浮舟 七
薫からはそれきり返事もないまま、数日が過ぎたある日のこと。
右近が恐ろし気に話していた地域の顔役・内舎人と称する者が宇治の山荘にやってきた。言葉通り如何にも武張った年寄りが眼光鋭く、
「此方の女房のどなたか、お話申し上げたい!」
とドスの効いたしゃがれ声を張り上げたので、右近が出て話を聞いた。
「殿からお召しがございましてな、今朝参上し、たった今帰ってまいりました。雑事を仰せつかったついでに伺いましたのが此方のことでして。殿は、夜間から明け方までは誰かしらが警備しておると思し召し、これまで宿直人を特に差し向けられることもなかったのですが、近頃妙なことをお耳にされたと―――
『女房たちのもとに素性のわからない誰かが通ってくることがある、と聞いた。由々しき事態である。宿直を勤める者どもは事情を知っていよう。知らないでは済まされないぞ』
まったく与り知らぬことでしたので、
『某は持病が重くございまして、宿直を勤めることはこの数か月休んでおります。そのような事情など知りようがございません。山荘はしかるべき男どもが怠りなく警護に当たっております。お話のような不届きなことがございましたらば、某に必ず報告してくるはずです』
と申し上げました。此方も今後はいっそう態勢を強化する所存ですので、そちらもどうかくれぐれも用心してお仕え願えませんかね。もし何らかの不都合が出来すれば、重く処罰する旨仰せがございましたので……どんな罰なのかとヒヤヒヤしておりましてな」
右近は仰天した。夜半にフクロウの声を聴いたような寒気が走り、碌に返事もしないまま引っ込むと、浮舟に知らせた。
「やはり、先日申し上げた通りにございます、殿は事の真相をご存知のようで……お文もあれから来ておりませんよね?ああ……」
頭を抱える右近をよそに、内舎人との会話を小耳に挟んだ乳母は、
「何と嬉しい仰せだこと。この辺りは盗人も多いというのに、宿直の人も初めの頃のようにキチンとした感じじゃなくて心配だったのよ。皆、誰彼の代理だとか言ってよくわからない下衆を寄越すようになって。夜回りも碌にしやしないのだもの」
これで不用心な警備が改善される、と素直に喜んでいる。
浮舟は、
(どんどん悪い方へと進んでいく)
と思いつつも、匂宮からは、
「どうなの?どうなの?」
と、まさに「苔の乱るる」ような無理無体なことを迫る文が矢継ぎ早に来るので、煩わしいことこの上ない。
※逢ふことをいつかその日と松の木の苔の乱れて恋ふるこのごろ(古今六帖六-三九六二)
(どちらの道を選ぼうとも、それぞれにとって不愉快な事態にはなる……やはりわたくし一人がいなくなるのが最善なのだわ。昔も、言い寄って来る殿方をどちらとも決めかねた娘が身を投げたという例があったという。生き続けるだけで必ずトラブルに遭ってしまうわたくしが亡くなったところで何が惜しいと?母君も少しの間は嘆き悲しむかもしれないけれど、大勢の子の世話にかまけてその内忘れるでしょう。生きて身を持ち崩し、物笑いになって彷徨うようなことになれば、その方が余程親不孝というもの)
子供のようにあどけなくおっとりと見える浮舟だが、常陸守邸の奥で大事に囲われて育てられ、男女関係の何たるかも殆ど知らず、融通のきかないところがあった。極端な結論に辿り着いてしまったのはそのせいかもしれない。
独り密かに心を決めた浮舟は、文の処分を始めた。細かく破り、灯りの台で焼き、水に投げ入れる。怪しまれないよう徐々に減らしていった。周りの女房達は、
「引っ越し前の断捨離かしらね」「暇に任せて書き集めた手習いとか、取っておいても仕方ありませんものね」
などと言い合っていたが、事情を知る侍従は驚いた。
