東屋 二
中将の君が部屋に戻ってみると、姫君はこの上なく可憐な姿で座っていた。
(破談にされたとはいえ、誰にも負けていない……!何と美しい子なのかしら)
と改めて実感し、乳母に、
「いやなものは人の心ね。私にとってはどちらも娘には違いないのだから、分け隔てする気はなかった。けれど、この姫君の婿となる人のためには命をかけてもいいと思ってた。なのに……父親がいないと聞いて侮って、まだ幼い、大人になり切ってもいない妹姫を、姉を差し置いて娶りたいなどと……情けない。同じ家の中では目も耳も塞いだところで、晴れがましい!名誉なことよ!なんてはしゃいでる守が嫌でも目に入ってしまう。結局、あの少将とお似合いの、当節よくあるご縁談ってやつよ。もう私はこの件に一切口は出しません。しばらくこの家を出て違う場所に閉じ籠っていたい」
と愚痴った。乳母も、
「ほんに、ふざけた話にも程がありますわ!私の可愛い姫君を馬鹿にして!」
とひどく腹を立てて、
「おお、何と愛らしい子だ……見違えたよ」
守は相好を崩し、髪を撫でさすりながら言う。
「何も、妻が姉娘の婿にと考えていた人を横取りせずともとは思ったが……人柄も勿体なく、飛び抜けて優れた公達だからね。我も我もと婿に取りたがる人が多いというから、余所に取られてしまうのも悔しくてな」
愚かにも、すっかりあの仲介人の口車に乗せられてしまっている。
左近少将はこの舅のもてなしようを、
「豪勢で申し分ない、期待通りだ。この分では北の方もきっと納得したんだろう」
と勝手に解釈し、予め予定していた日時を違えず通い始めた。
母の中将の君や乳母が納得しているはずもない。どうしようもなく呆れかえっていた。北の方である自分も婿の世話をするべきで、引っ込んでばかりいては僻んでいるように見られかねない――と頭ではわかっているが、まったくその気になれない。
中将の君は思い余って、二条院の中君のもとに文を出した。
「特段の用向きもなく馴れ馴れしくお文など失礼かと存じまして、思うままにはお文を差し上げられませんでしたが……慎むべきことが出来いたしまして、暫くの間此方の娘の場所を変えさせたく思っております。もしも人目につかぬ隠れ場所がそちらにございましたらとてもとても嬉しいのですが、如何でしょうか?不甲斐ない私ごときでは娘を充分守ってやることもできず、哀れなことばかり多い世の中ですので、頼りになるお方にまずお願い申し上げます次第です」
涙の跡らしきものまで見えるこの文を読んだ中君は、
(故父宮が認知なさらないまま別れた人を、一人残ったわたくしが親しくお世話をするというのも憚られるけれど……かといって同じ血筋の妹がみすぼらしく落ちぶれて世を流離うまま放っておくのも心苦しい。わたくし自身も後見の無い身、さして変わりはない。お互いに散り散りになったままでは亡き父のためにも不面目かもしれないわ)
と思案に暮れた。
宇治からついてきた女房の一人・大輔の君は中将の君の友人でもある。そちら宛の文はもっと切実な風に書かれていたので、
「何か事情がおありなのでしょう。あまり冷たくおあしらいになるのも不人情というものですわ。お血筋の中にこういった『劣り腹』がいらっしゃるのは世の常にございます」
と中君を説得しこの「方違え」を承諾させて、中将の君への返事を書いた。
「西の対のほうに隠れ場所をつくります。些かむさ苦しい所ですけれど、そこでお過ごしになられては。暫くの間だけですが」
中将の君は大喜びして、誰にもわからないように出立することに決めた。姫君も、姉の中君とは親しくしたいと願っていたので、かえってこういう事態になったことを嬉しく思った。
常陸守は、婿の左近少将をいかに派手にもてなすか頭を悩ませたが、そもそもどういうのが豪華というのかも知らない。ただ粗末な東国産の絹を丸めたままドサリと投げ出し、食べ物も飲み物もありったけ運び出して大盤振る舞いした。
下人などは何とありがたい饗宴かと大感激し、少将も、
(理想的で賢明な選択をしたものよ)
と満足しきりである。中将の君は、
(さすがに北の方たる私が、娘の婚儀の間に家を出て知らん顔というのも不味いわね)
と思って三日の間は堪えることに決め、ただ成り行きに任せて見守っていた。
やれ客人の座敷だ、やれ供人の部屋だと準備に大わらわである。家は広いが、長女の婿の源少納言が東の対に住んでおり、男子も多いので部屋が足りない。おそらく左近少将はこの西の対に住むことになるだろう。姫君はきっと渡殿などに追いやられてしまうと考えると、あまりにも可哀想でならない。
あれこれ思いめぐらせて出た結論が、二条院に身を寄せることだった。
(誰にでもは頼れない。一人前に扱ってくれるような男親がいない姫君だから足元をみられてしまう)
と思うにつけ、成さぬ仲とはいえ血の繋がった姉妹には違いない中君をあえて頼ったのだ。乳母や若い女房二、三人ばかりで、二条院西の廂の北側寄り、人少なな部屋に落ち着いた。
長年疎遠なまま過して来たものの、中君にとって中将の君は母の姪に当たる血縁者であり、女房として働いていた者でもあるので、面会の際には姿も隠さなかった。まさに理想的な女性といった中君の気品と、甲斐甲斐しく若君の世話をする様子を目の当たりにした中将の君は、羨ましくも複雑な思いにかられる。
