浮舟 二
匂宮の頭の中はもう「そのこと」で一杯である。新年の行事である賭弓や内宴なども終わり、周りは来るべき司召の除目に向け右往左往しているがまるで関心なく、ただ宇治にどうやって行くかということだけを思いめぐらせていた。大内記は今回どうしても得たい官職があり、昼夜を分かたず宮に取り入ろうとしているところである。その思惑は承知の上、いつもより親しく召し使って、
「どんなに難しいことでも言う通りにしてくれる?」
と切り出した。大内記は恭しく頭を垂れる。
「言いにくい話なんだけど……あの宇治に住んでる女のことね。以前私がちょっとだけつきあってた女っぽいんだ。行方がわからなくなってたんだけど、どうも薫に尋ね出されたとかいう人と合致するところがあって。確実にそうなのかどうかわかんないから、直接物陰から覗いて見極めたいなと思ってる。絶対誰にも知られないようにしたいんだけど、どう?」
(こりゃあまた厄介な頼まれ事だな)
と大内記は思うも、出来ないとは言えない。
「お出かけになられること自体は、まあまあ荒っぽい山越えではありますが、そこまで遠くもございません。夕方に京を出られれば亥子の刻(午後十時)ごろには到着するでしょう。夜明け前に帰られればよろしい。誰か気づくとすれば傍でお供する者だけでございましょう。それも深い事情などどうしてわかりましょうか」
「そうだな。昔も一度二度は通った道だ。軽率だと非難を負うことだけが心配なんだよね」
匂宮は我ながらありえない、物狂いのような振舞いだと繰り返し思い返すも、一度口にして動き出してしまえばもう止められない。
供には昔から宇治への案内をしていた者二、三人をつけ、大内記、その他乳母子の蔵人から五位になった若者など、親しい者ばかり選り出した。
「薫右大将殿は今日明日は宇治に来られる予定はない、とのことです」
大内記から得た確かな情報をもとに出立である。
(昔を思い出す……あの時、薫が引くほど綿密に計画立てて、宇治に連れて行ってくれたよな……ああ、何だかすっごい後ろめたい)
さまざま思い出すものの、京の中でさえ無暗に忍び歩きはし難い身分である。粗末な格好に身をやつし、馬に乗って出かけるのも何やら怖ろしいようで気が咎めるが、とにかく知りたいことがあれば突き詰めねば済まない宮は止まれない。どんどん山深くへと入り込んでいく。
(やっぱり遠いな……どうだろう、これでもし何も確かめることすら出来ず帰る羽目になったら、どれだけ凹んでモヤモヤしっぱなしになるやら)
と思うと気が急いてならない。
法性寺の辺りまでは牛車で、そこからは馬に乗った。急ぎ駆けて、宵の過ぎる頃には到着した。山荘内は三条宮邸に通う大内記により事前調査済みで、宿直人がいる側には近寄らず、葦垣を巡らせた西面を少し壊して入った。
大内記自身もまだ観たことのない建物でさすがに不案内だが、そう多くの人がいるわけもない。寝殿の南面辺りで火がほの暗く見え、そよそよと衣擦れの音もする。大内記は戻って、
「まだ女房達は起きておりますようです。直接こちらからお入りください」
と宮を案内した。
そっと縁側に上がり、格子の隙間を見つけて近寄る。サラサラと鳴る伊予簾が揺れないように気を配る。新しくて小奇麗だが、やはり荒い造りで隙間だらけだ。誰かが来て覗き見するなど思ってもみず、完全に気を許し穴も塞がず、几帳も帷子をめくり上げて横に押しやっていた。
火をあかあかと灯し縫物をする女房が三、四人。可愛らしい女童が糸を縒っている。その顔には見覚えがあった。あの日二条院で見かけて「新しい子か?」と追った女童だ。見間違いかもしれないとまだ疑ううち、右近と呼ばれる若い女房を認めた。しかし、此方は中君に仕える右近とは別人だ。
その向こうに―――腕を枕に灯りを眺めている女がいた。浮舟である。その目もと、髪のこぼれかかった額つき、際立って品よく優雅で中君にたいそうよく似ている。
右近が衣類を折り畳みながら、
「いったんお出かけとなりますと、すぐにお帰りにもなれませんよね。昨日来た使いは、
『殿は、今度の司召の時期が過ぎた二月初めには必ずおいでになりましょう』
と申しておりました。お文には何と書いておきましょうか?」
と問うても浮舟は返事もせず、物思いに沈んでいるようだ。
「もし行き違いになったりしたら、何だか避けてるような体になって気まずくないです?」
もう一人、向かいにいた女房が、
「それはさ、かくかくしかじかで外出してますって詳細をご連絡申し上げればいいんじゃない?無断でお気楽に出かけたせいで逢えませんでしたーなんてあんまりでしょ。石山詣での後はご実家に寄らずにそのまま戻られた方がいいかもですね。ここ、たしかに心細いお住まいですけど、誰憚ることなく気まま勝手に過せますもの、かえって元のお邸の方が仮の宿って感じじゃないです?」
