おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

東屋 六

2022年1月29日  2022年6月9日 


 秋も深まった。

 薫は寝覚めごと故大君を想い、未だ止まない慕わしさに胸を震わせる。そんな折「宇治の御堂が完成した」との知らせを受け、久しぶりに宇治へ出向くことにした。

 二年ぶりの山の紅葉が目に眩しい。取り壊した寝殿はこの度明るく晴れやかに造り直された。昔の、たいそう簡素で僧坊めいた住まいの面影はもうない。元々故宮の居住部分はほぼ寺同然の設えで、あと半分は姉妹のため細やかに整えてあり、聖俗入り混じった体だった。そんな宮邸を大きく様変わりさせたことが少し残念な気もして、いつもよりじっくりと辺りを眺める薫である。

 網代屏風などの野趣溢れる装飾品は、山の御堂の僧坊へ生活用品として寄進した。改築後の山荘のため誂えた道具類は、特に簡素すぎることもない、清らかで由緒ありげな佳品ぞろいだ。

 薫は遣水のほとりにある岩に座り、歌を詠む。

「絶えることのない清水にどうして亡き人の

面影を留めておかなかったのか」

 涙を拭い、弁の尼君の部屋に立ち寄る。尼君は几帳に隠れてただ泣く。薫は長押に腰かけ、簾の端を引き上げて語り出した。

 一通り話した後、薫は本題を切り出した。

「そういえば例の『形代』の人、最近匂宮のところにいると聞いたんだけど、さすがに気恥ずかしくてまだ訪ねてはいないんだ。此方からしっかり伝えてくれないかな?」

「先日、母君から文がございましてね。物忌の方違えであちらこちらと彷徨ってらしたようです。このところ小さい粗末な家に隠れ住んでいるようで、何ともおいたわしくて。この宇治がもう少し京から近ければ移って来られるが、何しろ荒々しい山道で簡単には決心がつかない、とありました」

「世の人がそんなに恐ろしがる道を、私は昔からずっと行き来してる。どれほどの宿縁があったのかと思うと感無量だね」

 薫は例によって涙ぐみながら、

「ではその『気楽な隠れ場所』に文をやってくれ。貴女もそちらに出向いてほしい」

 と頼んだ。

「仰せ事をお伝えすることは簡単ですが、今更私が京に上るなど億劫ですわ……二条院にすら伺っておりませんのに」

「何故?あれこれ誰かに取りざたされるというわけでもないでしょう。愛宕山に籠った聖でさえ場合によっては山を下りる。固い誓いを破ってでも人の願いを叶えることこそ尊い行いでは?」

「衆生済度の徳などございませんので……人に何を言われるやら」

 弁の尼君はなお躊躇する。

「いや、二条院を出ているならなおのことちょうど良い。是非お願いしたい」

 薫はいつになく強気で押し、

「明後日あたり、ここに車を差し向けよう。その仮住まいの場所を尋ね置いてくれ。絶対に無体な真似などしないから」

 と微笑む。弁の尼君は、

(面倒なことになった。どういうおつもりなのかしら。とはいえ決して浅いお考えで思いつきの行動をされるようなお方ではない……まずご自分のためにも外聞の悪いことはなさらないだろう)

 と思い、

「承知いたしました。仮住まいの家は三条にございます。お近くですから、まず文などおやりくださいまし。私がいきなり訳知り顔に出ていきますのも差し出がましいですし、こんな年寄りが伊賀専女(いがとうめ:仲立ちを商売とする女)の真似事かと気も引けますわ」

 と言った。

「文か……出すのは何てことないが、人の噂がうるさいからね。右大将は常陸守の娘に言い寄っているらしいなどと取り沙汰されかねない。その守とやらは相当荒っぽい男らしいし」

 薫の正直な言いぶりに弁の尼君は笑った。

(亡き大君を忘れられないがために『受領の娘』にまでお心をかけて……おいたわしいこと)

