おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

蜻蛉 六

2022年3月22日  2022年6月9日 


 引き続き、三条宮邸より少納言です。よろしくどうぞ。

 あれからまもなく、女一の宮さまから二の宮さまへと文が届きました。その手蹟は実に見事なものでしたので、

(期待通りだ。もっと早くにこうしていればよかった)

 薫さまは密かに胸を熱くされたようです。

 后の宮(明石中宮)さまも美しい絵をどっさり贈ってくださいましたので、薫さまも負けじとかき集められました。いずれ劣らぬ素晴らしい絵ばかりでしたが、特に薫さまのお心を掴んだのが「芹川物語」―――主人公・遠君が女一の宮と恋をして、秋の夕暮れに居ても立ってもいられなくなり逢いに行こうとする場面―――にございました。

(この物語のように、私を深く愛してくださったら……)

 ままならない我が身がやるせない薫さま、

「荻の葉に露が結んでいる上を吹く秋風も

夕暮れには特に身に沁みます」

 と書き添えようとした手を止められました。

(ダメだ、やめておこう。この程度のほのかな想いでも漏れ出してしまえば、しち面倒くさいことになりかねない世の中だ。一ミリたりとも表に出すまい。……こんなにあれやこれやと心がざわつくのも、よくよく考えればやはり大君を亡くしたせいだ。あの人が生きていらしたら、他の女になど目移りしたりはしない)

(大君が私の妻だったら……時の帝の娘御のご降嫁なぞお受けしなかっただろう。帝だって、私の心が他にあると聞し召されれば、縁談を持ちかけたりはなさらなかった。ああ、今になっても無情に、私の心を惑わせる橋姫よ……)

 無理に堰き止められた想いは、またもや中君さまへと向かいます。ですがどれほど恋しくても切なくてもどうしようもございません。愚かしくも悔恨ばかりが募る薫さま……中君さまへの恋心を抑えつけられたその次には、あっけなく亡くなられた浮舟の君の面影がよぎります。

(あまりに幼い、あまりに直情に過ぎた、軽率なやりようだった。しかしそれほど大変なことになったと思いつめていたんだ。私の様子がいつもと違うことに気づいて、罪悪感にさいなまれ嘆き沈んでいたと……)

(重々しい扱いではなく、ただ気安く逢える恋人として置くつもりだった。私とて軽い気持ちで、あの可憐な人をないがしろにしたんだ。もう……これ以上匂宮を恨むまい、浮舟をも酷いと思うまい。なにもかも私の恋愛下手が招いた過ちだ)

 独り懊悩する折々は増えるばかりにございました。

 心穏やかで自制心の強い薫さまですら身悶えするほどに苦しまれるのですから、まして人一倍情の深くていらっしゃる匂宮さまは尚更です。浮舟の君を喪った悲しみを、同じ心で語り合う人もおりません。ただ一人中君さまだけは

「おいたわしいこと」

 と同情してはいらっしゃいますものの、つい最近まで存在すら知らず、ほんの束の間の付き合いしかなかった妹君にございます。さしたる思い入れなどありません。そんな中君さまに対して、亡き浮舟の君が恋しいだの悲しいだのとあけすけに吐き出されることはさすがに憚られます。匂宮さまはまた宇治に使者を遣わされました。

 ここからは宇治の侍従さん、お願いいたします。


 ハーイ宇治の侍従です!

 といいつつ、実を言うともう宇治にはいないの。

 そもそもあの山荘にいた女房連中はもう殆どいなくなっちゃった。散り散りよ。後々まで残ってたのはアタシと、浮舟の君の乳母さんとその娘の右近ちゃん。特に結びつきが強い三人てことね。

 アタシは乳母子じゃなくて普通にお仕えしてた女房だったんだけど、何しろ今回の件にはふかーく関わっちゃったからね……暫くは事情を知る三人でいろいろ話し込んでたってわけ。

 だけど、だんだんアタシも宇治での暮らしが苦痛になってきたのよ。なんせ山奥だし、世にも荒々しい川音が夜となく昼となく聞こえるでしょ。アレも、いつかは京で華やかに暮らすんだ!って期待があるうちは何でもなかったんだけど、もう主の浮舟の君もいないわ、人も少ないわで尚更音が気になって、もうひたすら薄気味悪い場所としか思えなくなっちゃった。

 それでアタシも宇治を出て、京に戻ったのね。知り合いの家に無理言って居候してたんだけど、なーんとそこに!匂宮さまの使者がいらしたの。アタシを探してたんだって。

 すぐ二条院に連れてかれて、

「久しぶりだね侍従ちゃん。ねえ、このまま此処で仕えるってのどう?」

 宮さまにいきなりのこのご提案よ。

 いや、嬉しかったよ?借り暮らしのプーには渡りに舟よね?

