おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

東屋 四

2022年1月25日  2022年6月9日 


 さて、そのお迎えの車が出立しましたのは夜明け方、うっすらと明るくなりかけた頃にございます。

 ちょうど同じタイミングで、匂宮さまが内裏より退出して来られました。若君に会いたいあまり、人目を忍ばれていつもより簡素な車にて二条院に向かわれたところ、常陸守の車と行き会ったのです。もちろん守の車が道を譲る形で脇に寄り、宮さまのお車はそのまま院内に入りました。渡殿に下りられた宮さまは、

「あの車何?こんな暗いうちから急いで出ていくなんて」

 と目を留められました。

「もしかして、こっそり誰かの所に忍んで来てた男とか?」

 などと、ご自分の経験になぞらえて仰られます。こういう発想はやはりこのお方ならではですわね。彼方の供人がすかさず

「常陸殿がお帰りになられます!」

 と申しましたら、宮さまの前駆たちは、

「なんと、殿呼びとはご立派だね」

 と大笑いです。ちょっと、いやかなり上から目線の嫌な感じですね……車に乗っていらっしゃる中将の君にもきっと聞こえたでしょう。

(仰る通りの身分だけど……悲しいこと。娘の浮舟のためにも、もっとマシな身分になりたいものよ。ますます平凡な男には娶わせたくない)

 車は動き出し、あっという間に遠ざかっていきました。

 匂宮さまは中に入られて、

「常陸殿とかいう人、誰のところに通ってたの?こんな雰囲気ある朝ぼらけにそそくさと、車に供までつけて、ただごとじゃなくない?」

 中君さまに当てこすられます。

(まーたコレ……嫌になるわ)

 とうんざりされた中君さま、

「女房の大輔の、若い頃のお友達だそうですよ。わたくしは特に雅な感じもしませんでしたけれど、何がただごとではないなどと……人聞きの悪いことばかりいつも仰って、根も葉もない罪を着せないでくださいませ」

 プイっとそっぽを向いてしまわれました。その仕草、横顔のキュートなことと言いましたら、女同士でもキュンとしましたね。まして宮さまから見れば……言うまでもありません。

 その日はすっかり夜が明けたのもご存知なく、長々と籠っておられましたとか。

※玉簾明くるも知らで寝しものを夢にも見じとゆめ思ひきや(伊勢集-五五)

 そのうちに次々とお客様が参集していらしたので、宮さまもようやく西の対を出られ、寝殿に渡られます。后の宮(明石中宮)さまのご病気も大したことがなく回復されたとのこと、皆さまひと安心されたのでしょう。全体にのんびりとした雰囲気で、夕霧右大臣の御子息がたが碁打ちや韻塞ぎなどして遊んでいらっしゃいました。

 私、少納言からは以上です。さて、ここからは右近さん、お願いいたしますね。


 は、はい。右近と申します。はじめまして……えっ?今までも出てたじゃないかって……どういうことでしょう。今初めて登場いたしましたが……お人違いでは?

 私、先ほど出てまいりました古参女房・大輔の君の娘、右近です。まだまだ若輩者で不慣れなもので、お聞き苦しいところも多々あるかと存じますが、どうかよろしくお願いいたします。

 お昼も過ぎ、そろそろ夕方になるという頃ですか、中君さまは御手水の間にお越しになられ、女房数人がかりで髪を洗っておいででした。若君さまはお昼寝中、此方にも何人かの女房が付き添ってます。その他の女房達も各々休憩を取っておりました。特にやることなかったですからね。ええ、もちろん私も。

 そういうわけで、いつもの居間の辺りは殆ど無人状態になってたんですね。そこに匂宮さまが戻って来られた。

 無防備と言われてしまうと言葉もありませんが、男主たる宮さまが院内にいらしたからこその隙です。皆、すっかり気を抜いてましたね……まさか、あんなことになるなんて思いませんもの。

「あれ、誰もいないの?」

 宮さまはガランとした室内で唖然、ちょうど通りかかった女童をつかまえて、中君さまへお使いを出されました。

「タイミング悪く髪洗いの時間に当たっちゃったとは残念だな。もう皆帰っちゃったし、若君は寝てるしでやることない。つまんないよ」

 私の母・大輔の君が恐縮しつつ、

「髪洗い、いつもはいらっしゃらない日を見計らって済ませておりますのよ。このところどういうわけか面倒がられておいでで、つい先延ばしに……今日を過ぎると今月はもう良い日がありませんの。九月は忌月、十月は神無月でまたよろしくありませんし」

 とか何とか言い訳してました。何しろ平安貴族女性の長くて豊かな髪、洗うのも乾かすのも一仕事です。本来、朝早くから始めてほぼ一日がかりなのですが、今朝は遅かったですもんね……あれ、結局宮さまのせい?まあそれはともかくとして、もう暫くかかりそうです。

 匂宮さまは仕方なくお一人で廊の辺りをウロウロと歩き回っておられましたが、

「……おや?あんな子いたっけ?」

 見慣れない女童が目の前を通り過ぎました。

(新しい子かな?)