「え、どうして全部捨てちゃうんです?ラブラブなお相手がメッチャ気合入れて書いたお文ですよ?そりゃ人に見せるものじゃありませんけど、どこか奥底に隠しておいて後でこっそり見るのって、身分を超えた女子の楽しみってやつじゃないですか。それもこんな最高級の紙に、これでもかってほど愛の言葉がテンコ盛りですのに、無下に破り捨てちゃうだなんて……あまりにも勿体なくないです?」
「そんなこと……残しておいたところで厄介なだけ。長く生きられるような気もしないし、万一誰かの目に触れることがあれば傍迷惑でしょう。得意顔に恋文を遺しておいたんだねなんて言われたら、それこそ恥の上塗りよ」
キッパリと斬り捨てた。
ただ―――内心では大いに迷いがあった。ネガティブな決意は長く持ち続ける程揺らいでいく。親より先に子が亡くなる逆縁はたいそう罪障が深くなるらしい、という話も頻々と頭をよぎった。
そうこうするうちに三月も二十日を過ぎ、匂宮の乳母一行が下向する二十八日も目前となった。
匂宮は、
「その夜に必ず迎えに行くからね?下人とか、気取らせないように注意して。此方からは絶対に漏れることはない。信じてね!」
などと文を寄越す。
(そうやって無理にお越しになられても、もう二度と何も申し上げられず、お目にかかることもなく門前払いすることになる……あれほど固い警護の中、ほんの束の間だろうとどうして此方まで近づくことができようか。何の甲斐もなくわたくしを恨みながらお帰りになる……)
その様子を想像すると、常に心を占めている宮の面影がありありと目に浮かび、悲しみがとめどもなく押し寄せてくる。浮舟は文を顔におしあてて暫くは堪えていたが、やがて声を上げて泣き始めた。
右近は慌てて、
「浮舟の君、そんな風にばかりしていらっしゃいましたら周りにも気づかれてしまいますよ。何となく怪しんでいる女房も増えてきてます。くよくよなさらず、適当にお返事なさいませ。この右近がおります限り、どんな大それたことが起きましても上手く取り繕いますから。このような小さなお身体ひとつ、空からでも連れ出すことができましょう」
と慰めたが、浮舟は暫く黙り込み、言った。
「そういう言い方をされるのがたまらなく嫌なの。わたくしがはっきりこうと決めているのならともかく、まるでその気もないしとんでもないことと思っているのに。宮さまにしても勝手に、わたくしが宮さまに頼りきりのように仰るから、いったいどんなことを仕出かされるのかと思うと―――もう辛くて辛くて仕方がないの」
それきり返事も出さなかった。
匂宮の方は、
(宇治から連れ出す件についてはっきり意思表示もないまま、とうとう返事すら来なくなったか……やはり薫が何やかやと言いくるめて、コッチの方が安定感あるし~って元の鞘に収まったってことかな。まあ、当然と言えば当然の流れか)
と思うものの、悔しくて妬ましくてたまらない。
(そうはいってもあの子は私を好きだったよね?暫く逢っていない間に、女房か誰かに説得されて揺らいだのかな)
考え込むほどに恋しさは晴らしようもなく、うつろな空を埋め尽くす。宮は例によって、無理を押して宇治へと立った。
ところが時方がいつもの葦垣から入ろうとすると、
「おい!誰だ!」
と遠くから声が上がるではないか。仕方なく一旦退いて、此方では顔なじみの―――京で薫の随身に後をつけられた―――男を差し向けたが、それでも止められて尋問された。男は以前とはかけ離れた刺々しい雰囲気にたまりかねて
「都より急ぎの文があります!何某にお取次ぎを!」
と叫んだ。この「何某」は右近付きの下女である。それと察した右近が出て、
(ああもう、これはまた面倒なことになった……)
とうんざりしつつ、
「今宵はご無用に願います。まことに畏れ多うございますが」
とだけ伝えた。宮は、
(どうして急にこんな冷淡になった?!)