と言うと、またもう一人が、
「やはり暫くはお出かけは控えて、此処でお待ち申し上げた方が無難で体裁もよろしいのでは。そのうちきっと京に呼び寄せられることでしょうから、それからゆっくり母君にもお会いすればよいではありませんか。だいたいあの乳母が何でもセッカチに決めすぎなんですよ、お参りするついでにご実家にも~なんて勝手に先走っちゃって。昔も今も、少々辛抱しておおらかに構えている人こそ最終的に幸せを掴むってものです」
などと言う。右近は、
「ホントそれ。どうにかしてあの婆様を止められなかったかしらね。年寄りは強情だし話も聞かないから仕方ないんだけど」
と毒づく。遠慮のない物言いからして、どうやらあの乳母の娘のようだ。
(乳母って、あのメッチャ邪魔してきた婆か。とするとやっぱり間違いない)
匂宮はもう夢心地である。女房達は此方が恥ずかしくなるほど打ち解け切った話を続けて、
「彼方の、宮の御方さま……中君さまこそ素晴らしいご幸運をお持ちよね。右大臣があれほどのご威勢を以て鳴り物入りでご結婚させたお方にも負けず、若君が生まれてからはその地位を揺るぎないものにされた。ウチの母みたいな出しゃばりな乳母もいない、お心穏やかに賢く振る舞っていらっしゃるからこその勝利でしょう」
「殿さえ今のお気持ちが変わらずにいらっしゃれば御方さまだって、中君さまに劣ることなど……」
浮舟は身体を起こし、
「なんと聞き苦しいこと。赤の他人なら負けまいとも何とも思いましょうが、彼方のお方と比べるのはやめて。どこからか漏れ聞こえたりしたら申し訳が立ちませんわ」
と言う。宮は、
(どのくらい近い親族なんだろう?よくもまあ似ていること……毅然とした品の良さは中君の足元にも及ばないが、此方はただただ可愛いな……ちょっと小づくりなところもイイ)
すっかり心を奪われた。これは、と目を付けた相手ならば少々難があろうがどこまでも追いかける宮である。まして隠れなく見てしまった今は、
「どうやってこの女を我が物にするか」
頭の中はもうそれしかない。なおも覗き見続行するうちに、
「ああ、すごく眠い。昨夜も何とはなしに徹夜してしまったんだもの。明日の朝早くにでも縫ってしまうわ。急いだところで、車が来るのは日が高くなってからよね」
右近が言って、縫いさしたものをかき集め几帳に掛け、うたた寝するように横になった。浮舟もすこし奥に入って臥せった。他の女房達もそれぞれ寝支度をはじめる中、右近は一旦起き上がり北面の方に行って、また戻って来た。浮舟の後方に寝るようだ。
皆眠かったのだろう、あっという間に寝息が聞こえて来た。宮は、
(ままよ、他にどうしようもない)
と意を決し格子を静かに叩いた。右近が聞きつけて、
「どなた?」
と問うも、こんなところに来るような「高貴な方」は一人しかいない。如何にも品のある咳ばらいを聞いて、
(大将殿がいらしたのだわ)
と思い、起きて出ていった。
「まずここを開けてくれ」
宮が言うと、さすがに訝しんだ右近が応える。
「おかしなこと。こんな時刻に如何なさいました?夜も遅うございますのに」
「どこやらへ外出なさるらしい、と家司の仲信が言っていたから、驚いてすぐに出て来たんだが……まことに困ったことになった。とりあえず開けてくれないか」
薫そっくりに似せて小声で言うので、右近は匂宮とは思いも寄らず戸を開けた。
「道中で酷く恐ろしい目に遭ってね、みっともない姿になってしまった。灯りは暗くしてくれ」
「まあ、それは大変」
右近は慌てて燈火を遠ざけた。
「私の姿を他の人に見せないように。来たからといって起こさなくていい」
宮はこの手の偽装には長けている上に、元より声もすこし似ている。薫の雰囲気をそっくり真似てまんまと入り込んだ、
「物盗りにでも追われたのかしら……おいたわしいこと」
と右近自身も隠れて覗き見をした。
すっきりと細身でなよやかに装束を着こなし、漂う香の芳しさも劣らない。サッサと寝ている浮舟に近づいて衣装を脱ぎ、如何にも慣れた風に滑り込んだ。右近は、
(いくらなんでもこんな近い所で)
と思い、
「いつもの、奥のお部屋にどうぞ」
移動をすすめたが、返事が無い。仕方なく夜具を渡し、寝ている女房たちを起こして、寝場所をやや遠ざけた。供人の接待は此方では行わないことになっていたので、周りに誰もいなくても不審に思う者はいなかった。
「まあ、何ともお熱い夜のご訪問ですこと」「ここまでして此方にいらっしゃるお気持ち、浮舟の君はご存知ないのね」
もっともらしく言いあう女房たちを、
「しっ、お静かに。夜は囁く声こそよく目立ちますのよ」
右近が窘めて、皆寝入ってしまった。
(ちがう……殿じゃない!誰?!)