 興味を惹かれた宮さま、そっと後をつけられます。女童が入っていった辺りの障子が細めに開いたままになっていました。覗き込まれると、障子の向こう側、一尺ほど離れたところに屏風が広げてあり、外に面した側には御簾、その前に几帳が置かれ、帷をめくって横板にかけてあります。屏風も一片だけ畳まれておりましたので、あざやかな紫苑色の袿と女郎花の織物と見える表着、それらが重なった袖口がこぼれ出ていました。

(誰だ?新参の女房?この感じからして結構な身分っぽいぞ)

 チャラ男……いえ恋多き風流人として知られる宮さまの嗅覚は半端ではございません。この廂の間に通じる障子をそーっと押し開けられ、気づかれないよう足音を立てずに入り込みます。

 渡殿のこちら側にある壺前栽が色とりどりに咲き乱れています。遣水の辺り、突き出した岩などの風情ある眺めを、端近に臥して楽しんでいらしたのは誰あろう―――浮舟の君でした。

 元々少し開いていた障子が押し開けられ、屏風の端から覗く気配がしても、まさかここに殿方が、まして匂宮さまだなんて夢にも思いませんよね。浮舟の君は、

「いつも来ている女房や童の誰か」

 だとばかり思い込んで、ふっと起き上がったんですね。いくら自分んちの女房といえどもそういう無防備な姿って中々見ることないですし、まして新しい子かって興味津々ならば、なおさら素敵に見えたんでしょう。宮さまがこんなチャンスを逃すはずがございません。慣れた手つきですかさず衣の裾を掴まれて、入って来た障子を閉め、屏風の後ろに回り込まれました。

「えっ……誰?!」

 と扇で顔を隠しながら振り返る浮舟の君。その仕草も可愛い!とばかりに、宮さまは扇ごとその手を捉えられて、

「きみは誰なんだい?名前は何と?」

 と問われました。浮舟の君ビックリ仰天でパニック状態です。何しろ宮さまの方もお顔を物で隠されて、誰かわからないようにしてらっしゃいましたから、

(これは……あの、一方ならぬお心を寄せておられるという『大将殿』なの?……これほどに強い香は。嫌だ、どうしたらいいの??)

 いや薫さまなら、いきなりコレはないと思うんですが……まあ、よくも知らない人だし勘違いしても仕方ないですね。

 ここで乳母がただならぬ人の気配に気づき、反対側の屏風を押し開いて駆け寄りました。

「これは……いったいどうしたこと?どちら様?!何をなさっておいでなのですか!」

 二条院の主たる匂宮さまが動じるわけもございません。単なる偶然が重なってのこの事態でしたが、そこは口の上手い宮さまにございます。何やかんやと歯の浮くような口説き文句を雨あられと浴びせかけるうち、とっぷりと日も暮れてしまいました。

「誰か教えないと許さないよ」

 と仰って、逃げ出すどころか抱え込み、馴れ馴れしく添い臥しておられるその姿―――乳母はようやく、

「匂宮さま!」

 と思い当たり、口をぱくぱくさせて座り込んでしまいました。

 日が落ちて暗くなりました西の対で、女房達が大殿油を灯籠に入れ、

「御方さま、まもなくお渡りです」

 と口々に言う声が聞こえ始めました。私はその時、御前以外の御格子を下ろすべく回っていたのですが、浮舟の君のお部屋はだいぶ離れた端にありまして、中々そこまで行きつきませんでした。元々は物置のようなところで、背の高い棚厨子が一具、袋に入れたままの屏風が所々に寄せてあり雑然としております。何も知らず、通り道の障子をサッと開けてズカズカ近づいていきました。

