おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

蜻蛉 二

2022年3月10日  2022年6月9日 


 そのころ薫が何をしていたかというと―――。

 母の入道の宮が体調を崩したので、石山寺に籠り誦経や祈祷の最中であった。浮舟の事は常に気にしてはいたものの、誰も知らせるものはいない。

 宇治の山荘を警備していた内舎人とその一党は、

「さすがにこの一大事に、京から使者の一人も来ないとはいかがなものか。人聞きも悪かろう」

 と石山寺に人をやり、浮舟が亡くなったこと、葬儀も済ませたことを申し伝えた。

 薫はまったく寝耳に水である。翌日の早朝には弔いの使者を宇治に遣わした。

「この度の大事においては自ら赴くべきだが、今は入道の宮の病による参籠の身である。斎戒の上定められた日数の間は此方を動けない。昨夜の件、何故すぐさま連絡をしなかった?日を延べてもきちんとした葬儀をするべきところ、何とも軽々しいさまで急ぎなされたとか。何をどうしようがもう甲斐は無いにしても、最期の別れだというのに山がつにさえ誹りを受けるほど簡素に済ませたことはまことに遺憾である―――とのお言葉にございます」

 薫の腹心の家司である大蔵大輔仲信が申し述べたが、山荘の面々はこれによりまた悲しみを新たにした体で何も言葉が出てこない。ただただ涙にくれております、と言い訳して、返事も碌にしないまま終わった。

 あまりに突然の、あまりにあっけない別れに薫ははげしく動揺した。

(宇治は憂しに通じるとも言うが……なんという嫌な場所なんだ。鬼でも住まっているのか。何故浮舟を連れて行ってしまったのか……思いがけない方面からの過ちも、あんなところに放っておいたせいか。みすみす匂宮に言い寄られる隙を作ったようなものだ)

 自分の世慣れぬ甘さが悔しく、胸がキリキリと締めつけられる。とはいえ病に臥せっている母宮をそんなことでなおざりにはしたくない。薫は残りの日数分の勤めを終えてから京に帰った。

 三条宮に着いても、正室の女二の宮のところには行く気になれない。

「大したことではありませんが、不吉なことを身近で聞きまして縁起が悪うございますので、気持ちが鎮まるまで当面お目にかかることは控えます」

 と伝えて、独り限りなく儚い無常の世を嘆く。在りし日の浮舟の顏や姿が可憐で愛らしく、美しかったのが思い出され、恋しくも悲しい。

(生きていた時にはどういうわけかさして夢中にもならず、のんびり構えていた。なのに今はこの思いをどうにも鎮めるすべがない。後悔ばかりだ……私という人間は、こと恋愛ごとにかけてはただただ悩み苦しむだけの運命を背負っているのか。世の人とは違い道心を志す身であったのに、結局はこうして現世に長く留まっているのを仏にも憎まれたのだろうか。人を悟らせようと仏のなさる方便は、慈悲をも隠しこれ程の苦しみを与えるものなのか)

 答えのない問いを繰り返しつつ、勤行に没頭するしかない薫であった。


 匂宮は匂宮で二、三日は何も手につかず、魂も抜けたような状態にあった。

「どんな物の怪が憑いたのか」

 と周囲が騒ぐうち、だんだんと涙も出尽くし気持ちも落ち着いて来たものの、浮舟の生前の様子ばかり思い浮かび、恋しいやら悲しいやらでどうしようもない。他人にはただ重い病とばかり見せて、

(愚かしいばかりに泣いてばかりいる姿を気取らせまい)

 と気力を振り絞ってはいたが、とうてい隠しきれるものでもない。

「いったい何事があってこれほど惑乱され、命も危ういまでに沈み込んでいらっしゃるのか」

 などと言う人もあり、薫の耳にも聞こえて来た。

(やっぱりね……文を交わすだけのつきあいではなかったんだな。あの宮のことだ、ひとたび浮舟ほどの女と契れば絶対に深くのめり込まずにはおられない。もし浮舟がもっと長く生きていたら……宮とは近しい分、私にとって実にみっともない事態に陥ったかも)

 そう思うと、焼けつくような胸の痛みも少し収まるような気がした。


 匂宮のもとには見舞い客が日々引きも切らず、世間で専らの噂にもなっている。

 薫は、

(大した身分でもない女のことでいつまでもグズグズと引き籠って、会わないままでいるのも如何なものか)

 と、宮への訪問を決めた。

 折しも薫の叔父に当たる親王・式部卿宮が逝去したため、服喪として薄鈍色の衣装を身に着けていた。今の薫にはまさに相応しい装いである。

 やや面痩せしてますます優雅さを増した薫が二条院を訪れたのは、来客もあらかた退けてしんと静かな夕暮れ時だった。

 匂宮は起き上がることもできないほどの容態ではない。疎遠な者とは会わないが、御簾の内に入れるくらい親交の深い人とは普通に対面していた。まして薫ならば断る理由はないが、さすがに何となく気が引ける。

 ところが顔を見た途端、どっと涙がこみ上げてきた。宮は何とか堪えて、

「そんなに大袈裟な病気とかではないんだよ。なのに皆して大事にしろ、用心しろとばかり言うものだから、帝も母宮もやたらとご心配なさるのがどうにもしんどくてね。世の無常ってやつを心細くも思い知ってるよ」

 と言ってさり気なく袖で涙を覆ったが、そのまま隠しようもなくぽたぽたと流れ落ちてしまった。

(ああ、カッコ悪い……私の心の中まではわからないよね。ただ病で気弱になってるとしか見ない、うん)

 事がバレているとは知らない宮は思うが、薫の内心はそんなものではない。

(なるほど。それほどまでに浮舟の死を悲しんでおられると……いつから始まったのか。私のことを間抜けな男よと嗤っておられたのは、いったい何か月くらいの間だった……?)