訳が分からず、
「時方!お前がまず入れ。二月に来た時のあの女房、たしか侍従といったか。どうにか引っ張り出して、しかるべく計らってくれ」
と命じた。この時方はさすがの知恵者で、宿直の者たちを何やかんやと言いくるめまんまと入り込み、侍従を呼び出すことに成功した。
「どうなってるのコレ?急に厳しくなり過ぎじゃない?」
「そうなんですよー、このところずっとあんな調子で。何か大将殿が仰せになったことがあるとかで、宿直人どもがピリピリしてやたらと出しゃばって来るんで、コッチも困ってるんですよねー。ウチの姫君もそれでストレスたまっててー、こうして来ていただくのはほんっと勿体ないことって悩んでらしてー、大変そうだなあって感じです。でも、真面目に今夜はゼッタイ無理!ですよ。今誰かにバレようものなら、ますます状況が悪くなっちゃいますんで……後日、お考えおいておられる頃の夜には、此方でも秘密裏に計画を練りましてご案内申し上げますから!」
「ええ……今日はダメ?何とかなんない?」
「乳母もすぐ近くで寝てるんです。スッゴイ勘がいいし気づかれたら大騒ぎになるんで!」
「困ったなあ。ここに来るだけでもメチャクチャ大変で、どうしても今日逢いたい!ってお気持ちみたいだから、アッサリ無理でした~って申し上げるにもしのびないんだよね。よし、じゃあちょっと私と来てくれない?直接言えば何とか納得してくれるかも」
「エー?!いやいやいや!無理無理無理!」
そこを何とか、いや無理!と言い合ううちに夜も更けてきた。
匂宮は少し離れたところで馬に乗っていたが、山里の犬どもが寄って来て恐ろしいほどに吠えたてる。供回りも少なく簡素な忍び歩きなので
「乱暴者が走り出て来たらどうやって宮をお守りしよう」
家来たちはみな気が気ではない。
そこへ時方が、
「さあさあ、早く早く」
とうるさく促しながら侍従を連れて来た。長い髪は脇から前に出して持ち、スッキリ綺麗な立ち姿であった。侍従は馬に乗ることを、
「絶対イヤ!むり!」
と断固拒否したので、仕方なく時方が衣の裾を持ちしずしずと歩いて来たのだ。侍従は時方の沓を履き、時方自身は代わりに供人の粗末な沓を履くという、実に珍妙な道行きだった。
宮の近くに参上し、かくかくしかじかと申し伝えるにも、立ったままではどうにもならない。田舎家の垣根のこんもり繁った葎の蔭に、障泥(あふり)と呼ばれる革製の馬具を敷いて臨時の御座所とし、宮を馬から下ろした。これには宮も、
(我ながらなんというざまだ。恋路に足を踏み惑って……これじゃはかばかしい将来も期待できないな)
情けなさに涙をぽろぽろ零す。
それを見た侍従もつい貰い泣きをする。憎い仇敵だろうが鬼であろうが、とても捨て置けないような宮の魅力には到底抗えない。
宮はすこし躊躇いつつも侍従に問うた。
「たった一言、話をすることも出来ないの?何故?どうして今更こんな……女房たちがそんな風に勧めたんじゃないの?」
「いいえ、決してそのようなことはございません!」
侍従はきっぱり否定し、
「もうすぐご計画の日がやってまいります。事前に漏れないようよろしくお計らいなさいませ。これほど勿体ないお振舞いを拝見しました以上、この侍従、身を捨てても何とかさせていただきますっ!」
力強く言い切った。宮にしても人目を憚るべき立場なので、一方的に浮舟を恨む筋合いはないのだ。
すっかり夜も更けたが吠えたてる犬の声は止まない。供人が追い払うたびに、弓を引き鳴らす音、荒々しい男どもの
「火、危うし!」
という声が響き渡る。いつまでもここにはいられるわけもない。はるばる京より万難を排し宇治にやってきた宮は、ついに恋人に逢わずじまいで帰ることになる。その傷心は如何ばかりか、察するに余りあった。
「どこで身を捨てようかと
白雲がかからぬ山を泣く泣く行く
では、さらば」
※いづくとも所定めぬ白雲のかからぬ山はあらじと思ふ(拾遺集雑恋-一二一七 読人しらず)
宮は歌を詠み、侍従を山荘に帰すよう命じた。うち萎れた宮の姿は如何にも悩ましく胸を打ち、深夜の露を吸って広がる香の匂いなどたとえようもない。侍従も泣く泣く帰途についた。
右近がきっぱり断った旨を聞かされた浮舟は、いよいよ心も乱れがちに臥せっていた。そこに侍従が入って来て匂宮の様子をありのまま語ると、押し黙ったまま涙にくれる。右近と侍従の前だが止めようもない。
翌朝、浮舟は泣き腫らした目を気にして、いつまでも寝所から出てこなかった。ようやく起きるや、おぼつかない手つきで掛け帯などして