「まあ、真っ暗じゃない。まだ大殿油も来てないのね?御格子は……あら、もう下げちゃったの?暑苦しいでしょうに。ああもう、暗くて何も見えないわ」

 遠慮なくまた御格子を上げたんですね。ええ、全然気が付きませんでした……宮さまがすぐ足元にいらっしゃるなんて。

 宮さまもさすがにヤバ!ってなったでしょうし、乳母は乳母でよっぽど困ってたんでしょうね。元々気が強くて言いたいことはハッキリ言っちゃう方だったんで、渡りに舟とばかりに、

「もし、申し上げます!此方に、何とも奇妙なことがございまして……どうにも扱いかねておりますの。あたくし、これでは身動きもできませんわ!」

 って声をかけて来たんで、ビックリしましたよもう。

「ど、どうかなさいました?何ごと?」

 暗い中、屏風の辺りをすすすーっと手で探ったら、アレ?これ、女房装束じゃないよね……男物。何よりこのむせかえるような香り……まさか。

(匂宮さま?!マジで?何でここに?さすが、アチコチのキレイ目・カワイイ系女房さんを一通り押さえてるチャラ宮さま……見つかっちゃったのね)

 混乱しつつも、

(でも浮舟の君の方は不意打ちで不本意だよね、絶対)

 って確信はあったから、

「んまあああ、何とお見苦しいことを!この右近めからは何とも申し上げられませんが、御方さまのところに参りまして、コッソリ告げ口させていただきますからね!ええ今すぐ!」

 言い放って、本当にサックリ中君さまに言いつけに行ったわ。でも、それごときでくじけるような宮さまじゃない。浮舟の君も乳母も立場的にメチャクチャ気まずくてしにそうになってるのに、 

「ああ、なんて……なんて上品で愛らしい人なんだ。君は誰なの?教えて!右近があんな風に言うところから察するに、普通の新参女房じゃないんでしょ?」

 納得いかない!って感じで、ああ言えばこう言う状態で口説きまくり、だったみたい。相手が相手だから強く拒絶するわけにもいかないし、ただただ震えて怯えてる浮舟の君……不憫としか言いようがない。宮さまも何やかんや優しく慰めてたみたいだけど、いやいやそうじゃなくて!離れてあげないと!

 私は速攻で中君さまに、

「これこれしかじかでして、あまりにも浮舟の君がお可哀想で……どんなにお困りのことやら」

 と訴えましたが、そうはいっても相手は中君さまの夫である以前に親王さまであり、れっきとしたこの二条院の主です。権力のトップオブトップ。どうすることも出来ません。

「いつものご病気ね……あの中将の君に知られたら、どれほど軽率で怪しからぬことと思われるでしょう。くれぐれも娘をよろしくと、あれ程繰り返しお願いされたというのに。本当に情けないこと……お仕えする女房たちも、ちょっと若くて美人だと手を出さずにはいられないお癖ですものね。いったいどうやって見つけられたのやら」

 溜息をつかれて黙り込んでしまわれました。

 私は同僚の少将の君とコソコソ密談です。

「右近ちゃん……どうすんのコレ?」

「どうするもこうするも……だいたい何で宮さまがあんな端の部屋まで行っちゃったわけ?心臓止まるかと思ったわホント」

「宮さまって、今日みたいに上達部が大勢参集した日にはいつも長々騒いでらして、此方にはだいぶ遅くにお渡りだったもんね。だからこそ皆呑気にしてたんだし……」

「とりあえずはあの乳母さんがピッタリ傍に付きっきりで守ってるみたいよ?宮さまを引きずり出す勢いで睨んでるわ。超つよつよ」

「そうなんだ。しかし気の毒ねえ浮舟の君も……」

 などと囁き合っていましたら、外から誰か呼ばわる声がしました。

 なんと、内裏からの使者です!

「大宮(明石中宮)さま、この夕暮れより胸が苦しいとの仰せ、ただ今重態でいらっしゃいます」

 との由、

「宮さまにはお生憎なタイミングのご病気ですことね。すぐにお知らせいたしましょう!」

 と言いましたら少将の君、何言ったと思います?

「まあ、もう手遅れだと思うわよ?あんまり騒ぎ立ててお邪魔虫になるのも何だから、少しほっといたら?」

「ちょ、さすがにそれはないでしょ。乳母さんいるんだし」

 つい小声でやいのやいの言い合いしちゃったわ。そしたら中君さまにも聞こえちゃったのよね。もう、ほんっとうに悲し気なお顔で大きく溜息をつかれて―――。

「ものを弁えた人なら、わたくしのこともどうしようもない人間だと疎むでしょうね……」

 私たちみたいに、自分でキー!何やってんの!って怒るなんて出来ないもんね……お辛いお立場。なんかすごく申し訳なかったわ……で、

 よし、もうこうなったらこの右近が止めるッ!