 でも、二条院は勘弁なんだな……残念だけど。

 中君さまはいいよ?多分、普通に接してくださると思う。

 だけど女房さんたちがさあ……ゼーンブ知ってるわけじゃん?匂宮さまと浮舟の君とのアレコレ。女主のいわば敵ポジションの人間だからねアタシは。何ノコノコ来ちゃってんの?ってなるよ絶対。

「すみません……大変ありがたいお言葉なんですけれど、出来ればアタシ……后の宮さまのところでお勤めしたいです!」

「そうなの?いいよ全然オッケー。私の伝手って表立っては言えないけど、こっそり根回ししとくね!」

 ダメ元で頼んでみたら快諾されちゃってちょっと焦った。そりゃそうか、最強のコネ枠よね。

 そんなわけで今六条院にいまーす。

 それがさあ、何せ中宮さまだから超ハイレベルな職場で、今までと全然違うわけ。アタシ程度の女房なんて下っ端も下っ端、いわゆる下臈ってやつで、つまり上臈の女房さんたちのお世話係なんだけど……もうね、アタシ頑張った!超頑張った!明るくハキハキと率先して動く!身なりも立ち居振る舞いも見苦しからず目立ちすぎず!で、

「小奇麗でいい感じの方ね」

 って評価も勝ち取った!何とか受け入れて貰えたみたいイエー♪

 ここ、薫さまもしょっちゅう参上してらっしゃるのよね。見る度に胸がじーんとしちゃう。

 あとね、この職場って超ハイクラースの御令嬢がわんさか参集してるはずなんだけど、一通り見回してみても浮舟の君レベルの女子ってそうそういない。前に匂宮さまもそう仰ってたけど、あながち間違いじゃなかった。やっぱり稀有な美人さんだったんだなあってしみじみ……あっ内緒だからね!

 とはいえそこはやっぱり中宮さまのお膝元、稀に本物がいる……とんでもなく毛並みのいい、正真正銘のお姫様が。それが、この春に亡くなった式部卿宮さまの娘さん。

 どうも継母がとんでもない女で、宮さまが亡くなった途端娘さんを邪険にし出したばかりか、自分の兄が懸想してるからって強引に結婚させようとしたんだって。ソイツ、右馬頭っていう身分も見た目も全然パッとしない男でね。もちろん本人は嫌でたまらなくて毎日泣いてたらしい。

 それを聞いた中宮さまが、

「なんというおいたわしい。父宮がたいそうお可愛がりになっていた女君ですのに、そんな釣り合わない婚姻をさせるだなんて」

 なんて仰せになったものだから、その娘さんの実兄の侍従って人が(アタシとは関係ないからね!)、

「あの后の宮がお可哀想にと仰ってるんだ、いっそ宮仕えしてしまえ!」

 一気に話進めて、つい最近入って来られたのね。何せガチの皇統で教養も嗜みもバッチリ、姫宮(女一の宮)のお相手としてこれ以上ない人材なんで、最初から超VIP待遇。それでも女房だから「宮の君」って呼ばれて裳をつけていらっしゃるのは、元々のお家柄を考えるとお可哀想な気はする。でも、あんなイマイチな男と結婚させられるより百万倍マシよね、うん。

 匂宮さまは相変わらずで、

「浮舟ともしかして似てるところもあるかも……なんせ父親王同士が兄弟、従姉妹同士だもんね♪」

 もう既にこの「宮の君」に興味津々。

 浮舟の君のこともあって、ここ何か月かは今までにないくらいの無風状態で、

「なんだか最近落ち着かれたわね」「ついに大人におなりに?」

 なんて専らの噂だったんだけど、このところまたムクムク本来の性癖が噴き出してきたっぽい。虎視眈々と宮の君と接触をはかる機会を伺っていらっしゃるとか。別に浮舟の君のことは忘れてないし恋しく思ってはおられるんだけど、新参の女子にはチョッカイかけずにいられないのよね。ましてこんな滅多にない上玉だし。

