おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

東屋 五

2022年1月26日  2022年6月9日 


  乳母の動きも速かった。車を頼んで常陸守邸へと向かい、母親の中将の君にかくかくしかじかと今回の事件について話した。中将の君は仰天して、

「匂宮が?嘘でしょ?困ったこと……何も無かったっていくら言ったところで、女房達の口は止められない……居候の分際ではしたないとか、色目使ったんじゃないのとか……中君だってどう思し召すやら。この手の悪感情って、貴人だろうが何だろうが同じなのよね。私だって故宮のお手がついて子供まで出来た時は、そりゃああることないこと言われたもの」

 いてもたってもいられず、その日の夕方には二条院に急行した。

 匂宮は不在だったので幾分気楽に中君と話をする。

「ふつつかでまだ子供じみた娘を置いていただき、安心してお任せしておりましたが、何でしょうね……心にイタチが住まっておりますようでざわざわと落ち着かず、下賤の家人どもに憎まれたり恨まれたりしていますの」

「あら、浮舟の君はそんな風に仰られる程幼くもございませんことよ。イタチだなんて、どうしてそんなにご心配を?何だか責められているような口調が気になりますわ」
 とにっこり笑う中君の気品ある目もとを見て、中将の君は早くも自分の行動を後悔した。
(親子の情にかまけて出過ぎた真似をしたかもしれない……例の件はどうお思いなのかしら)
 考えれば考える程、とても切り出せない。
「こうしてお傍に置いていただきますこと、長年の念願が叶ったようで、誰が聞いても体裁よく面目の立つことと存じますが、やはりご遠慮申し上げるべきことにございました。出家の本願は固く守る所存ですので」
 話すうちに涙がすっと流れ落ちた。中君は内心気の毒には思うものの、ここでもし浮舟の君がこの母親と去ることになれば、
「宮といい仲になった預かり子に妻が嫉妬して追い出した」
 という体になりかねない。
「この二条院で何を気がかりにしていらっしゃるの?あの姫君を疎んじて構いもしないというのならともかく、全然そんなことはありません。ただ……怪しからぬお心を起こす人が時々おいでにはなりますが、ここにいる者はみな慣れておりますので、注意を払い、不都合なことがないように心掛けているはずです。いったい、どのようにお考えなのですか?」
 あくまで冷静に問う。中将の君は、
「お心隔てがあるなどとはまったく思っておりません。お恥ずかしながら故宮に認知いただかなかったことは、もう今更な話です。それはそれとして、貴女さまとは切っても切れない血縁もございますから、その誼で切にお頼み申し上げております」

 真剣な顔でキッパリと言った。

「実は明日明後日、よんどころない物忌がございまして……娘は人の出入りのない所で過させようかと存じます。また日を改めて此方に参上させますので」

 中君は、

(何も無かったことにしておさめるつもりだったのに……残念だわ)

 と思ったものの物忌と言われれば止めようもない。

 思いがけない不祥事に内心動揺しきっていた中将の君は、挨拶もそこそこに浮舟を連れ二条院を出て行った。

 もともと方違えの用途にと、小さな家を準備してあった。三条近辺の洒落た家だが、まだ造りかけなので大した設えもしていない。中将の君は、

「貴女一人で苦労が絶えませんこと。これ程思い通りに行かない人生なら、長生きなんてするものじゃないわね。私だけならただ平凡に、低い身分で人並でもない、一介の受領の後妻に収まって暮らせばいいけれど、宮家の血を引く貴女はそうもいかない。子とも認めて下さらなかったつれないお方の娘御に此方から近づいてお付き合いした挙句、厄介事を起こしたなんてどれだけ物笑いの種にされるやら……つまらないこと。粗末な家だけれど、ここで誰にも知らせずひっそりとお暮しなさいませ。そのうちきっと何とかしますからね」

 と言い置いて一人帰ろうとしたが、浮舟の君は泣き出してしまった。

「わたくしは……ただ生きているだけで肩身の狭い身の上ですのね……」

 すっかり気落ちしている様子が痛々しい。母親は母親で、それ以上に悔しく惜しい気持ちではある。ただ良い結婚をと願っていただけなのに、例のことで世間から軽々しい女だと見られかねないのが気がかりだった。

 決して思慮が浅いわけではないが、カッとしやすく直情的に行動するところのある中将の君である。常陸守邸でも浮舟を隠して住まわせることは可能だが、そんな日陰者のような扱いをするに忍びず、この三条の家にひとまず置くことにしたのだ。長年傍を離れることなく、毎日一緒にいるのが当たり前だった母娘は、お互いに心細く堪え難い思いであった。

「この家はご覧の通りまだ造作が整っていないから、いろいろと危ないことがあるかもしれない。用心しなさいね。部屋にある物はどこからでも持ち出して使っていいから。宿直人にもよく申しつけてはおいたけれど、ああ、心配だわ……とはいえ夫から腹を立てられたり恨まれたりするのも辛くてね」

 中将の君は泣き泣き帰って行った。

 一方常陸守は、婿の左近少将をもてなすため奔走していたが、北の方たる中将の君が同じ心で立ち働こうとしないことに苛立っていた。

 中将の君からすれば、そもそもの初めはこの婿の変心からだという頭があり、やる気が出るはずもない。二条院でのまさかの出来事に受けた衝撃も醒めやらず、何も身に入らなかった。

 あの匂宮を前にするとただの貧相な若造でしかなかった左近少将など、もうどうあっても良い風には思えない。

「わが家の婿として大事にお世話する!」

 などという気持ちは丸っきり消えてしまった。

(そうだ、ここではどう見えるかしら。まだ打ち解けた様子は見ていないわ)