浮舟は驚いて声を上げようとしたが口を塞がれた。
中君がいる二条院ですら誰憚ることなくやりたい放題だった匂宮である、まして人里離れたこの宇治の地では尚更だ。浮舟にしても、予め予想がついていればどうにかあしらう術もあったかもしれないが、完全なる不意打ちである。夢なのか現実なのかも定かでないうち、耳元で囁かれる内容が少しずつ頭に入ってきた。
「あの時は逃げられてしまって辛かったよ……どれほど長いこと貴女を思っていたか」
(この声……まさか、匂宮さま?!何ということ……中君が、姉君がこのことを知ったら)
周りに助けを呼ぼうにも声も出せない。それ以前に相手は宮である。あの時すぐ傍で見張っていてくれた乳母も不在。止められる者などここには誰もいないのだ―――。
浮舟は声も無くただ涙をぽろぽろと零した。
宮も泣いた。此方は、もうたやすくは逢えなくなることを思っての涙だ。
夜は委細構わず更けていく。
はじめまして、右近でございます。え?右近出過ぎ?いえいえ、中君さまのところの右近さんとは別人でございますよ?私、浮舟の君の乳母の娘です。初めての語りで緊張しておりますが、よろしくどうぞ。
いやもう、ほんっとうに、大変でした……まさかこんなことになるなんて。
昨夜は普通に寝て、供人らしき咳払いで目覚めました。やれやれお帰りかしらと起きてお二人の御前に参りまして、近寄った途端、
「まだ帰らない」
とお声がしました。
「もう片時も離れたくない。京に帰れば、再びここに来ることは難しくなる」
あらあら、あの大将殿がここまで仰るなんてお珍しい、と思いましたところ、更に大きな声で―――
「京から色々言って来るだろうが、今日だけはこのままでいたいんだ……何事も『生ける限りのため』こそ。今は離れたくない!」
※恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人の見まくほしけれ(拾遺集恋一-六八五 大伴百世)
……え?
このお声……?
誰……?
昨夜暗い中で見たお姿、いかにも高級そうなお召し物、そしてあの話し方、並の身分ではない。宇治の、この場所を知っている高貴な殿方なんて限られている。そう、ただお一人―――!
