浮舟 六
薫の文は今日も宇治に届いた。
浮舟の体調が悪いと聞いて「具合はどうか」と尋ね、
「そちらに直接伺いたいのだが、よんどころない用事が多くてね。以前より今の方がかえって待ち遠しくて辛い」
などとある。
一方匂宮は、昨日の文の返事がなかったので
「何を迷っておられるのか。思わぬ方に靡かれるのではとハラハラしてるよ。私はますます呆けてしまったらしい。ただ物思うばかり……」
つらつらと恨み言を書き連ねてある。
春の長雨の頃に行き合わせた使者たちが、またも宇治で鉢合わせした。薫の随身は、相手が式部少輔(大内記)定信の家で時々見る男だと気づき、
「君はここに何の用で度々来るんだい?」
と問うた。
「私事で訪ねる人がおりましてね」
男は答えたが、随身は更に突っ込む。
「自分ごとなのにわざわざ恋文を届けるのって変じゃない?訳アリっぽいね。何で隠してるの?」
「……本当は、わが主の守の君に頼まれて、お文をここの女房に差し上げておるんです」
随身は、コロコロいうことが変わるこの男を不審に思ったものの、ここで問い詰めるのも無粋だとそれ以上聞かず別れた。
随身は極めて目端のきく男だったので、供の童に命じた。
「あの男、気づかれないように後をつけよ。左衛門大夫の家に入るかどうか確かめろ」
左衛門大夫とは先ほど男が言う所の「守の君」、匂宮の乳母子・時方のことである。
戻って来た童は、
「左衛門大夫の家ではなく、兵部卿宮邸(二条院)に入りました。式部少輔に文を渡しておりました」
そこまで調べられるとは身分の低い下衆は夢にも思っていない。そもそも、事情も深くは知らないのだ。いっぱしの舎人である随身に目をつけられたが運のつきであった。
随身は薫の邸に向かった。薫が今まさに出かけようとするところに駆けよって文を渡す。六条院に里下がりしている后の宮を見舞うので、身軽な直衣姿である。仰々しい行列などもなく供も少なめだ。
かの随身が文を取り次ぐ家来に、
「実は妙なことがありまして……確かめるのに今までかかりましてございます」
と言っているのが薫の耳にも入った。車に乗ろうと歩き出したところでそっと
「何事か?」
と問うたが、人に聞かれることを憚ってか無言で畏まっている。薫も察してそのまま出立した。
后の宮がまたも不調とのことで、親王たちも全員顔を揃えている。上達部も大勢参集して騒がしいが、特にいつもと違う様子でもない。
太政官の役人である大内記は少し遅れて来て、台盤所の戸口辺りにいる匂宮に手招きされた。宮が大内記から文を受け取るのを、薫は御前の方から下がりつつ横目に見た。
(さては女からの文だな。それも余程ご執心とみえる)
と興味を惹かれそのまま目を離さない。
(引き開けて見ておられる。紅の薄様……随分こまごまと書いてあるっぽいな)
文に夢中でわき目も振らない。暫くして夕霧左大臣が立ち上がってこちらに向かって来たので、薫も障子から出ようとしながら
「大臣が出られますよ」
と咳ばらいをした。
宮が文をサッと隠した直後に夕霧が顔を出した。急いで直衣の紐を懸ける宮の前で夕霧は跪き、
「私はそろそろ失礼いたします……はて、ここしばらくは物の怪も収まっておりましたのに、恐ろしいものですね。山の座主をただちに呼びにやらなくては」
と一言ちくりとやった。紅い文が余程目立ったのだろう。またいつもの女癖か、ということだ。
夜も更けたので全員が退出する。夕霧は匂宮を先頭に立て、大勢の子息の上達部や若君たちを引き連れて、夏の町・六の君の住まいに渡った。薫はその一行を見送ってから三条宮邸へと帰るべく外に出た。
もの言いたげな随身のことが気にかかっていた薫は、他の家来が松明を用意する隙にそっと呼び寄せた。
「さっき申していたことは何だ?」
「今朝、宇治の方で出雲権守の時方朝臣のもとに仕える男が、紫の薄様を桜に結んだ文を西の妻戸付近で女房に取らせておりました。つかまえて問うてみましたところ、言を左右にしつつ嘘臭い言い訳を申しましたので、怪しいと存じ童に後をつけさせました。すると兵部卿宮のおわす二条院に入りまして、返事を渡した相手が式部少輔道定朝臣(大内記)にございました」