 と思った中将の君は、よく晴れた日の昼下がりに西の対へ渡り、物陰から覗いた。

 白い綾のこなれた衣に、紅梅色の擣目が綺麗な表着を重ねた姿の左近少将は、端の方に座って前栽を眺めている。

(あら、案外悪くないわね……割といい感じだわ)

 見ると、隣にはまだあどけなさの残る妹娘がちょこなんと添い臥している。匂宮と中君が並んだ姿と比較すると、

(全然ダメ。お話にもならない)

 とも思うが、傍にいる女房たちと和やかに談笑しくつろいでいる様子は、以前見た如何にもパッとしない、貧乏臭い男と同一人物には見えない。

(はて、あの時宮さまの御前にいたのは違う少将だった……?)

 と思った折も折、

「匂兵部卿宮のお邸の萩がやはりピカイチだったかな。あれはいったいどういう種なんだろう。同じ萩でも全然違って、枝ぶりがとても優雅だったよ。先日参上した時にはちょうど宮が出られるところだったから、折り取って来られなかった。『色が褪せることすら惜しいのに』と口ずさまれた宮のご様子、若い女房たちにも見せたかったね」

 少将はこう言って、自分で歌も詠んだ。

「どうなのかしら……恥ずかしげもなく妹姫に乗り換えたあの嫌ったらしさからすると、世間並とも思えないけど。高貴な方の前だったから実際以上に見劣りしたのかしら。歌はどういう感じ?」

 ケチをつけたい気持ち満々の中将の君だが、目の前にいる左近少将はそれほど物の分からない男とも見えない。試しに、と思い立ち、

「囲いをしていた小萩の上葉はそのままですが

どんな露に色を変えた下葉なのでしょう」

 と詠んで取り次がせた。心変わりを責められた形の少将は、

「宮城野の小萩のもとと知っていたなら

露は少しも心を分けなかったでしょうに

 いつか此方から申し開きをしましょう」

 と応えた。

(ハア?)

 中将の君は愕然とした。

(宮城野の小萩のもと……つまり、浮舟が宮家筋だと聞いたのね。最初から知っていれば考えたのにって、何という下劣な……やっぱりこの男はこの程度ね。ますます浮舟にはちゃんとした結婚をさせてやらなきゃ)

 そう思った途端、何故か薫の顔や姿が慕わしく脳裏に浮かんだ。同じくらい素晴らしいと見た匂宮の方は問題外で思い出したくもない。我が娘を侮って押し入ったことが許せなかったのだ。

(あの薫右大将殿は、亡き大君に似た人を探し続けたという深いお心がありながら、急に口説いたりはせず、落ち着き払っていらした……大したものだわ。私ですら何かにつけこうやって思い出すのだから、若い娘ならなおのこと心惹かれるはず。少将のような憎たらしい男を婿にしようと頑張っていた自分がほとほと嫌になる)

 ただ薫のことで頭がいっぱいになり、ああしたらこうしたらと、埒も無く夢のような将来を思い描く中将の君だったが、実現が難しいこともわかっていた。

(やんごとなきご身分とご風采に加え、ご結婚された方はさらにもう一段優れておられる……いったいどうやったら私の娘になどお心を留めていただける?世間の有様を見聞きすると、人の優劣は容姿も心も、身分の高低や家柄によって決まってしまうもの。我が子供たちはどう?誰一人浮舟の足元にも及ばない。あの左近少将だってこの家の中ではまたとない婿扱いなのに、匂宮を前にすればその他大勢の残念な若造。それから推察すると、今上帝のご寵愛深い内親王を得られた方のお目を此方に向けようなんて、あまりにも烏滸がましい、分不相応な願いだわね……)

 アレコレと考えすぎて、すっかり上の空の中将の君であった。


 仮の宿は退屈で、庭の草も伸び放題でうっとうしい。出入りする者といえば東国訛りの無骨な男どもばかりで、慰めになるような前栽の花もない。浮舟はこの未完成の家で欝々と一日過ごすうち、若い娘らしく中君の姿や優しい声、はなやかな暮らしぶりを恋しく思い浮かべた。思いがけなく入り込まれた匂宮の記憶もまた。

(あれは何だったのかしら……色々と熱心に仰っておいでだったけど、何も意味がわからなかった)

 宮が立ち去った後も長く残った移り香がまだ身の内にある気がして、恐ろしくもあった。

(母君は、いつもいつもどうしているかとお文をくださる。昔から本当に並々ならぬお世話をしていただきながら、何の役にも立たないどころか、迷惑なだけのわたくし……)

 泣けてきたが、

「馴れない場所で、どんなに退屈で落ち着かない気持ちがすることでしょう。暫くの間辛抱なさってくださいね」

 という母の文の返事に、

「退屈が何だというのでしょう。気楽でいいですわ。

 ただ一途に喜びましょう、此の世に

 別の世界があるのだと思えるなら」

 としたためた。

 受け取った中将の君はほろほろと涙を零し、

「何と健気な……行方も定まらないまま彼方へ此方へと惑わせてばかりなのに」

 悲嘆に暮れつつまた歌を返した。

「憂き世ではない所を尋ねてでも

貴女の盛りの世を見たいものです」

 技巧など気にせず、ひたすら素直な心情を吐露した歌を詠み交わす母娘であった。

<東屋 六 につづく

参考HP「源氏物語の世界」他

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