 悲しみとは程遠いその暗い感情は、薫の表情からは読み取れない。外からはまったく普段通りに見える。宮は、

(え、ありえなくない……?愛する女が死んだんだよ?そうじゃなくても心に切ない悲しみがあるような時は、空を鳥が鳴いて飛んでいくだけでも涙が出そうになるものなのに。私がやたらと心が弱ってるせいもあるんだろうけど、もし事情を知ってたとしてもあんな風ではいられない。人の心がわからないヤツでもないのに……世の無常を悟り澄ました人っていうのはこれほど冷たいもの?いっそ羨ましいよ、私は辛くて辛くてこの体たらくだもんね……ご立派だよ)

 複雑な思いにかられるが、一方では同じ女を愛した者としての親近感もあった。

(薫とこうして向かい合っていたこともあったんだろうね。とすると薫も形見ってことかな)

 などと、ついまじまじとその顔を見つめてしまう。

 内心では嵐が渦巻く薫は、たわいもない世間話をしているうち耐えきれなくなった。

(とても全てを呑み込んだままではいられない)

 と話を切り出す。

「昔から、宮には何事もお話し申し上げておりましたね。ほんのわずかな間でも包み隠すことがある限りは、どうにも落ち着かない気持ちになったものです。今や官位も昇り上臈と呼ばれる身分になり、まして宮は私よりお暇のないお立場で、のんびりされる時間もございません。宿直なども特に用向きもなくては伺候もままならず、ゆっくりお話する機会もないまま長く過ぎてしまいましたね。……実は、宮も以前お渡りになりましたあの宇治の山里で儚くなられた方――故大君と同じ血筋の人が思わぬ所にいると聞き、時々は通おうかというつもりでおりました。ですがちょうど女二の宮のご降嫁があり京の内では憚られましたので、ひとまず宇治の山荘に置くことにしたのです。中々逢いにも行けず、彼方も……どうも私一人だけを頼みとしていたわけでもないようでしたが……そもそも重く扱うほどの身分でもございませんし、特に不都合もなかったもので、気の置けない恋人として世話をしておりました。ところがこのほどあっけなく世を去ってしまいまして……すべて世の無常をあらわす儚さと思われて、悲しゅうございます。宮は、既にお聞き及びかとも存じますが」

 ここまで一気に話すと、薫は初めて涙を見せた。

(何としても泣くまい)

 と思っていたのに、零れ出すともう止まらない。氷のような無表情を崩した薫に、

(まさか……気づいていた?)

 肝を冷やす宮だが、

「なんと、実にお気の毒なことだ。そういえば昨日ちらっと小耳に挟んだよ。どうお悔やみを言おうかと思っていたけれど、表立っては人にも聞かせないような話だと聞いたんで、控えてた」

 素知らぬ顔で冷静に答えた。が、とてもそれ以上は言葉が出ない。

「そのうち、宮にもお目にかけようかと存じておりました女でした。もっとも自然にそんなこともございましたでしょうか、二条院に出入りするような縁故もあったようですから」

 薫はそれとなく当てこすりつつ、

「ご気分がすぐれないうちは、取るに足らない世間話でお耳を汚しますのもつまらないことですね。どうぞ、お大事になさってくださいませ」

 と言い置いて出て行った。

 薫は自室で独り思いにふける。

(宮はえらくご執心のようだったな。何とも儚い命だったが、やはり高い運勢を持つ女だった。今上帝や后の宮があれほど大事にしてらっしゃる親王、顔形の美しさは勿論のこと、今の世の中では右に出るものもいない。ご寵愛の女君にしても並々ならぬ方ばかり。それぞれに素晴らしいあの方々を差し置いて、あの浮舟に心を奪われたのか……世の人が皆、やれ修法だ読経だ、祭りや祓いをと、仏道も神道も一緒くたに騒ぎ立てているが、まさかただ一人の女に執着したあまりの病とは想像もしていまい)

(私も……これ程の高い身分で今上帝のご息女をも賜りながら、ただひたすらに浮舟が愛しかった。その気持ちは宮にも負けない。それ以上に……今はもう此の世にいないのだと思うと悲しくてたまらない。こんな愚かしい姿を人に見られたくはないが……辛い)

 耐えようとするが、心は乱れ騒ぐばかりである。

「人木石に非ざれば皆情けあり」

――人は木や石ではない、みな感情を持っている。

 白氏文集の一節を口ずさみながら横たわった。

 死後の葬送なども実にあっさりとしたものだったというのがまた腑に落ちない。

(宮もどうお聞きになったやら。母が並の身分だとか、きょうだいのある人はとか、そういうことを言われかねないと早合点して粗略にしてしまったのか?)

 とにかく詳細な事情がまったくわからないのがやりきれない。どんな様子だったのか自分の耳で聞きたかったが、

(とはいえ長い忌籠りをするのは都合が悪い。行くには行ってもすぐ帰らねばならないのもかえって心苦しいし……)

 悶々とただ迷っていた。

<蜻蛉 三 につづく

参考HP「源氏物語の世界」他

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