 暗くなったので薫は京へ戻った。女二の宮への土産として、宇治で手折らせた木の下草の美しい花々や紅葉などを持参する。そういったものを愛でる心はある宮だが、薫の方が畏まって距離を置く体で、打ち解けた睦まじい夫婦というにはほど遠い。何しろ帝は普通の親同様に娘を案じ、入道の宮にまで頻りに伺いを立てている。薫としてもこの妻を下にも置かぬ扱いで崇め奉るしかない。同じ三条宮の中で、母と妻両方への「宮仕え」を余儀なくされる薫に、さらにもう一つ浮舟への恋心が加わる―――中々大変なことではあった。

 

 約束した日の早朝、薫は腹心の下臈侍一人、薫の顏を知らない牛飼童をつけて宇治に車を遣わした。

「荘園の連中で特に田舎びて見える者を呼び出して付き添わせよ」

 と命じてある。必ず京に出てくるようにと申しつけられた弁の尼君は、どうにも気がすすまないまま、一応化粧をし身づくろいをして車に乗った。野山の景色を見るにつけ過去の様々な出来事が思い出され、感慨に耽るうちに到着した。

 三条の家は人の出入りも無く実に侘しい所だった。門の内に車を引入れて、

「これこれしかじかで参りました」

 と案内の男に言わせると、初瀬参りの時に供をしていた若い女房が出て来て、尼君が車から下りるのを手伝った。みすぼらしい家で楽しみもなく暇を持て余していた浮舟は、昔を知る話し相手が来た!とばかりに喜んだ。顔も見たことのない父宮の傍近くに仕えた人、と親しみもあったのだ。

 弁の尼君は、

「お懐かしい血筋の貴女と人知れずお会い申し上げてからは、思い出さない折とてありませんでしたが、ご覧の通り世を捨てた身ですので……二条院にすらお伺いしておりませんのに、あの大将殿が何でしょう、どうしてもとお頼みになりますので、思い立って参りました」

 と挨拶した。浮舟も乳母も薫の姿は目にしているので、

(あんなに素晴らしいお方がまだ忘れずにいてくださった!)

 と素直に喜んだ。が、まさかその薫が直接ここに来るつもりだとは思いも寄らない。

 宵が過ぎる頃、

「宇治から参った者です」

 といって静かに門が叩かれた。

「どういうこと?誰なのかしら」

 と思ううちに、弁の尼君が門を開けさせて車を引入れた。

 皆が訝しんでいると、

「尼君にお目にかかりたい」

 と、宇治近辺の荘園を預かる者だとして名のり、弁の尼君が戸口にいざり出た。雨が少し降りかかり、風がさっと冷たく吹き入った途端―――得も言われぬ薫りが流れて来た。

「これは、もしや……!」

 そこにいる誰もが胸をときめかせたが、何の用意も心づもりもない。

「どういうことなんでしょう」「待って、こんなむさくるしい家のどこに入っていただくの?」「お接待はどうしたら」

 などと浮き足立つ中、薫からは、

「気楽な所で、この数か月の思いを余すところなくお聞かせしたく」

 と言ってきた。

「何を申し上げればよろしいの?」

 すっかり怖気づいてしまった浮舟をいとおしがった乳母が、

「とにかくもうそこにおいでなのですから、お座りもいただかずにお帰しするわけにもいきません。母君にこっそり事情をお知らせしましょうか、近いところですし」

 と言うので弁の尼君は呆れ顔で、

「いい年をして母君にいちいちご報告もないでしょう。若い方同士でお話しするだけでのこと、そんなにいきなり何かあるというはずもございません。不思議なほど気長で、慎重なお方ですもの。姫君のお許しがない限り馴れ馴れしいお振舞いなどなさいませんよ」

 やんわり止める。そうこうしているうちに雨脚が激しくなり、空もいっそう暗くなった。宿直人が夜回りをしながら、東国訛りのだみ声で言い合っている。

「この家ってよ、東南の角が崩れてて危なくね?」「それとさっきからいるこの車、誰か知らんけど入るのか帰るのかハッキリしてくんねえかな」「ほんそれ。チャッチャと入って門閉めて、戸締りしろってんだ。こんな天気なのによ」「まったく、この手の客の供人ってのは、空気読めないトーヘンボクが多くて困るわマジで」

 薫にとっては聞いたこともない、ぞっとするほど野卑な口調である。

「佐野のわたりに家もあらなくに、か……」

※苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐野のわたりに家もあらなくに(万葉集巻三-二六七 長忌寸奥麿)

