おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

蜻蛉 三

2022年3月11日  2022年6月9日 


 月が変わり、四月十日になった。

(本当なら今日、宇治から浮舟を迎えるはずだったのに)

 薫は尽きせぬ悲しみを噛みしめる。

 実に物悲しい夕暮れ、庭先の橘がやさしく香る中、ほととぎすが二声ばかり鳴いて渡っていく。「宿に通はば」―――亡き人のところに行くのかと独りごちても物足りない。ちょうど匂宮が二条院に来る日と思いつき、橘を折って文を出した。

亡き人の宿に通はばほととぎすかけて音にのみ泣くと告げなむ(古今集哀傷、八五五、読人しらず)

「忍び音に貴方も泣いているでしょうか、甲斐もないのに

死出の田長……ほととぎすに心あらば」

 匂宮は、浮舟によく似た中君の顔や姿を切なく眺めつつ、二人それぞれにやるせない思いにふけっていた。薫からの文を

(何この意味ありげな歌。私がここで中君と一緒にいるのわかってて寄越すなんて。嫌がらせ?)

 と一瞥するや、

「橘の薫る辺りではほととぎすも

心して鳴くものでしょ?

 迷惑なんだけど!」

 と返した。

 とはいえ中君は、事の次第をすべて承知している。
(可哀想に……言いようもないほど儚い命だった。姉君にしても浮舟にしてもなんと繊細に、深く思いつめていたことか。わたくし一人だけ大した物思いもなく今まで生きながらえてきたものよ。それもいつまで続くやらだけど……心細いこと)
 宮ももう隠しようがなく、いつまでも知らぬ顔でいるのも後ろめたいので、生前の浮舟の様子など少々取り繕いつつも語って聞かせた。
「貴女が色々と隠し立てなさってたのが辛かったんだ……」
 などと泣いたり笑ったりしながら話しているうち、中君と浮舟との血の近さを感じしみじみと胸打たれる。
 何かと仰々しく格式ばっている六条院では、病にもかかろうものなら大騒ぎになるし人の出入りも多い。舅の大臣や兄の公達が入れ替わり立ち替わり隙なく詰めているのも鬱陶しい。それにひきかえ中君ひとりがゆったり住まう二条院は、宮にとって気楽で心休まる場なのだ。
 浮舟にまつわる一連の出来事はまるで夢のように現実感がなく、
(やっぱり変だよね……自害するにしたって、どうしてあんな急に)
 疑念が消えない宮は、馴染みの家来たちを呼び出して宇治に送り込んだ。事情を知っていそうな右近を京に呼び出そうというのだ。
 浮舟の母・中将の君はとうに宇治を去っていた。川の気配や水音に触れるたび自分も転げ落ちていきそうで、どうにも居続けられなかったという。残った者たちは念仏の僧たちだけを頼みとしてひっそり暮らす。
 時方をはじめとした使者の一行が山荘内に入っていっても、厳しく見咎められるようなことはもうなかった。
「皮肉なものよ。最期のときだけ入れなかったということか」
 思い出しても痛ましい。 

「まったく、厄介な恋愛をされたものだ」

 と当時は苦々しく見ていたが、いざ現地に来てみると、宮が無理を押して訪れた夜のこと、宮が浮舟を抱いて舟に乗せたその姿が美しかったことなど、それぞれの場面がまざまざと浮かび涙腺が緩む。右近が時方の顔を見るなり号泣したのも道理であった。

「どうしても真相が知りたいとの仰せで、お迎えにと遣わされました」

 時方が言うと、

「今私がここを離れれば、他の者がどう思いましょうか。とてもそんな気にはなれません……たとえ私がそちらに参上したところで、宮さまに充分納得いただけるようなご説明が申し上げられますかどうか。この忌籠りが終わって、ちょっとそこまでと出かけても怪訝に思われないようになりましたら……そこまで生きていられる気がしませんが、存外に長生きしておりましたら……その頃はこの悲しみもきっと少しは和らいでいることでしょう。仰せ事がなくとも参上いたしまして、本当にまるで夢のようだった出来事のあれこれを語らせていただきとうございます」

 どうあっても今日は動かないつもりでいるようだ。

 時方も涙を見せつつ、

「私自身はまったくお二方の仲について詳しくは存じ上げません。物の道理も弁えない朴念仁ながら、宮の比類なきお心ざしを拝見いたしまして、貴女がたとも急いでお近づきにならずとも、いずれはきっと主を同じうしてお仕えすることになるはず、と思っておりました。何とも申し上げようのないこの度の悲劇の後では、かえって私自身の心ざしが深まったような気がしています」

 と語り、

「宮がお迎えのためにとわざわざ車を用意して差し向けてくださったのに、空っぽのまま戻るのはあまりにも無情でございましょう。せめてもうお一方だけでも。ほら、侍従さんとか」

