりです――
思わず川の方を窺う。轟き渡る水の音も疎ましく、悲しく耳に響いた。
侍従は右近にもこの歌を見せ、こっそりと相談し合った。
「ねえ右近ちゃん……ともかくも、もう此の世にはいない人を何やかんやと噂して、誰もかれもがどうしちゃったのかしら~誰々が怪しいわなんて陰謀論に走っちゃうのもよろしくないわよね」
「そうね侍従ちゃん。だいたい忍ぶ恋なんていっても、ご自分から引き起こしたことじゃないんだもの。母親なら、亡くなった後からでも娘の話は聞きたいわよ。別に恥ずかしい相手というわけでもないんだし、全部ありのままに話せばいいと思う。全然まったく訳がわからない!って状態だけでもどうにかしてあげたいわ。気持ちの持っていきようがないもんね……ほんの少しでも納得のいく説明がないと。あと亡き人のためにも、普通は亡骸を安置してお弔いするものだから、何もしないで何日も過ぎちゃったらそれこそ隠しおおせない。やっぱり母君には打ち明けて、早いうちに世間の噂を何とかしないと」
二人は母親にすべてを話した。
語る方もとても平静ではいられなかったが、聞く方はまして衝撃が大きかった。
「ということは、やはりこの……こんな荒々しい川にあの子は……」
自分自身も水底に落ち入ったように我を忘れて、
「探してやりたい……浮舟が流れ着く辺りを探して、亡骸だけでも見つけて、キチンと葬ってやりたい!」
と声を振り絞るが、
「そんなことをして何になりましょう。お辛いだけですよ。もう見つかるとも思えません……行方も知れぬ大海原に押し流されてしまったでしょう」「だいいちそんな捜索をしようものなら、必ずやあらぬお噂が立ちます。亡くなった方にとってもおいたわしいことです」
右近と侍従が揃って思いとどまらせた。
母親は浮舟の行方を考えれば考える程胸がせき上げて、何も出来る状態ではない。右近と侍従の二人が葬儀用の車を手配し、御座所に使っていた敷物や愛用していた道具類、脱ぎ捨ててあった夜具などを積み込んだ。乳母子の大徳とその叔父の阿闍梨、その弟子の中でも特に親しい者、昔馴染みの老法師など、忌籠りに来た縁者ばかりが加わり、いかにも遺骸を運んでいるかのような葬列を組んだ。浮舟の乳母や母親はなんと忌まわしいことかと身もだえし泣き伏す。
右近大夫や内舎人――以前右近を脅した爺――も来て、
「ご葬儀は、殿に事由をご報告した上で日を定めて、厳粛に執り行われては?」
などと提案したが、右近は
「どうしても今宵のうちに弔いたいのです。憚らねばならぬことがございまして」
にべもなく断ってサッサと車を出してしまった。向かいの山の前にある野原で、誰も近くに寄せず、事情を知る縁者の法師ばかりを立ち合わせて荼毘に付す。車はあっという間に燃え尽き、煙もすぐに消えてしまった。
これには里人たちも訝しんだ。得てして田舎の方が葬儀は仰々しくやるもので、言忌などにも煩い。
「何コレ?決まりきった作法も何もあったもんじゃない。まるで下衆か何かみたいに簡単な、ショボい葬式だよね」
と謗る者もいれば、
「きょうだいのいる人はわざとこんな風にするらしいよ、都では」
などともっともらしく言う者もいる。総じてあまり芳しくはない言い草ばかりであった。
「ねえ右近ちゃん……こんな山奥にいる田舎者たちでさえおかしいんじゃない?っていう雰囲気なのに、まして何でもかんでも速攻で広まっちゃう京じゃ凄いことになるよね。薫右大将殿のお耳にどう届くんだろ。浮舟の君が突然死した・なお亡骸は無し、なんてことを聞いたら、まず匂宮さまを疑うわよね……攫ったんじゃないかとか。もともと親しい間柄だし家も近いから、誰か隠してるかどうかなんてすぐにわかるだろうけど」
「侍従ちゃん、疑うのは宮さまだけとは限らないわよ。誰かが無理やり連れ去った?から、他に男がいたんじゃ?みたいな、いろんな可能性をお考えになると思う」
「えっ酷い……あんまりじゃないのそれ。浮舟の君って、生前の運勢はメチャクチャ高かったのに、亡くなった後になってそんないわれのない疑いをかけられるとか、不憫すぎる……」
「『浮名が流れてしまうことが気がかり』って歌も詠んでらしたし、ここの下人たちもまとめて口止めしとかなきゃね。今朝のあの騒ぎで察してる人は察してる。事情を知らない人にはとにかく一切何も聞かせない言わせない!」
などと右近と侍従の二人で示し合わせ、揉み消し工作に腐心した。
「うんと年月が経って、まだ私たちが生きてたら、どちらの方にも穏やかに真相をお話しましょう。今はまだ早すぎる。愛する人を亡くした悲しみも醒めてしまいそうなことを人づてにでも聞かれたら、なおのこと傷つかれるでしょう」
きっかけはどうあれ仲立ちをしてしまった以上、一定の責任は負っている。二人はこの秘密を厳に守っていくことを心に決めた。
参考HP「源氏物語の世界」他
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