 薫さまはその点、真面目に同情しておられるみたい。

(何だかな……こういうのってアリなの?ほんの少し前――父宮がご存命の折には、春宮の后とも目され、私にもご内意をほのめかされたこともあったのに。こんなにアッサリ凋落しちゃう事例を目の当たりにすると、水底に身を沈めても責められることではないのかも、とまで思ってしまう)

 そうはいっても六条院は宮中の殿舎よりずっと広いし、お庭の眺めも風通しもよくって快適そのもの、すっごく住みやすいのよね。中宮さまが長く里下がりしていらっしゃるからって、いつもはたまにしか来ない女房も集まって来ちゃってるからそりゃもう賑やかよ。たくさんある対の屋や、廊、渡殿まで人でいっぱい。

 それも夕霧左大臣さまのお蔭が大きくて、往年の六条院の様相に負けまいと万事完璧に維持管理なさってるのよね。一族で隆盛を極めてらっしゃるから、むしろ昔より華やかさは勝ってるかも。や、アタシはよく知らないけどさ! 


 そんなこんなで夏も終わって涼しくなってくると、中宮さまもそろそろ内裏に帰参しましょうか、って話も出て来たのね。

「いえいえ、秋の盛りを待ちましょう」「六条院の紅葉は素晴らしいですもの、是非それを拝見いたしましてから」

 若手の女房達は口々にもう少しもう少しっておねだりよ。そりゃそうよね、居心地良すぎて誰ひとり実家にすら下がらないんだもの。春の御殿の辺りは特にお庭もキレイで池もあって涼し気で、夜は月を愛でつつ、毎日のように催される管弦の遊びを楽しむ―――そんな夢のような華やかな暮らし、誰も離れたがるはずがない。

 管弦の遊びって演奏の良し悪しはもちろんだけど、演者とか周りで観てる人とかも鑑賞の対象だからね。六条院に来るメンツの中じゃもちろん匂宮さまがダントツ人気。朝夕見慣れてるはずなのに、あの場にお姿を現した途端、毎回よ?こんなイケメン初めて観た……!尊すぎる……!みたいな新鮮な気持ちになるのって。その次は薫さま。決して派手に目立つようなことはなさらないんだけど、いらした途端皆にビビッと緊張が走る。何て言うのかな、皆が皆それぞれに、

 アタシ、見られてる?!

 ってなるんだわ。そんなわけないのにね。思わず髪とか身なりとか整えちゃうみたいな。

 今日も今日とてお二方が中宮さまの御前にお揃いだから、物陰から覗き見中よ。

(薫さまと匂宮さま……あんなとんでもないイケメンお二人と縁づいた浮舟の君ってメチャクチャ幸運じゃん、どんな前世の徳を積んだのって思ってたのに。今生きておいでだったらどうなってたかしら。あまりにも儚い、あっけないお命だった……切なすぎる)

 こんなこと誰にも知った風な顔で話せないし、自分一人の胸に無理くりに抑え込まなきゃいけなくて辛いんだけどね。

 匂宮さまが内裏のホットな話題を事細かにお話しなさってる中、薫さまの方はもうご退出らしく立ち上がられて……アレ、此方に向かっていらっしゃる?!

(ちょっと待って、見つかりたくない……なんだあの侍従とかいう女房、女主の一周忌も待たないで京に出て来てチャッカリ宮仕えしちゃってんの?薄情な奴、とか思われちゃう)

 思わず隠れたわ。もちろん、そーっと後をついてったわけね。

 女一の宮さまがいらっしゃる東の対に通じる渡殿があるんだけど、その戸口がどういうわけだか開いてたのね。女房用の局がたくさんあるところだから、ガヤガヤしてる様子が遠目にもはっきりわかる。

 さすがに目立ったんだろうね。いつもは近づきもしない薫さまが寄って来て、

「ねえ、私とこそ仲良くすべきだと思わない?女同士だってこんなに安心してつきあえる人はいないよ?君たちの知りようのないことをいろいろ教えてもあげられるし……こんな風に道を開けてくれるなんて、少しはお近づきになれたようで嬉しいね」

 なーんてお声をかけられたんだけど……これさー冗談にしてもリアクション困らない?皆どう返事していいやらわかんなくって、ビミョーな雰囲気になったもんだから、弁の御許っていう熟年女房がずいっと前に出た。