 決意して、あの廂の間に走ったわ全力で。

「宮さま、大変ですっ!今、内裏からお使いが来まして……中宮さまがご危篤とのこと、今すぐ参内されるように、とのことです!」

 ホントは大して切迫してもなかったんだけど、この際だから盛りに盛ってみた。だけど宮さまも大したものよね、まるで動く気配無し。

「使いって、誰が来たの?どうせ大袈裟に脅かしてんじゃない?いつもみたいにさ」

 なんて仰るもんだから、

「中宮職の侍者で、平重経と仰る方ですっ!」

 叫んじゃったわ。役職とかは盛ってない、ホントに正式な使者さんですからね。

 なのに、

「えー?でもぉ……離れたくなーい。この部屋から出たくなーい」

「あまりお待たせするわけにもまいりませんよ。こんなお姿、誰かに見られましたら何としましょう。ささ、早く」

「ヤダよ、人目なんて気にしないし!出ないったら出ない!」

 ってイヤイヤ期の三歳児か!若君だってもっと聞き分けよろしくてよ!

 右近キレた。ええ、いい加減キレましたよ!

 廂の間の外、庭に面した簀子に下り立って、当社比三倍増しの声で叫ぶッ!

「宮中よりの御使者をこれへ!兵部卿宮さまは此方におわしますっ!」

 取り次ぎした家来さんすっ飛んできたわよ。

「申し上げます、中務宮も既に参内され、中宮大夫はただ今向かっておられます。途中で、車を出されているのを拝見いたしました」

「ふうん……確かに、母宮は時々急に悪化されることもあるからな。仕方ないか」

 さすがの宮さまも、他の親王がたへの手前もございますしこれ以上の引き延ばしは無理、と悟られたようです。散々恨み言と約束をほざき……いや仰られつつ、ようやっと手を離し部屋を出て行かれました。

 浮舟の君は恐ろしい夢が醒めたような心地で、汗びっしょりでへなへなと突っ伏してしまわれました。乳母は傍でパタパタ扇ぎつつ、

「人さまのお住まいですから、何かにつけ遠慮もありますし、不都合なことも多うございますけれど、まさか匂宮さまが……一度こんなことがありましては今後も尚更よろしくない事態になりましょうね。なんて恐ろしい。この上ないご身分の方とはいえ、無体なお振舞いには呆れかえるばかりです。まったく関係のない赤の他人ならば良くも悪くも浮舟さま次第ですが、姉君の夫君でいらっしゃいますからねえ……人聞きも悪い上に、まず彼方さまに申し訳が立たないと存じまして、恐ろしい降魔の如くじーーっとお睨み申し上げておりましたら、なんとも野蛮なこと!下々の卑しい女と侮られたか、この手を抓り上げなすったんですよ?笑ってしまいましたわ。普通の人の恋愛沙汰と何も変わりませんわね」

 言いたい放題です。

「そうそう、母君は今日も常陸守と大喧嘩なさったようですよ。

『たった一人の娘を世話するといって他の子たちを放っておくなんて。だいたい来客があるのに外泊するだなんて、外聞が悪いにも程がある!』

 とそりゃあもう烈火のごとくお叱りになって、下人ですら北の方がお可哀想だと言い合うくらい。それもこれもあの左近少将さまのせいですよ。あんな無情なお心変わりをなさらなければ、たとえ穏やかならぬ厄介事が起ころうとも、内々で穏便に済ませられようというもの。今まで通りに暮らしていけましたのに」

 ぶつくさと愚痴り続ける乳母をよそに、浮舟の君はまだ何が何とも考えられず、ただただ居たたまれない思いで胸が一杯のようです。男女のことなど殆ど知らず、経験もないまま宮さまに添い臥しされて、

「姉君は……中君はどう思っていらっしゃるか」

 と恥ずかしいやら情けないやらで、うつ伏せたまま泣きどおしです。余りのおいたわしさに乳母も見かねて、

「どうしてそこまでお嘆きなさいますの、母君がいらっしゃいますのに。誰にも頼れないと悲しむのは母のない人ですよ。世間的には、父のない人はもっと哀れだとされていますが、意地悪な継母に憎まれるよりだいぶマシです。ともかくも、きっと母君が何とかしてくださいますから、あまりくよくよなさいますな。そうだ、お参りに行った初瀬の観音さまもきっと見守っていらっしゃいますよ。旅慣れない貴女があれ程たびたび参詣あそばされたのですもの。あたくしも、何かと侮ってくる人たちを見返してやれるくらいのご幸運がありますように、とお願いしておりましたの。あたくしの姫君は、人に嗤われたまま終わるような方ではございませんから!」