(私とて故北の方と血筋が近いのに。女房としてお仕えしていたがために、私の娘は数にも入れられず……そのせいであれほど他人に見下されることになってしまった。このお方の情けに縋って擦り寄るしかない、情けないわが身……)
周りには「物忌」といってあるので誰も近づかない。母の中将の君は二、三日ばかり滞在することとした。今回はゆっくりと二条院内を観察するつもりでいた。
俄かに外が騒がしくなり「お渡りです」と声がする。二条院に匂宮がやって来たのだ。
物の間から覗いてみると、これがとんでもない美形である。まさに桜を手折ったような、匂いやかな姿には息を呑むしかない。
少し離れた辺りには、五位四位と思しき家来たちが跪き畏まっている。揃って見た目も態度もあか抜けている。時には恨むこともあるが気持ちには背くまいと頼りにしている夫の常陸守など、この家来たちの足元にも及ばない。
家司が入れかわり立ちかわり現れてあれやこれやと報告をする。とにかく人数が多くて、まだ年若な五位の家来など、顔も知らない者も沢山いた。
「あら、あの声は」「守のご子息じゃありませんの?」
傍にいる女房が囁いた。継子の一人らしき姿が遠くに見える。彼は式部丞兼蔵人で、内裏からの使者として遣わされたらしい。が、匂宮の御前には近寄ることも出来ない。
宮自身とその周囲の、あまりにもレベルが違いすぎる有様に、
(何というお方かしら……中君の運の強さはただごとではない。遠くで話を聞いただけの時には、ご立派な婿殿とはいえ辛い目に遭っていらっしゃる、嫌なことと思ったものだけど、根本的に間違ってた。宮のご容貌もご威勢も私の想像を遙かに超えている……これでは例え七夕のような年一度だけの逢瀬であったとしても文句は言えない。ありがたいことこの上ないわ)
としみじみ思った。宮は若君を抱いてあやしつつ、中君との間に立ててあった短い几帳を押しのけて、何やら囁きかけている。どちらも素晴らしく美しい、お似合いの二人であった。故八の宮の、世間と隔絶した寂しい暮らしとつい比較して、
(同じ親王さまとはいってもこんなにも違うなんて。まさにハイクラースの中のハイクラース……!)
などと思う。
宮が中君とともに几帳の内に入ったので、若君は若い女房や乳母たちが世話をする。
これ以降は官人たちが参集するも、宮は「調子悪い」などと会わず、日がな一日奥から出てこなかった。食膳も此方に持って来させた。何から何までまごうかたなき貴人の日常、普通の人とは全然違う。
(私がどれだけやり尽くした!と思っても、所詮凡人……たかが知れているんだわ。常陸守が財力を頼んで后にもしようと勢い込んでいる娘たちは、我が子とはいえてんでダメ。格が違う。その点、私の姫君は此方の方々と並べてみても決してひけを取らない。やはり今後はもっと理想を高く持つべきね)
中将の君は一晩中姫君の将来について考え続けた。
匂宮は日が高くなってから起きてきて、
「后の宮(明石中宮)が相変わらず具合悪いらしいからお見舞いに行ってくる」
と、よそ行きの装束に着替えた。中将の君は再び覗き見したが、きちんと身なりを整えた姿はまた比類なく気高く美しく、否応なく心惹かれる。宮は若君から中々離れられずに遊んでやり、粥や強飯などを食してからようやく出立の運びとなった。
朝方から参上して侍所で待ち構えていた供人たちは、ここぞと声を張り上げる。その中に何となく見覚えのある男がいた。直衣を着こみ太刀を佩いて、めかしこんではいるが特に可もなく不可もないのっぺりとした顏つき。此方からは見えづらい位置にいたので目を凝らしても誰ともわからなかったが、近くにいる女房達のひそひそ話が聞こえて来た。
「ほらほらあの人よ、今度常陸守の婿になった左近少将って。初めは姉の方と結婚するはずだったのに、継子だったからってドタキャンしたらしいわ。守の実の娘を得てこそ婿の本懐とかナントカ言って、まだ全然お子ちゃまの妹姫に鞍替えしたんですって!」
「そうなの?!酷い話ねえ。でもアナタ、何でそんなこと知ってるの?」
「いえね、ここじゃそんな話は誰もしないし興味もないんだけど、あちらの……少将方の方でちょっとね。小耳に挟んだわけ」
中将の君が胸をドキドキさせながら聞いているとも知らず、言いたい放題である。
(あんな……左近少将ごときを『まあまあ難がない』なんて思い込んでた自分が腹立たしい。ぜんっぜん大したことのない男じゃないの!)
馬鹿々々しくて仕方がない。
若君が這い出して、御簾の端から顔を覗かせた。此方をじっと見つめているのに気づいた匂宮が戻って来て、
「后の宮のお加減がよろしいようだったらすぐに帰ってくるね。まだお悪いようだったら宿直になる。ああ、今は一晩会えないだけでも寂しくって辛いなあ」
となおも若君をあやして遊ばせた。
宮が出て行くときの一挙手一投足すべてが素晴らしく、いくら見ても見飽きないほどに華やかで美しかった。いなくなった後はぽっかりと穴が空いたようで、溜息ばかりの中将の君であった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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