 右近はすぐに侍従を呼び出し、

「行っていらっしゃいよ」

 と勧めた。侍従は、

「いやいやいや!!右近さんを差し置いてアタシなんかが何を説明すると……だいいちまだ忌も明けてないのに出られません。縁起もよくないでしょう?」

 とても無理だと断るが、

「宮はご病気のため加持祈祷だの修法だのと忙しく、さまざまにお慎みもございますが、それでも忌明けを待ちきれないご様子です。あれほど深いご寵愛があったのですから、宮ご自身が忌籠りしたいくらいのお気持ちでいらっしゃいます。なに、忌明けまではあとほんの僅かでしょう。侍従さんお一人だけでも、是非」

 時方が懇々と説得する。元より侍従は、宮を間近で拝して以来すっかり熱を上げていたため、

(この機会を逃したら、もう今生ではお目にかかれないかも……)

 と徐々に気持ちが傾き、結局行くことになった。


 ご無沙汰してます、故浮舟の君の側近の女房、侍従です。今、京へ向かう車中!

 うんと気合入れて行きたかったところだけど、所詮喪服だからね。まあ若くてイケてる女房のアタシだからかえって可愛さが引き立つってもんだけど、裳の黒いやつ用意してなかったのは焦った。もう女主もいないからってウッカリしてたわ……親王さまにお会いするのに裳がないとかありえないからね。仕方ないから薄紫の手持ちの裳を持ってきた。

 ……どうでもいい話ゴメン、それは置いとくとして。

(もし浮舟の君が生きていらしたら、きっとこの同じ道を人目を忍びつつ通ったわよね……当然アタシも同伴して、一緒に匂宮さまにお仕えするっていう黄金コースだったのに)

 なんてことを思ったら泣けて来ちゃって、道中ずーっと涙涙だった。

 二条院に着くと匂宮さまはそりゃあ歓迎してくださって、なんと直々にご対面!よ。中君さまには内緒だったみたいで、西の対じゃなく寝殿の渡殿辺りに車をつけて貰って下りたのね。

 生前の様子を聞きたがっていらしたから、浮舟の君が毎日のように思いつめて嘆いてたこと、特に亡くなる前夜に大泣きしてたことを話したの。

「普段から不思議なほど口数が少なくて、大体はぼんやりと大人しいばかりのお方でした。内心でどれだけの思いがおありでも人に打ち明けることなど滅多になく、遠慮がちだったせいでしょうか、ご遺言らしきものもございません。夢にも……あのような思い切ったことをなさるご覚悟があったとは思いませんでした」

 ギリギリのところまで結構ぶっちゃけたけど、宮さまは考えておられることがゼーンブお顔に出るのね。心の声が手に取るようにわかったわ。

(前世からの因縁で病死する、なんてことより、どんなに悲痛な決意であの宇治川の水に溺れたのか……私がその場で見つけたら、きっと止められただろうに……!)

 何をどうしようがもう取り返しがつかない。無駄に胸が騒ぐだけのやりきれなさね。だけど、言わずにはいられないのよ。

「今思えば、お文を焼き捨てておられたのをどうして不審に思わなかったのかと……あの時に何かお声がけしていれば」

 なんて詮無いことばかり一晩中語り合ってるうちに夜も明けちゃった。例の、巻数(かんじゅ)に結んであった母君へのお返事についてもお話したよ。

 宮さまにとってはアタシなんてただの女房、その他大勢にしかすぎないけど、最愛の浮舟の君の思い出話をこれだけガッツリしたもんだから、何となく距離が近づいたっていうか、繋がってる感がしたのかもしれない。

「侍従ちゃん、私のもとに来ない?ほら、西の対の人だってあながち縁がないわけじゃないんだから」

 なんて口走られて、そりゃあ有り難かったけどさすがにね。

「このまま今すぐにお仕え申し上げましても、悲しみばかりが深まりそうな気がいたします。やはり忌が明けましてから、改めて」

「そうか。では、きっとまた来るんだよ。ね?」

 その時の宮さまの切ない、熱い目!完全にアタシを浮舟の君の代わりみたいに思ってらしたわね。

 夜が明けきらないうちに二条院を出たんだけど、お土産がまたすごくて。浮舟の君のために造らせた櫛の箱一具、衣装箱一具をアタシにって。他にも沢山作ってあるけどさすがに仰々しくなりすぎちゃうから、これだけで~って……いやいやいや、十分すぎるんですけど!ていうか分不相応な高級品ばっかりなんですけど!

(皆に黙ってこっそり出て来たのに、こんなの持って帰って来たら何を言われるやら……どうしよう……)

 だけど要りません!って突っ返すとかなおのこと無理だし、見られないように車から降ろすのも苦労したわよ。

 右近ちゃんと二人で暇な時にこっそり見てたんだけど、まあどれもこれも精緻な細工で今風のオッシャレーなものばっかりで、どんな思いで揃えられて、どんな思いでアタシに下さったかって考えるともう涙、涙でね。衣裳だってすんごい立派でお仕立ても素晴らしいし、

「まだ服喪期間中だっていうのにどうすんのコレ……着るわけにもいかないし、下手なとこに置いとけないじゃん」

 正直、持て余したわ。うん。

<蜻蛉 四 につづく

参考HP「源氏物語の世界」他

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