薫は妙なことと思い、さらに聞いた。
「その文に対する返事はいつどうやって出したのだ?」
「それは見ておりません。別の出入り口からでしょう。下人が申しておりましたことには、紅い色紙のとてもきれいな文だったということです」
紅の文。
さっき見た文だ。間違いない。
そこまで見届けて確認した随身を気の利く者と感心したが、他の家来たちが近寄って来たのでそれ以上詳しくも話せなかった。
帰途につく間つくづくと考える。
どうあっても、匂宮が浮舟と関係を持っているとしか考えられない。
(なんという……恐ろしいほど油断も隙も無い宮だ。どういう機会をとらえてそういう女がいると聞きつけられたのか。いつ、どうやって言い寄られた?宇治のような鄙びた場所でこんな過ちが起こるとは思いもしなかった。甘かった……それにしても、私の知らないところでどんな恋愛沙汰を起こそうが構わないが、よりによって浮舟とは。昔からの幼馴染で、宇治を訪れる際にこれでもかという便宜を図った私を、いともアッサリと裏切るなんて)
不愉快でならない。
(中君のことをたまらなく愛しいと思いながらも長年何もなく過してきたのは、ひとえに私の慎重さが世にも珍しいレベルだからだ。しかもその思いは、昨日今日に始まった軽薄なものではない。元々の経緯もある―――何しろ私は姉の大君に中君を妻にと請われ、実際一晩を共にもしたのだから。ただ後ろ暗い真似をするのは自分にとっても苦しいことだからこそ、中君への恋心も抑えていたというのに)
(宮は最近やけに体調を崩されがちで、普段より周りに人が多かっただろうに、どうやってはるばる宇治まで文を遣っていたんだろう。いつから通われていたんだろうか。随分と遠い恋路を……そういえば宮の所在がわからないと皆が探している日もあったな。理由のはっきりしないお悩みとやらも要は恋煩いか。昔を思い出してみても、宇治に行かれない時のお嘆きたるや、それはもう痛々しいご様子だったから)
浮舟が妙に物思わし気にしていた様子も今なら合点がいく。あの時も、この時もそうだったのかと思い合わせると、どうにもいたたまれない。
(げに複雑怪奇は人の心というものだな。無邪気で可憐な風を見せながら、こんな浮ついた面もあったとは。この宮のお相手としてはまさに似つかわしい)
いっそこのまま譲り渡してしまおうか、とも思うが、
(正式な妻とするつもりで言い寄ったならともかく、浮舟はそうではない。このまま置いておくか……これを限りにもう逢わないとなるのも寂しい)
未練を断ち切れず思い乱れる薫であった。
(私が、嫌になったからと浮舟を捨て置けば、宮は必ずや引き取っていかれるだろう。相手の立場、行く末がどうなるかなぞ深くお考えになることもなく。同じような思い人が一品宮(女一の宮)の御前に二、三人出仕しているはず。そんな風にいち女房となってしまうのを見聞きするのも心が痛む)
やはり無下には見捨てられない薫、様子を探るべく宇治に文を遣ることにした。例の随身を呼び、手ずから人のいない隙をみて渡す。
「道定朝臣(大内記)は、今でも仲信の家に通っているのか?」
「そのようです」
「宇治へはいつもあの男を派遣するのか。ひっそり暮らしている女なので、道定も思いをかけたとみえる」
と溜息をつき、
「人に見られないように行け……笑われてしまうからね」
薫がいうと随身はははっとかしこまった。時方が始終薫について探りを入れ、宇治について問うていたことも報告するつもりだったが、
「宇治の女に言い寄っていたのは道定(大内記)」
という言い方をされてしまった以上、自分から馴れ馴れしく申し出ることはできなくなった。薫からすると
「下衆に詳細は知らせない」
という考えがあり、本当の相手が誰かという話はしたくなかったのだ。
薫からの文がまた、時を置かず届けられたことに宇治の人々も驚いた。その文にはただこうある。
「波が越えたとも知らない末の松
いつまでも待っていたとばかり思っておりました
物笑いの種にしないでくださいね」
(薫さま……まさか……?!)