 田舎じみた縁の端に座って口ずさみ、歌も詠む。

「戸口を閉ざすほど葎が繁っている東屋で

あまりに待たされて雨に濡れてる」

 袖に落ちた雨の雫を振り払うと、この上なくかぐわしい追い風が一面に広がる。東国の田舎侍どももきっと驚いたにちがいない。

 あれこれ言い訳を考えたところで、来てしまったものを追い返す口実などない。南の廂の間に急きょ座所を作り招き入れたものの、浮舟にとっては「気楽にお話」するどころではなく、女房たちに押し出されるように部屋に入った。仮住まい故に御簾も几帳も何も無く、隔て代わりに遣戸という引違いの板戸を立ててある。声が聞こえるように錠はささず少し隙間は空いていたが、いささか無粋ではある。

「これはまた……飛騨の大工までが恨めしくなるような隔てだね。こんな板戸の外に座らされたのは初めてだよ」

 薫は溜息をついたが、何をどうしたものか――いつの間にか戸の内側にするりと入り込んだ。

「偶然貴女を垣間見して以来、どういうわけか気になって仕方がありません。そういう宿縁があったのでしょうか……不思議なほど恋しく思われるのです」

「故大君の人形を探していた」という話は一切出さず、定番の口説き文句を囁く。

 浮舟はただただ愛らしく淑やかだった。かつて薫を拒絶した大君が、姿を変えて受け入れてくれているかのように―――夜の闇の中、いよいよ濃さを増す薫りがすべてを包み込んだ。


 そろそろ夜明けかという時間だが鶏は鳴かず、すぐ近くにある三条の大通りから間延びした声がする。薫が普段聞くことのない、何やら連呼して練り歩く物売りの集団である。

(朝早くから頭に品物を載せて歩く姿は、鬼とも見まがうと聞くが)

 こんな蓬生の宿でごろ寝した経験もなかった薫には、音だけでも興味深い。

 宿直人が門を開けて出て行った。夜に番をしていた者たちが各々中に入って来て、やれやれと寝転ぶ様子まで聞こえる。

 薫は供人に命じて車を妻戸に寄せ、浮舟を抱き上げて乗せた。

「姫君を連れていかれるのですか?!」

 誰も彼もが思いもかけない事態に動転して、

「季の末の九月ですのに」「ご結婚には不向きですわ」「いったいどちらへ、どうなさるおつもりで」

 と騒ぎだした。弁の尼君も、

(困ったことになった。これは予想外だわ)

 と思いながらも

「何かお考えがおありなのでしょう。心配することはございません。九月といっても今日はもう十三日、明日が節分と聞いております」

 と不安がる皆を宥めた。ところが、薫は尼君にも同乗せよと求める。

(さてはこのまま宇治に行かれると?)

 と察した尼君は、

「いえ、今回はご一緒しません。二条院の御方さまがお耳になさることもありましょう。私がこそこそ行き帰りしたと知れれば具合が悪うございますから」

 と言って残ろうとした。が、薫からすれば、早々に中君の知る所になるのも気まずいという思いもあり、

「それは後々お詫び申し上げればいいだろう。誰も知る者がいなくてはおぼつかない場所だから」

 強引に勧め、尼君もついに折れた。

「誰か一人、供をせよ」

 というので、浮舟の側近である侍従という女房が付き添った。乳母や尼君の供の女童などは置き去りである。あっという間の出来事に皆茫然とするばかりであった。


 ハイ侍従でーす!浮舟の君の女房やってます、初めまして!

 エ?前から出てるでしょって?いやいや何のこと?アタシ初めてですよう、こんな一人語りするの。何をどうしたらいいかサパーリだし、けっこう忘れてるところもあるんで、あることないこと口走りそうな気が……そこはご了承の上、聞いていただけると嬉しいでーす!ヨロシクね!