 宥めたりすかしたりで大変そうでした。

 匂宮さまは急ぎ出立の準備にかかられましたが、内裏に近い此方の西門から出られたので、話し声から何から丸聞こえでした。宮さまは特に際立つ美声ですからすぐにそれとわかります。ロマンチックな古歌など口ずさまれていらしたけど、浮舟さまは耳を塞がんばかりでしたね。とりあえず予備の馬を牽き出し、宿直に伺候する家来を十人ばかり連れて、一行は内裏へと向かいました。

 中君さまは、

(浮舟の姫君、どれだけ嫌な思いをされたやら……お気の毒に。何も触れずにおこう)

 と気遣われて、素知らぬ顔で

「大宮さまがご病気とのこと、宮はきっとこのまま内裏で宿直なさるでしょう。わたくし、髪を洗ったせいか何となく落ち着かなくて眠れませんの。どうぞ此方へお渡りくださいませ。お退屈でもいらっしゃいましょう?」

 と伝えられました。浮舟の君からは、

「今、とても具合が悪うございますので、もう少し治りましてから」

 乳母を通じて返事が来ました。さらに此方から

「どう具合が悪いの?」

 と問いますと、

「どこがどうというわけではありませんが、ただ苦しくてたまりません」

 私は少将の君と目くばせをしつつ、

「気まずいわよねえ……みんな知ってるもんね」「気遣って知らんぷりされるのも中々キッツイわよね」「メッチャつらみ……無理だわこの状況」

 などと囁き合いました。

 中君さまの心の声も聞こえてきましたよ。あっもちろん、表には一切出されません。

(なんとも残念でやりきれないこと。薫さまがご興味を示しておいでだったけれど、これを聞いたら何と軽率な女か、と蔑まれるかもしれない。匂宮のようにアチコチにフラフラされるような方は、聞くに堪えない、事実でも無いことを曲げて取って仰ったりはしても、それ以上のことはない。少々の過失なら大目にみてくださる。だけど薫さまは……思ってらっしゃることを容易くは口に出されない。深いところから見透かされるようで此方が気恥ずかしくなる。思えば厄介な人に心を寄せられてしまったものね……浮舟の君も。長年見ず知らずでいた妹だけど、会ってみれば容姿も気立てもよいし、とても放ってはおけない。普通に可愛いし愛しい。本当に世の中というものは複雑で、一筋縄ではいかないものだわ)

(わたくしの境遇は満足いかないことも多い気がしていたけれど、ひとつ間違えばあの子のような目に遭ってもおかしくなかった。こうして落ちぶれずに済んでいるだけで結構なこと。あとは薫さまの、あの煩わしい恋心さえ穏便におさまれば、悩むことなど何もなくなる……)

 中君さまの豊かな御髪はすぐには乾かず、重くて起きているのがやっとのようです。白い衣をひと襲だけ着ていらっしゃるそのお姿は如何にも華奢でお美しゅうございました。

 浮舟の君は本気で具合が悪そうでしたが、乳母が

「いけませんわ、これでは本当に何かあったように思われてしまいます。落ち着いて、普段通りの態度でお目通りなさいませ。そうそう、あの時助けてくださった右近の君には、事の次第を初めから終わりまですっかり話しておきましょう」

 とやんやと急き立てたようです。御前に近い障子の辺りまで二人で来て、

「右近の君とお話したい」

 というので出て行きました。

「大変怪しからぬことが起こりました故、お熱も出ております。真実お苦しそうに見えまして、まことにおいたわしゅうてなりません。御前にてお慰めいただきたく存じまして参りました。過ちなどない御身をたいそう慎ましく嘆いていらっしゃいます。多少なりとも男女のことをご存知の方ならともかく、そうではありませんので……どれほどショックを受けられたか、無理もない、お気の毒なと胸を痛めております」

 乳母はつらつらと語ると、浮舟の君を引き起こして中君さまの御前に押し出しました。

 浮舟の君はまだ混乱している様子で、皆にどう思われるかと恥じらってはいましたが、元来大人しくて鷹揚な人ですから、されるがままに中君さまの前に座りました。額髪が汗で濡れていますのを隠すためでしょうか、灯りから顔を背ける仕草が何とも愛らしく、いつも私たちの女主以外に女無し!中君さま最高にして唯一無二!と崇め奉っている女房たちにもいささか響いたようです。