動揺のあまり浮舟の胸は塞がる。意図を汲んだような返事などとても書けない。もし見当違いのことであればなおのこと始末が悪いので、この文をそのまま
「宛先違いのように見えます。妙に心が乱れて何も申し上げられません」
と書き添えて返した。
薫はこれを見て、
「なんと、うまい切り返しだ。これほど機転がきく人とは思わなかった」
つい笑みを誘われた。やはり憎み切れはしないのである。
こんにちは、王命婦にございます。ここからは私が語らせていただきますね。よろしくどうぞ。
薫さまのお文は、直截ではないものの明らかに何かを「知っている」ことには間違いがございません。浮舟の君の物思いはいっそう増すばかりでした。
(結局のところわたくしはもう進退窮まっているのだろう)
と思っている所に右近がやって来ました。浮舟の君の乳母子であり、匂宮さまに騙されてお部屋に入れてしまった女房です。
「殿へのお文をどうしてそのまま返されたのでしょう?縁起の悪いことですのに」
「……お間違えのように見えましたから、宛先違いかと」
浮舟の君はそう答えましたが、実のところ右近は始めから不審に思い、使者に渡す前に開けて見ておりました。ちょっと、いえだいぶルール違反な気もしますが、右近にしてみれば自分たちにも火の粉がかかりかねない事態ですから致し方なかったでしょうね。
この右近、盗み見たとはおくびにも出さず、
「ほんにお気の毒なこと。さぞお辛いことでしょう。どうやら殿は感づかれたようですわね」
などと言ったものですから、浮舟の君はパッと赤面して、黙ってしまわれました。右近が文を見たとはご存知ないですから、
(どこかで薫さまのご様子を見た人が何か言っているのだろうか)
と思われたものの、
「誰がそんなことを言っていたの?」
とてもはっきり問いただすことは出来ません。
(女房達はいったいどう思っているんだろう……恥ずかしくて居たたまれない。騙し討ちのように始まったこととはいえ、何という情けない宿世であることか)
身じろぎもせず横たわったままの浮舟の君の脇で、右近ともう一人秘密を知る女房である侍従の二人が語り始めました。
「侍従ちゃん、私事で恐縮なんだけど聞いてくれる?私の姉の話なんだけど、常陸国の男二人と同時期につきあっちゃったことがあるのね。身分の上下に関わらず似たようなことはあるものよ。これがまたどちらも優劣つけがたい愛情の度合いでね、姉はそりゃあもう迷いに迷って、結局新しい男の方に靡いちゃった感じなのよ。そうしたらえらいことになって……なんと、元カレが嫉妬に狂って新カレを殺しちゃったの!」
「えっヤバ。こわ。最悪の結末じゃん」
「そうなのよ侍従ちゃん。こうなった以上、元カレはもう通って来るどころじゃない。常陸国にしたって、あたら貴重な兵卒を一人失った上に、そんなことやらかした元カレをもう使うことは出来ないからって国外追放よ。姉も、そもそも二股かけたのが悪い、とても館の内には置いておけないって言われて、そのまま東国の人になっちゃった。ウチの母、未だに姉を恋しがって泣いてるわ。罪深いことよねえ」
ここからははっきりと浮舟の君に向けて、
「縁起でもない話のついでに申し上げますけれど、身分の上下を問わずこの手の恋愛沙汰でフラフラ迷われるのは一番よろしくありませんわよ。お命までにはかかわらずとも、それぞれの身分に応じたお立場ってものがございます。死ぬより勝る恥なんてことも、高貴なお方の身上にこそあったりしますからね。お一方にお決めなさい」
キッパリ言い放ちました。乳母子の気安さで更に畳みかけます。
「匂宮さまが薫さまよりご愛情の点で勝っておられて、真剣に仰って来られるのならば、もう腹を括ってそちらに靡いてしまえばよいじゃありませんか。メソメソグズグズしてないで。悩み過ぎて痩せ衰えられたって、それで何か変わります?あれほど母君がお心を砕きあちらこちらと奔走されておりますのに。私の母……乳母も準備に全身全霊をかけて大はしゃぎな中、其方は止めてこちらにいらっしゃいと宮さまが仰る、確かに板挟みでお辛いことと存じますよ?まことに大変なことと同情はいたします、ええ」