 いやーあの当時はビックリしましたわ。てっきり近場のどっかかなーなんて思ってたらどんどん京から離れてって。

 途中で牛も取り替えてたし、メッチャ準備してたっぽい。賀茂河原を過ぎて、九条河原の法性寺あたりで完全に夜が明けた感じかな。要は宇治に向かってたわけね。

 薫さまのことは、以前チラッとお見かけした瞬間から速攻大ファン☆になっちゃっててー、あんな素敵イケメンがウチの姫君とラブラブ~だなんてメッチャ玉の輿じゃん!チョッピリ寂しい気もするけどアタシも鼻高々だしー生活も安定するってもんだしー、何よりあんな酷い裏切り食らった姫君にとっては超、超おめでたいことよね!そりゃ身分違いだし何かと色々言われるだろうけど、アタシはお二人の味方として頑張る所存!ガッツリ乗っかってくわこのビッグウェーブに!って思ってた。

 で、浮舟の君がどうしてたかっていうと、急転直下すぎて大混乱状態。薫さまのお隣で、突っ伏したまんま動かない。薫さまったら、

「石がゴロゴロしてるような道はその恰好じゃシンドイよ?」

 って!優しく抱き起したー!キャー!そのまま抱っこしてるうー!

 車の前方に薫さまと浮舟の君、後方に弁の尼君とアタシが座ってて、間に透ける素材の羅の細長が御簾代わりにぶら下がってたけど、朝日がガンガン入って来るもんだから丸見えだったのよね。いやーいいのかしらコレ、でも見ちゃう♪て感じだったんだけど、あの尼君ったら

「故大君の御供としてこういうお姿を拝見したかった……長生きしすぎると意外なことに出遭うものだわ」

 なーんて呟いてシクシク泣くわけ。

(ちょっとー、こんなおめでたい新婚旅行みたいな時に、尼姿で同じ車に乗ってしかも泣くとか。縁起でもない、勘弁してほしいわ)

 ってつい思っちゃったわ。年寄りは得てして涙もろいものだからしょうがないんだけどね。

 それにしても前のお二人、もうお熱い恋人同士にしか見えない。見ない振り~でついつい観察しちゃう。車が山深く入り込んでいくにつれて、空の景色も変わって来るし、霧が立ち込めて何とも言えない雰囲気よ。薫さまの物思わし気なお顔がピッタリ嵌る。

 寄り添ったお二人のお袖が、重なり合ってひらひら車の外にはみ出てたのね。川霧に濡れて、紅い衣が直衣の縹色とまじって色が変わって見えた。薫さまが気づいてさっと引入れたんだけど、

「形見だと見るにつけ朝露が

しとどに濡らす袖かな」

 さり気なくこんな歌を詠まれた。そしたら尼君ったらますます泣くの。鼻すすりあげて、もう袖もビッショビショよ?

(なんなん……見苦しいわね。何でまたそこまで。それと形見ってなに?意味深!)

 なんて思ってたら、薫さままでコッソリ鼻かんでる。どういうこと!ってなった。この時はまだ、故大君との色々は全然知らなかったし、ホント謎でしかなかったのよね。

 薫さまは浮舟の君に、

「長年この道を行き来したことを思うと、何だか胸に迫るものがありましてね。さあ、貴女もちょっとお顔を上げてこの山の色でも観ましょう。俯いてばかりいないで」

 って声かけて起こしてあげてた。浮舟の君はサッと扇でお顔を隠されて、目元だけ見える感じのいわゆる姫君ポーズを決められたんだけど、まあそれがキュートなことったら、さっすが我が女主!ってアタシまでドヤ顏よ。だけど、薫さまのちょっと寂しそうっていうか、虚空に目が泳ぐみたいなお顔は気になったのよね。ああカワイイな♪って雰囲気じゃなかった。今思えば、故大君と比べておいでだったのよね。いくら姉妹でも別の人間だし、まして落ちぶれたとはいえ宮家と田舎住いの受領とじゃお育ちが全然違うもん、そりゃ無理ってもんよね。

 宇治の山荘に着いた時、薫さまの心の声はこんなだったみたい。

(ああ、愛しい人の魂がとどまってご覧になっていようか。誰のためにこんな……あてもなく彷徨うような恋をするのか)

 思い出の場所である山荘に来て、我に返っちゃったみたいな感じ?山荘に入って暫くの間、薫さまその場を外されたのよね。浮舟の君を休ませるつもりはあったんだろうけど、何だかね。