「ちょっと右近ちゃん……浮舟の君可愛くなーい?」

「そうね少将ちゃん。可愛いばかりかお品もあるわよね。清潔感というか。良いわね」

「もし匂宮さまが本気でオネツになっちゃったらメンドクサイことにはなるわね……ここまで上玉じゃなくても目新しい子が入るとチョッカイ出さずにいられないお方だから」

 中君さまの御前でじっくり顏や姿を見ましたもので、また少将の君とヒソヒソしちゃいました。

 中君さまはやさしく、

「この二条院を、馴れない気の置けるところと思わないでね。姉の大君が世を去って以降、忘れられもせずただ辛くて、我が身も恨めしく、これほど悲しいことはないと思って過して来ましたが……貴女は本当に亡き姉君によく似ていらっしゃる。しみじみと心が慰められる気がいたします。もうわたくしを思ってくれる肉親はおりませんから、姉妹として故大君のお心ざし同様にお考えくださったら、こんなに嬉しいことはありませんわ」

 と語り掛けられましたが、浮舟の君はたいそうはにかむばかりで、気の利いた返事ひとつ出来ません。田舎育ちでこういう場に出たこともありませんもの、致し方ありませんね。

「長年、遙か遠いお方と存じ上げておりましたので……こうして面と向かってお話できますことで、何もかも慰められる心地がいたします」

 少女のようにあどけない声で、ようやくこればかりを言いました。

 中君さまは絵物語を取り出させて、私に読むように仰いました。

 中君さまの御前で堅くなっていた浮舟の君は、恥ずかしさも忘れ夢中で見聞きしていました。灯影に照らされたその横顔は非の打ちどころがなく、繊細で美しゅうございます。額つきや目元が匂うような艶やかさ、おっとりとした上品な雰囲気は、本当に亡き大君さまがそこに現れたかと思えるほどでした。中君さまは絵よりも浮舟の君に目を奪われておいでで、

(なんと故大君に生き写しでいらっしゃる……どうしてこんなにもそっくりなのかしら。とすると故父宮にも似ていらっしゃるのね。姉君は父宮似、わたくしは母君似だと年輩の女房たちによく言われていたもの。懐かしいわ……)

 涙を浮かべてらっしゃいます。

(亡き姉君は、もっともっと……この上なく上品で気高い方だったけれど、一方で優しく柔らかく、危うい程になよやかで繊細でもあった。この方はまだ立ち居振る舞いもぎこちなく、何かと物怖じなさってるせいか、見栄えのする優雅さという点では劣っている。これでもう少し品位というものがしっかり身についたなら、薫さまの妻となっても決して不似合いではない)

 ほぼ「姉心」というものに近い思いでこの「妹君」を眺められ、何かと気遣って話しかけられる中君さまにございました。

 そうしてお喋りしているうちにはや明け方が近づき、お開きとなりました。中君さまは、浮舟の君を隣に寝させて、故八の宮について生前のご様子など、ぽつりぽつりと語られます。浮舟の君も熱心に耳を傾けていらっしゃいます。

(ついに父君に会うことなく終わってしまって、本当に残念だし悲しい)

 と思っておられるのでしょう。紛れもなく姉妹の、実に微笑ましい情景でした。

 一方、女房達の間では―――。

「ねえ右近ちゃん、実際どうなの?確かにすっごい可愛い子だけどさ、ああして中君さまが可愛がられても、宮さまとどうのこうのになったら全部無駄だったー!なんてことになんない?」

「いやあね少将ちゃんたら。今のところはセーフだったみたいよ。あの乳母さんにつかまって一部始終説明されたんだけどさ、何も無かったって。そういや当の宮さまも『逢ったのに、逢ってない~』みたいな古歌をフンフン口ずさんでたもの」

「フーン。ま、そういうことにしときましょってことじゃないの?知らんけど」

「さっき灯影に浮かんだ横顔見た?ホント真っ新な乙女!って感じで、とてもナニかあったようには見えなかったわよ私には。少将ちゃんの目と心が汚れてんじゃなーい?」

「ナニソレひっどー!」

 と、どこかで聞いたようなやり取りですが……概ね、同情の声が大多数の浮舟の君にございました。

<東屋 五 につづく> 

参考HP「源氏物語の世界」他

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