「そもそも仲良くすべき理由のない人とこそ気兼ねなく付き合えるのでは?得てしてそういうものですわよ。ああこれは是非親しくしとかないと、とわかったからといって必ず打ち解けられるとも限りません。……すみませんね、これほど面の皮の厚い私が恥ずかしいわ~なんて引っ込んでおりますのも何ですので、しゃしゃり出てまいりました」

 薫さま、

「ほう、私に対し恥ずかしがる理由などないと?そんな風に見定めていらっしゃるとは残念」

 なんて仰るや、ぐっと距離を詰められたのね。誰も声こそ出さなかったけどエーって感じよ。生活の場だからね、唐衣は脱ぎっぱなしで端に押しやってあるわ、ダラダラ手習いでもしてたのか硯の蓋に短く折った萎れかけの花が置いてあるわ、けっこう散らかってる。皆それぞれ几帳の後ろに滑り込んだり、後ろを向いたり、押し開いた戸に隠れたりで、薫さまには頭の格好だけがチラチラ見えるのが面白かったんだろうね。硯を引き寄せて、

「女郎花乱れ咲く野辺に入り込んだからといって

この真面目な私が露に濡れたという噂を立てましょうか

 誰もうちとけてくれないしさ」

 なんて書いた紙を、障子のすぐ後ろにいた女房にスっと渡されたのね。その女房、慌てず騒がず冷静に、

「女郎花といえば名前からして色っぽいですが此方だって

そこらへんの露に無暗と乱されたりはしませんことよ」

 サクッと返歌よ。たった一首だけど当意即妙、危なげない筆跡でお見事!って感じ。薫さまも何者?って興味を惹かれたみたい。

 その人、裳もつけて身なりが整ってたから、今から后の宮さまの御前に出仕するところだったんだろうね。薫さまが出入り口に陣取られてるから出るに出られなくなってた。

 二つのお歌を見た弁の御許サン、

「何ですのその腰の引けたお歌は……お年寄りじゃないんですから。まだまだピチピチのお若い方ばかりだっていうのに、ほんに憎らしゅうございますこと!」

 またも混ぜ返して、

「旅寝してひとつ試してみませんか

女郎花の盛りの色にお心が移るかどうか

 その後で本性が如何なものか見定めるといたしましょうか」

 あからさまな煽り来たア!

「宿を貸してくれるなら一晩は泊まりましょう

 ま、そこらへんの花には心を移さない私ですが?」

 よーし乗った、やってやろうじゃないのって体の薫さまの歌に、さらに畳みかける!

「まーたまたご冗談を!私、そこらへんの野辺から抗議申し上げただけですわ!」

 えー本気にしたの?プププって……イッケズー。でもこういう掛け合いって見てる分には面白いよね。周りの女房さんたちはもうワクワクのドッキドキで、次の展開を待ってたわよ。なのに薫さまったら、ふと視線を落とされて、

「ああ、これはすまない。私が邪魔をしていたね。さあ、もう道を開けよう。分け隔てして恥じらっておられる理由は、あちらにいらっしゃる宮のせいかな?潮時ってことだね。というわけで私もこれで……」

 アッサリ退散されちゃった。

「あら、もうおしまい?」「いやだわ、皆が皆弁の御許さんみたいにやりこめる系じゃないのに」「もうちょっと色々聞きたかったわねえ」

 なんだかんだガッカリしてた。


 さて、薫さまは寝殿の東側の高欄に寄りかかってぼんやりしてらっしゃる。夕暮れの影がさすころ、花が咲き乱れるお庭の草むらを眺めやってしみじみと

「中んづく腸の断ち切れる想いのする秋の空」(白氏文集)

 という詩文を小さな声で口ずさみつつ。……え、案外凹んでる?単なるお遊びなのに。真面目なんだからもう。

 その時、さわさわと衣擦れの音が聴こえて来た。さっき歌を書き返した女房さんかな、裳をつけた人影が母屋の襖障子から向こうの、后の宮さまのいらっしゃる辺りに入ってった。

 追いかけるように聞こえてきたのが、誰あろう匂宮さまの声よ。

「ねえねえ、今向こうに行ったの誰?イイ感じの子だね」

「中宮さまにお仕えしております、中将の君にございます」

 御簾の内から女房の誰かがすかさず答えてた。

(ちょっと……どうなのアレ。誰だと軽く問われてアッサリ勝手に教えちゃうなんて、個人情報の扱いどうなってんの。あの宮には皆ナアナアの対応で馴れきっちゃってるみたいだな)