(ああ、やられた……まさか、あの匂宮さまがここまでされるとは)
あまりのことに気も遠くなりかけました。
(いや……ちょっと待って。今となってはアタフタ騒いだところでどうにもならないし、宮さまに対し礼を失するというもの。今考えると、二条院で偶然女君を見つけられた上、やたらお気に召されたのも、事ほど左様に逃れられない宿世ってものだったんじゃないかしら。誰のせいとかいう話でもないわ)
どうにか気持ちを立て直し、落ち着けと自分に言い聞かせつつ、宮さまに申し上げました。
「本日、母君からお迎えのお車がまいりますが、どのようにあそばすご予定でしょうか。このような逃れようもない宿世には何とも申し上げようがありませんが、あいにく日が悪うございます。今日のところはお帰りになられて、お心がございますれば後日改めてゆっくりと……如何でしょう?」
(お心があれば、と来たか。生意気な)
とでも思われたのでしょう、ムっとしたお顔で、
「私はね、何か月も恋患いし続けたものだからすっかり呆けちゃったんだよ。誰に非難されようがそんなのどうでもいい。それほど切羽詰まってるんだ。だいたいさ、少しでも身の上を憚るような人が石山詣でとか思い立つ?お迎えの面々には『今日は物忌なんで無理ー!』とでも言えば?お前も人に知られたくなきゃ、全員のために黙ってよきように計らえ。それ以外は一切、手出しも口出しも無用!」
言い放たれました。もはや恋の熱に浮かされて、後先も考えられなくなっていらっしゃるようです。
私は困り果てて部屋を出ました。先ほど咳ばらいをしていた大内記とかいう家来に、
「宮さまがかくかくしかじかと仰せなのですけれど」
と切り出し、
「やっぱり、あんまりななさりようだと進言していただけないかしら?酷すぎよ。目に余るお振舞いと申し上げても過言ではないわ。いくら宮さまがお望みだからといって実行するかしないかは、貴方がた供人の心ひとつではないの?何でまたうかうかとお連れしてしまったわけ?この辺りには無礼を働いたり、口さがなく噂したりするような山がつがいくらでもおりますのよ。ホントにもう、どういう了見なのッ!」
ガンガン責め立てました。
なのにこの大内記、
(うわーメンドクセ)
みたいな顔をしてボーっと突っ立ってるだけ。
「もういいわ貴方は。で、時方と仰せられた人はどちらにッ?!」
思わず声を荒げると、向こうにいた男が笑って此方に近づいてきました。宮さまの乳母子である五位の蔵人・時方です。
「そんなにプンスカされては恐ろしくて、言われなくとも一目散に逃げたくなりますよ。いや真面目な話、宮さまのただならぬ真剣なお心を拝見したもので、誰も彼も身を捨てて此方に参った次第です。そろそろ宿直人も皆起きてきましょうし、我々はすみやかに退散いたしますから」
「えっ?!宮さまは?!」
「どうせ帰らない!とか仰ってんでしょ?ああなるとテコでも動きませんよあの方。改めて出直しますわ。じゃ、そういう事で」
「ちょっとー!」
あっという間に出て行かれちゃった。
(いや、嘘でしょ……どうするのコレ。私一人で何とかしろと?)
とりあえずこの事態を他に漏らすわけにはまいりません。
起きて来た女房たちに、
「実はね、大将殿が……訳あって昨夜秘密裏に此方へいらしたの。道中で酷いことがおありだったみたいで、お召し物なんかも夜になってからこっそり持ってくるようにって仰せなのね」
と言いました。
「あらまあ怖いこと!」「木幡山は物騒だといいますからね。いつもの先払いはつけていらっしゃらなかったのかしら」「お忍びでいらしたのね。大変だわ」
たちまち騒ぎ出す女房達を、
「しーっ、お静かに!下衆どもの耳に少しでも入ったらすぐにあらぬ噂が立ちますことよ」
黙らせたものの、もういつバレるかと気が気ではありません。この上、本当に薫さまからお使いでも来たら何としよう、また嘘の上塗り?と思うとシンドすぎて無理でした。
「初瀬の観音さま、どうかどうか今日一日何事もなく暮らせますように!」
ええ、こっそり大願を立てましたとも。
今日は石山詣でを予定しておりましたので、此方も全員精進潔斎して身を浄めておりましたが、やむなくキャンセルとしました。理由は『よんどころない物忌』、平安時代最強にして最高に便利な言い訳ですね。みんなガッカリしてましたけど仕方ない、物忌ですから。
日が昇ってまいりましたので格子を上げましたが、お二人のお世話は私一人のみが受け持ち、母屋の簾は端から端まで全部下ろして「物忌」の札を下げました。
(母君が万一此方に来られたら、女君の夢見が悪く無理でした、とでも申し上げればいいか)
ここでも迷信深い平安バンザイです。