(親に先立つ罪障を無くしたまえ)
と読経を行った。
勤行が終わると、宮が描いた絵を取り出して眺める。その手つき、表情、声―――すぐそこに宮の姿が見えるようだ。昨夜一言も交わすことなく終わったのが、今になってひと際悲しみが身に沁みた。
(気楽な場所で逢おう、と先々の約束までしておられたのに……どんな思いでおられるだろう。おいたわしい)
(薫さまにしても―――わたくしがいなくなったところで悪しざまに噂する人もきっとあるだろう。申し訳ないしお気の毒だけれど、それでも……軽薄でふしだらな女と物笑いになるのをお聞かせするよりはマシ)
「嘆き侘び身を捨てたとしても
亡きあとに浮名が流れてしまうことが気がかりです」
母君のことも恋しくてたまらないし、いつもは思い出しもしない弟妹たちのことすら懐かしい。宮の上―――二条院の中君など、もう一度逢いたい人は数多くいた。
女房達は皆それぞれ染物に精を出し何やかやとお喋りしているが、浮舟の耳には入らない。夜ともなれば如何に人に見られないよう出て行けるかを算段しつつ、一睡もしないまま朝を迎え―――気分は晴れず、自分が自分でないような感じがする。川の方を窺いながら、
(屠殺所に引かれていく羊の歩みも、今のわたくしのようにノロノロと進まないのかしら)
とぼんやり思うのだった。
匂宮からは相変わらずの饒舌な文が来る。この期に及んで、誰に見られるかもわからない返事は書けない。
「亡骸をさえこの嫌な世に遺さなければ
何処を目当てにすればよいのかと貴方も怨むでしょうね」
歌だけ返した。
(薫さまにも最期のお文を書きたいところだけれど……お二方それぞれに書き置けば、近しい間柄なのだもの、いつか聞き合わせることもあるかもしれない。きっといい気持ちはしないでしょうね。わたくしがどうなったのか、一切誰にもわからないまま消えることにしよう)
そんな中、京の母君から文が届いた。
「昨晩の夢で貴女とお逢いしました。とても苦しそうに何かを訴えてらした。あちこちのお寺で誦経をさせましたが、その夢の後はどうにも寝つけなくて、ついさっき昼寝をしたら……誰もが不吉だというようなことが夢に現れたので、驚いて文を差し上げました。よくよく慎んでください。人里離れた住まいで、時々いらっしゃる方の関係かしらとたいそう恐ろしく、ご気分もすぐれないと仰る時にこんな夢を見たものだから、色々と案じております。そちらに行きたいけれど、妹の……少将の北の方が今も容態がよろしくなく、物の怪めいて患っておりますので、片時も傍を離れるなときつく言われております。そちらに近いお寺でもぜひ誦経をさせなさいね」
寺への布施用の物や文などが添えられていた。これを限りと決めているとも知らず、娘を心配して細々と気遣う母の心が悲しいことこの上ない。
浮舟は、寺へ使者を遣わす間に返事を書いた。言いたいことはたくさんあったがどうにも気が引けて、ただ歌を詠む。
「来世でまたお目にかかることを思いましょう
此の世の夢には惑わされず」
誦経の鐘が風に乗って聴こえて来るのを、横たわった浮舟はしみじみ噛みしめる。
「鐘の音が消えていく響きに声を添えて
わたくしの命は尽きたと母君に伝えてください」
僧が持って来た巻物に書きつけた。
使者が、
「今宵のうちには京に戻れない」
と言うので、何かの枝に結びつけておいた。
「何でしょう……どういうわけか胸騒ぎがしてならないの。母君も夢見が悪いと仰っていたし、宿直人はよく警備してくださいね」
乳母の言葉にヒヤリとする。
「何かお召し上がりにならないと。いけませんよ、お湯漬けだけでも」
世話を焼く乳母を煩がりながら、
(こう言ったら何だけど……こんなに老いさらばえたこの乳母は、わたくしがいなくなったらどうするのだろう)
と思うと不憫でならない。
(もう此の世には生きていられないと、事前に少しでもほのめかしておこうか)
しかし口を開こうとしてもまず涙ばかりが溢れてくる。堪えるのが精いっぱいで何も言えない。
右近はすぐ近くに寝るといって
「あんまり思いつめないほうがよろしいですよ。物思いが過ぎると魂が抜け出るといいますし。夢見も悪いのでしょう?どちらかにお決めになって、どうなるもこうなるもお心のままになさってくださいな」
溜息をつきつつ宥め諭す。浮舟は着馴れた衣を顔に押し当ててじっと臥せっていた。
もう何も見ない、聞かない。考えない。
そういう世界に行くのだと。
参考HP「源氏物語の世界」他
にほんブログ村
コメント
コメントを投稿