 薫さまちょっと、いや大分ジェラシーね。

(宮の、あのスっと懐に入る感じ……女ならきっとフラっといくよね。残念だけど私には到底、この女一の宮周辺であんな風には出来ない。悔しいな。何とかこの辺りで、匂宮が目をつけて熱心に言い寄っている女房を口説き落して、私が味わった辛さをお教えしたいものだ。道理を弁えた女なら私の方に靡くはずだけど、難しいものだな……人の心というものは)

(それにつけても、二条院の中君のおいたわしいこと。あの宮のお振舞いはまったく身分に相応しくないと、さぞかし胸を痛めておられるだろう。その点私とは、あまり距離を縮めるのは不都合だし世間の目も、と気にしてはおられるものの、完全に突き放すべき相手ではないともお考えだよね。なんとも光栄なことだ)

(中君ほど心栄えのある女房が、果たしてこの辺りに存在するものだろうか?すっかり入り込んで隈なく見ないとわからないかも。夜もよく眠れない物思い癖をどうにかするには、もう少し色恋ごとも見習う方がいいのか……いや、今更だな)

 うーん、二十七歳というお年で平安時代といえどもそこまで守りに入らなくても……と思うけど、今まであれほど品行方正にしてきた薫さまがいきなり匂宮さまバリのチャラ男に……って確かにキツイかもね、ご本人も周りも。

 

 その翌日だったか翌々日だったか、薫さま、今度は西の渡殿付近をウロウロなさってた。以前女一の宮さまを垣間見たところね。ちなみに、宮さまご自身は夜になると中宮さまのところで一緒にお休みになるから今はお留守。

 暇な女房達がこの渡殿でお月見と洒落込んで、楽しくお喋り中よ。誰かが弾く筝の琴が何ともやさしい爪音で、妙なる調べを奏でてた。

 そこに前触れなく薫さまがいらして、

「どうしてそんなに、人を焦らし顔に掻き鳴らしておられる?」

 って仰ったの。これね、「遊仙窟」っていう唐渡りの小説から引いてて、主人公が心惹かれる仙女の琴の音になぞらえてるの。音色につられて来ちゃったよってこと。

「故故将繊手 時時小絃 耳聞猶気絶 眼見若為怜」(遊仙窟)

 皆ビックリはしたけど、何せ宮さまはいらっしゃらないしさしたる緊張感も無いのよね。ちょっとだけ上げてあった御簾を慌てて下ろす、なんてこともしない。

「もしや似たような兄様がいらっしゃる?」

「気調如兄 崔季珪之小妹」(遊仙窟)

 なんてお返事をしたのは、あの中将の御許さんよ。

「いかにも。私こそ御母方の叔父だよ」

「容貌似舅 潘安仁之外甥」(遊仙窟)

 そんな引用だらけのたわいもない掛け合いの後、

「ところで女一の宮はまた中宮の方にいらっしゃるんだね。この六条院におられる間、どんなふうに過しておられるんだい?」

 どうよこの直球過ぎるご質問。

「どちらにいらしても大して変わりはございませんね。ただいつもこんなふうに過しておいでです」

 普通にこう応えるしかないじゃんね。なのに、薫さまがウッカリ温度高めの息を吐かれたのは、アタシ見逃さなかったわ。

(なんと優雅な身の上でいらっしゃる。自分と比べてつい溜息も出てしまったが、誰かに怪しまれてはいけないな)

 誤魔化すつもりで、差し出された和琴を調子もそのままに掻き鳴らされたのね。律の調べは秋!だから、適当に弾いてもいい感じ。まして薫さまの腕なら中々の聴き応えよ。なのに途中でフイっとやめちゃったから、ウットリ耳を傾けてた向きは生殺し状態。続き、続きを……って悶えてたわね。

 薫さまはまたもや妄想中。

(わが母宮も決して女一の宮には劣らない身分だ。ただ誰から生まれたかという違いだけ。女一の宮は后腹、母宮は女御腹だが、どちらもそれぞれの父帝がこの上なく大事になさっておられた。なのにどうみても此方の方が格上。不思議だ……やはり明石の一族というのが底知れない幸運を持っているということか)