さて、朝ですので御手水をお持ちせねばなりません。いわゆる洗顔、口すすぎですね。通常ならば数人がかりでする仕事ですが、前述の通り私一人です。大変そうだと思われたのかどうかわかりませんが、匂宮さまは
「貴女が先に洗いなさい」
と浮舟の君に譲られました。
ちょっと驚きましたね……大将殿ではありえないお心遣いです。
見目麗しく雰囲気も良い薫さまを見馴れた女君も、
「なんて可愛い、愛しい人なんだ……もう一瞬も目を離したくない。もし逢えなくなったら死んじゃうかも」
なんて歯の浮くようなセリフを矢継ぎ早に囁かれ、熱のこもった目で見つめられ続けていますと、
(お心ざしが深いとはこのようなことを言うのかもしれないわ)
などと実感せざるを得ません。とはいえ、
(わたくしはいったいどうなってしまうのかしら……皆がこのことを聞いたら何と思うだろう)
まず中君さまのお顔が頭に浮かびます。なのに宮さまは、
「貴女が誰なのか知らないままなのが、もう気になって気になって仕方がないよ。この際だから洗いざらい打ち明けちゃえば?メチャクチャ身分が低いんだって言われても全然問題ないよ?私のこの愛は変わらない!」
シツコク問われます。女君は頑として答えません。他のことならば、愛らしい話し方で親し気に返事もなさってすっかり打ち解けた風なので、宮さまはますます愛しくて仕方がないようです。
日も高くなった頃、お迎えの一行が到着しました。車二台と、いつもの馬に乗った荒武者が七、八人です。大勢の男連中が相も変わらず品のない様子でペチャクチャと喋りながら入ってきたものですから、女房達は体裁悪がって、
「ちょっと!あっちから入ってくださる?!」
などと裏側に追い遣っておりました。
(どうしよう。大将殿が此処にいらっしゃるなんて下手に言うのはマズイわね。あれほどのお方の居所、京の誰も知らないなんてことはありえないもの……え、どこそこにいらしたわよ?なんてことになったら万事休す)
誰にも相談できる者はおりません。独断で母君への返事を書きました。
「女君におかれましては、昨夜より穢れ(生理)がありまして……なんと残念なこととお嘆きでしたのが、さらに今宵の夢見もただならぬご様子。今日一日はお慎みくださるよう、物忌といたしました。返す返すも口惜しく、悪夢に邪魔されているような気がいたします」
一行に食事も振舞い、弁の尼君にも、
「今日は物忌があり外出は無しです」
と知らせました。
いつもは暇すぎて時間が経つのが待ち遠しいくらいでしたのに、この日はあっという間でしたね……まあ、お二人は私とまったく違う理由でそうだったようですが。
霞んだ宇治の山際を仲良く寄り添って眺めているうちに、もう夕方?みたいな。
「ああ、もう日が暮れてしまうね……侘しい」
なんて仰りつつ、女君をぐっと引き寄せる宮さま。誰にも邪魔されないのどかな春の日、「見れども飽かぬ」とばかりにとろけるような目線を送り続けます。
※春霞たなびく山の桜花見れどもあかぬ君にもあるかな(古今集恋四、六八四、紀友則)
「いくら見ても見たりないよ。欠点なんて何もない、愛嬌もある、もう貴女の魅力には抗えない……」
……正直申しますと、いくら若くてお可愛らしい浮舟の君といえども、彼方の御方さま―――二条院の中君さまには見劣りします。似てはいらっしゃいますけどね。まして六条院の、今を盛りと艶やかに時めいていらっしゃる六の君と比べたらお話にもなりません。まあ恋は盲目と申しましょうか―――。
「こんな良い女は他に知らない!」
処置無しといった具合ですね。
浮舟の君の方もまた、これまで薫さまの清らかなお美しさをこよなきものとご覧になっておりましたが、
「情愛細やかでパッと目を惹く華やかさは、この宮以上のお方はいらっしゃらないかも」
と思い至ったようです。
硯を引き寄せて手習いなどなさる宮さま、サラサラと淀みなく書きすさんで、絵なども達者にどんどん描かれるので、お若い女君のお心はさぞかし騒がれたことでしょう。
「逢いたくても逢えない時はこれを見てね」
と、見目良き男女が添い臥している絵を描かれて、
「いつもこうだったらいいのに……」
なんてことを仰りつつポロっと涙まで零されるんですから、そりゃもうひとたまりもございません。
「末永い仲を約束してもやはり悲しいのは
ただ明日をも知れぬ命である
こんなこと考えるのって縁起でもないけど……自分の身も心もまったく思うに任せないし、色々と目論んでる間に本当に死んじゃうんじゃないかと思って。貴女を探してる間も辛かったけど、今の方が苦しい。どうして探したりなんかしたんだろうね」
宮さまの言葉に、女君は墨を含ませた筆を取られて、
「心変わりなど嘆いたりしないでしょう