 そうそう、車から下りる時もちょっと変な感じでさ。

 浮舟の君はまだ母君の思惑が気になってたみたいでグズグズしてたけど、薫さまに優しく情愛深い言葉で諭されて、ようやく気を取り直して車を下りたのね。新しく造った寝殿のところで。

 弁の尼君の方は、自分たちがお二人と同じ場所に下りるなんて、って言ってわざわざ渡殿の辺りに車を回してもらったの。それがさあ薫さまからしたら、

(そこまで気を遣うほどの住まいでもあるまいに。心遣いが過ぎる)

 振舞いだったっぽい。この違いわかるかしら。尼君の方はハッキリお二人をご夫婦と考えて行動したけど、薫さまの方はそうじゃないのよね。あくまで浮舟の君は自分より下、尼君と同列。遠慮する理由なんてないって。

 この辺で大分、アタシの薫ファンポイントが怪しくなってきたのね。モヤモヤ~っとね。

 ただ山荘には、いつも管理をしてくれてるらしい荘園の人たちがガヤガヤお手伝いに集まって来てた。お食事は尼君の方でお世話してくれたみたい。山路は草ぼうぼうで陰気な感じだったけど、一転賑やかになったのは良かったわね。気分が晴れ晴れした。

 周りの川の景色も山の色も上手に取り入れたお庭が見事で、浮舟の君も日頃の鬱屈も吹き飛ぶ勢いだったけど

(いったい、大将殿はわたくしをどうなさるおつもりなのだろう)

 一抹の不安はぬぐえなかったのよね。

 一方、薫さまは京にお文を書かれてた。

「まだ完成していない仏の飾りなどについて指図することがあり、今日は吉日でしたので急ぎ宇治に参りました。ところが少し気分が良くない上に物忌もあることを思い出しまして、今日と明日はここで慎もうと存じます」

 女二の宮さまと母君の入道の宮さまね。やっぱり此方にはすっごく気を遣ってるう。

 とはいえくつろぎモードになった薫さまもまた一段と魅力的でね、もう同じ部屋にいるだけでドキドキしちゃった。浮舟の君も同じだけど隠れるわけにもいかないから、モジモジしつつ座ってた。衣裳もさ、あの母君が一生懸命選んで揃えて、アタシの目から見たらすごく華やかで素敵だったんだけど、薫さまみたいなハイクラースの、いつもスゴイお方に囲まれてる人の目からはかえってトゥーマッチでダサめに映ったみたい。

 以降、薫さまの心の声ね。

(大君は着馴れて柔らかくなったような衣装をお召しだったけど、すごく上品で優雅に着こなしていた。やっぱり違うよね……でも髪の裾がキレイに揃ってるのはいいな。女二の宮のあの素晴らしい御髪に勝るとも劣らない)

(この人をどう扱えばよいだろう。今すぐ正式な妻として三条宮邸に迎え取るのは、どうにも人聞きがよろしくない。だからといって大勢いる女房達と同列にして、雑に混じらせるのも望ましくない。暫くはここに隠しておくか。あまり会えないと寂しいだろうけど)

 人間って不思議よね。中々手に入らないとメッチャ欲しくなるし、手に入ったらスン、て冷めたりする。この先あまり会えなくなるだろうと思ったら俄然盛り上がったりね。

 というわけでこの後はゆっくりお二人でお話タイムよ。故宮のお話ももちろん出た。昔のことを面白おかしく情愛こめて、時には冗談も交えて語られる薫さまに、ただただ遠慮してひたすらはにかむ浮舟の君、って図式。

(ちょっと物足りないかな……いや、間違ったところでこのくらい頼りないのがちょうどいい。教えてやればいいし。下手に田舎者特有の洒落っ気があって品も悪いし蓮っ葉……ときたら形代にすら出来ない)

 うーん、やっぱり下に見てるわよね思いっきり。

 山荘に置いてあった琴の琴や筝の琴を出させたはいいけど、

(きっとこういう嗜みはないだろうな)

 って思ってらっしゃるのがダダ漏れ。お一人で調弦されて、

「八の宮が亡くなって以来、この山荘にある楽器には長いこと手も触れていなかったな」

 なんて呟きつつ、自分の爪音すら何だか懐かしい気になられたんだろうね、さらりと爪弾くうち月が煌々と差し出てきた。

「故宮の琴の音、派手ではなかったけれど、何とも言えないしみじみとした味があって美しかったな……」

 浮舟の君に向かって、

「昔、皆がまだ生きていらした頃に貴女も一緒に暮らしていたなら、また一段と感慨深かっただろうね。故宮のご様子は、他人の私ですら未だに恋しく思い出される……貴女はどうして、遠い国に何年も住んでいたんだろうね?」

 ……ハア?