「まあまあ右近ちゃん、そこまで恐ろし気に詰め寄らなくても。ゼーンブ前世からの宿縁のせい!なんだから。ただただご自分の心に聞いてみてー、少しでも気持ちの傾く方が運命の人!って思えばいいんじゃないですかー?アタシが言うのも何ですけどー、宮さまってマジで浮舟の君にラッブラブじゃないですかー勿体ないくらい。正直、大将殿のなさりようは淡々とし過ぎててキュンとは来ないんですよねー。暫くどこかに隠れてでも、自分の気持ちのある方に行けばいいと思いまーす!」
侍従はどうしても宮さま贔屓になるようです。
「どうかしら、そんな簡単なことじゃないと思うわよ侍従ちゃん。それはともかく、私は日々無事で過せますようにって初瀬や石山に願を立ててるの」
「へ?何でまた?」
「この山荘に通って来る荘園の人たちって皆、ガタイのいい荒っぽい感じじゃない?一族郎党この近辺の里に住んでるらしい。だいたいがこの山城国、大和国内の殿の所領地って、ここの内舎人(うどねり)って人となにがしかの縁で繋がってるみたいなのね。その内舎人の婿の右近大夫が警護の万端を一手に握ってて、殿からの御指図はそこから出される。貴族同士の間でならさして酷いことも考えないだろうけど、分別の無い田舎侍たちが入れ替わり立ち替わり宿直にくるわけだからね。自分が当番の時に滅多なことがあってはいけないと思うあまり、何仕出かすかわかんないわよ。だからこの間の、深夜アポなし訪問はほんっとに身の毛もよだつ所業だったわけ。宮さまにしてみれば出来るだけ目立たないおつもりで、供人も最少限にして身をやつしておいでになったんだろうけど、そういう輩に万一見つかってたらって思うとさ……ただじゃ済まないわよ」
「たしかに。もしも間違って宮さまに怪我でもさせてたら……ヒイイ」
「でしょ。大変なことだったのよ?」
右近と侍従の際限なく続くお喋りは、すぐ傍にいる浮舟の君の耳には嫌でも入ります。
(この二人、わたくしが宮の方に傾いていると言わんばかり。聞きたくない……わたくしの気持ちといわれても、どっちがいいかなんてわからない。ただ夢を見てるみたいに茫然とするばかり。わたくしに激しく執着なさる宮をどうしてそこまで、とは思いこそすれ、お世話になり始めてからもう二年にもなろうという薫さまから乗り換えようという気にもなれない。だからこそ悩んでいるっていうのに。それにしても、右近の言う通り現実として何か起こってしまってからでは遅い……)
もとより聡明な方にございます。すっかり考え込んで、
「わたくしは……どうしたら死ねるかしら。世間並に身をかためることすら出来ない。こんなに情けない境遇に陥った例は、低い身分の人たちにすらそうそう無いでしょう」
と突っ伏してしまわれました。
「いけませんわ、そんなことをお考えになっては。あまり深刻に捉えないようにと思って、普通なら言わないような姉の話もしたのですから。これまでは、意に染まぬことがありましても受け流して穏やかにしていらした貴女が、宮とのことがあってからやたらと苛々しておられて、どうしたものかと心配なのですわ」
事情を知る右近と侍従の二人ばかりはやきもきしておりましたが、何も知らない乳母は満ち足りた思いで一人染物に熱中しております。新参の女童で見目の良い子を呼んでは、
「姫君、ご覧なさいましよ。可愛らしい子ですよ」
と浮舟の君を元気づけようとするのですが、顔も上がりません。
「こんなに臥せってばかりおられるのは、物の怪が邪魔をしているのかしらねえ」
嘆くばかりにございました。
参考HP「源氏物語の世界」他
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