此の世は命だけが移ろいやすいと思うなら」
と、割合クールなお歌を書かれたのですが、恋愛脳は何もかも変換しますね。
「私の心変わりが心配なの?カワイイね!じゃあさ、これまでどういう人の心変わりを見て来たわけ?」
満面の笑みで、薫さまが此方に浮舟の君をお連れした時の話を知りたがる宮さま。これも何度も何度も問いただされるものですから、女君も流石に辟易されて、
「申し上げられないことばかり、何故そんなにも」
目を伏せられて恥じらうお姿が初々しいことこの上ありません。
何が何でも無理やり聞き出してやろう、というのではないのですが、何かとトラップをかけてウッカリ口を滑らせようと画策なさる宮さま、中々にたちの悪いお癖をお持ちのお方にございます。
夜になり、一旦帰京した時方が再び参上してきたもので私が面会しました。時方は、
「后の宮からも使者が参りました。右大臣も御不快を露わになさって
『誰にも知らせないお忍び歩きなど軽々しいにも程がある。どんな無礼な目に遭うかもわからないのに。これが帝のお耳に入りでもしたら責めを負うのは私。どれだけ辛いことになるか』
と強い口調で仰っておられました。一応、東山に住む聖に会いにいったことにはしておりますが」
などと語って、
「まったく女より罪深いものはありませんね。我々のような一介の家来まで惑わせて、嘘偽りを騙らせるとは」
ハア?というようなことを付け加えてきたので、ええ、キッチリ応酬させていただきました。
「此方の御方さまを聖とお呼びくださいましたとは結構なことでございました。貴方の罪とやらもその功徳で滅されることでしょう。まことに、たいっへん怪しからぬご性癖、いったいどうしてそのようなお癖がついたのでしょうね?予め、此方へいらっしゃるご予定と承っておれば、たいっへんに畏れ多いことですから、もっとうまくお計らい申し上げましたのに。無分別なお忍び歩きでしたことッ!」
言い捨ててサッサと御前に戻り、丸っとそのまま申し上げました。
「そうか。向こうじゃ騒ぎになってるようだな」
宮さまは溜息をつかれて、
「まったく、自由にならない我が身が恨めしい。軽い身分の殿上人にでもなりたいよ、暫くの間だけでも。さてどうしよう……人目を慎むとはいっても、いつまでも隠し通せるものでもない。薫はどう思うやら。叔父と甥って関係以上に、昔から不思議なくらい仲良くしていたのにこんなこと知れたら、もう顔向けできない。いや私はともかく、だいたい浮気されると自分が放っといた事は棚上げして女を責めるパターンがあるじゃない?薫が貴女を恨むことにならないか心配なんだ。夢にも知られないよう貴女を隠して、ここじゃない何処かへ連れて行ってしまいたい……」
などと世迷い言を仰る始末です。
こうなってはさすがにここに籠り続けるわけにもまいりません。潮時だとは宮さまもご承知なのですが、女君の袖の中にも魂を留めたいと……身を切られるようなお気持ちでいらっしゃるようです。
※あかざりし袖の中にや入りにけむ我が魂のなき心地する(古今集雑下、九九二、陸奥)
浮舟の君もこの二日間で、宮さまの情熱にすっかり絆され捕らわれて―――お二人にとって、今宵はあまりにも濃く、あまりにも短い夜にございました。
夜が明け切る前に、と供人たちが咳払いで促します。妻戸までお二人一緒にいらしたものの、とてもそのまま独りで出て行くことがお出来にならない匂宮さま。
「いったいどうしたらよいのかわからない
先に立つ涙が道を真っ暗にするので」
女君も別れを惜しむこと限りがありません。
「涙もこの狭い袖では止められません
どうやって別れを止めることができましょうか」
風の音もいっそう荒々しく霜も深い暁にございました。
ようやく離れて馬に乗られた宮さまは、
「急に身体が冷えてしまったようだ……」
などと呟かれつつ、引き返したい……とグズグズ何度も振り返られますが、馬の口輪を持つ大内記と時方は、
「冗談じゃありませんよ」
といった体で馬の尻を引っぱたかんばかりの勢いです。魂が抜けたようになられた宮さま、ようやくお帰りになられました。
ここからは聞いた話ですが―――
険しい山道をすっかり越えたところで供人も各々馬に乗ったようです。汀の氷を踏み鳴らす馬の足音すら心細く、物悲しく響きました。宮さまも以前通ったことのある山路でしたから、
「何とも不思議な宿縁の山里だな……」
などと呟かれていたとか。
私のお話はここまででございます。
ああもう、ほんっとうに疲れました……失礼して、すこし休みますね。
宇治の山荘より、右近でした。
参考HP「源氏物語の世界」他
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