 出ましたよ、典型的なお坊ちゃま質問。

 いやそれ、浮舟の君には答えられないでしょ……継父が受領だったから、ただそれだけでしょ。いやーアウトだよねこれ。ファンポイントが一気にダダ下がったね、うん。やっぱヒカル王子が一番よね!っとっとっと違う違う、誰それ?前世の記憶かな?アタシたまによくわかんないこと口走っちゃうんでー、忘れて!

 可哀想に浮舟の君はますます居たたまれなくなって、白い扇をいじりながらもう俯くしかない。その横顔は一点の曇りもない白さで、アタシまで思わず目が釘付けになったわ。ただ薫さまは、艶やかな額髪の間とか、そういう細かいところに違う誰かの面影を見てる感じなのね。姫君も、もちろんアタシもこの時は気づいてなかったけど。

(よし、こういう音楽の道も教えてやらねば)

 と思われたか、

「此方は少し弾いたことがあるのでは?ああ、吾が妻――東琴なる和琴は、いくらなんでも手に触れたことはあるでしょう?」

 問われた浮舟の君は、

「上と下とのやまと言葉すら並べられないわたくしでございます。まして和琴は」

 と返した。いやコレ、中々機転が利いてるよね?和琴つまりやまと琴の難しさと和歌とを引っ掛けて、謙遜してみせたっていう。薫さまもさすがに感心されたご様子で、この宇治に置いたままにするのがちょっと惜しくなったか、琴は押しやって

「楚王の台の上の夜の琴の声」

 なんて朗誦なさった。

 姫君もアタシもむくつけき侍ばっかの中で暮らしてて、引くものといえば弓って環境だったから全然意味わかってなくて、ただ

「なんて素敵なお声。理想的だわ」

 なーんてウットリ聴いてたわけ。

 時が移れば捨てられる、その夏の扇の色は白―――そんな漢詩を姫君の持ってた白い扇から連想されたなんて、夢にも知らずに。

 教養が無いってこういうので出ちゃうよね。ホント貴族って大変だわ、アタシには無理。

(通じてない……偶然白い扇だったってだけなのか。変なこと言っちゃったな)

 何となく気まずい沈黙の中、助け舟が来た。

 あの尼君から、果物どうぞーって差し入れよ。箱の蓋に紅葉やら蔦やらを折り敷いて、風流に取り交ぜてあった。敷き紙が明るい月の光に照らされて、何か太い字で書いてあるのが見えたのね。薫さまがじーっと覗き込んでたものだから、傍からは載ってるお菓子をすごく食べたがってるみたいに見えて面白かったわ。

「宿木は色も変わった秋ですが

昔が思い出される澄んだ月ですね」

 なんて古風な書きぶりの尼君のお歌に、薫さまはちょっと顔を赤らめられつつ、

「里の名も私も昔のままですが昔の人が

面変わりしたかのような閨の月影です」

 詠まれただけで書いてはくださらなかったんだけど、アタシがしっかり尼君に伝えに行ったわよ。単純に、昔の思い人とは違う人と今は一緒にいる、って意味だと思ってたのよねえ……薫さまはそうじゃなくて、「ただ顔が少し違うだけの人」と一緒だってことで。え?違いがわかんない?

 あくまでアタシ独自の解釈だけどね、つまり大君が未だに大好きってことよ、目の前にいる浮舟の君じゃなく。血筋が繋がってて顔が似てる、ただそれだけ。その自覚があるもんだから、さっきみたいな漢詩まで飛び出しちゃったと。

 不穏よね。恋が始まったばかりで、本来イケイケでラブラブでしかないはずの、この時期にさ。そう、やっぱり最後はコレなのよ。

 嵐の予感。

<浮舟 一 につづく

参考HP「源氏物語の世界」他

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