(私の宿縁だって相当なものだと思うけどな。これで女二の宮に続き一の宮まで得られたらどんなにか……)

 んー、さすがに無理でしょってかんじかな。

 そうそう、あの宮の君って女一の宮さま付きの女房だから、この西の対にひと部屋もらってお住まいなのね。お付きの女房も多数。此方も同じくお月見してた。

(おいたわしい。此方もやんごとなき父親王の愛娘にはちがいないのに)

 なーんて思った薫さま、こちらにも立ち寄られたのね。

 宿直姿の女童が二、三人出て歩き回ってたんだけど、人影を見るや恥ずかしがって引っ込んじゃった。

(うん、これが普通だよね。さっきみたいに御簾さえ下ろさないってオープンすぎるよ)

 南面の隅の間で咳払いなさると、やや年輩の女房さんが出て来た。

「人知れず好意を持っておりますと申せば、誰でも言いそうな古事と思われそうですし、物馴れない態度でただ口真似しているようでもあります。真面目に『言より外に』言葉以外の表現を探さずにはおられません」

※思ふてふ言より外にまたもがな君一人をばわきて偲ばむ(古今六帖五-二六四〇)

 薫さまが仰るや、

「まことに思いもかけませぬ御境遇につきまして、故宮がお考えになっていたことなどが思い出されてなりません。このように折に触れてお話しくださる、陰ながらのお言葉にも感謝申し上げておられるようです」

 いきなり女房が答えちゃった。宮の君に伝える素振りすらなく。

(なんだ、通り一遍の扱いみたいで不愉快だな)

 ややイラっとした薫さま、

「もとより見捨てがたい血筋ということもございますが、今はそれ以上に、何なりとお声がけくだされば幸いに存じます。余所余所しく人づてにでは言いたいことも言えませんから」

 女房さん大慌てで、宮の君を引っ張ってきた。

「『松も昔の』と物思いに沈んでおりますうちにも、元よりと仰られるご縁が本当に頼もしく感じられます」

※誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(古今集雑上-九〇九 藤原興風)

 すっごーく若々しくて人好きがする、優しいお声だったんだけど、

(え、ホントに直に喋った。単なる局住まいの女房と考えると相当レベル高い部類だけど……うーん。いやしくも皇女のご身分だよ?どうしてほんの僅かでも人に声を聴かせたりなさるのかな)

 ご自分で人伝ては~と言っときながら勝手にガッカリする薫さま。そのままフラっと立ち去られちゃった。

 ……うーんうーん、どうしてそうなっちゃうのかな?薫さまだからこそ向こうも歩み寄ってくれた!って受け取った方がハッピーな気がするんだけど……じゃあどうすればよかったの?あそこまで言われてまた女房伝いってわけにもいかないじゃん?もうホント、薫さまってメンドクサ……ま、余計なことだけどね。

 六条院より、侍従でした!締めは少納言さん、お願いしまーす!


 侍従さん、長々お疲れ様でした。少納言でございます。

 先ほど三条宮邸に薫さまがお帰りになられました。

 心ここにあらずといった風情ですね。

(宮の君……ご容貌もきっとお美しいのだろう。見てみたいな。また匂宮のお心をかき乱す種になるんだろうね。興味深くもあるが、あんな感じだときっとアッサリ落ちちゃうだろうな)

(とはいえ、最上の身分の父宮に大事に育てられたやんごとなき姫君には違いないよね……あれほどのお方はそう多くはいない。考えてみると、あの宇治の俗聖のもと山奥の懐で生まれ育った姉妹に、少しも難というものが見当たらなかったのは奇跡に近いな。あの……頼りなくフワフワしていた浮舟だって、第一印象は決して悪くなかった)

 万事、あの宇治の一族に繋げておしまいになる薫さまにございます。


 また別の日の夕暮れ。

 あれほど風変わりで、辛くてたまらなかった御縁の一つ一つをつくづくと思い浮かべる薫さまの前に、蜻蛉がひらひらと儚げにひとつ、ふたつと飛び交います。

「そこにいると見えても手に取ることのできない

見えたと思うとまた行方もわからないまま消えていく蜻蛉

 あるか、なきかの……」

 いつものように独りごちていらしたとか。

<蜻蛉 六 ~オフィスにて~ につづく>

参考HP「源氏物語の世界」他

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