宿木 九
賀茂祭など忙しい時期が過ぎた四月二十日余りの頃、薫はいつものように宇治へと出かけた。
山寺にて造らせた堂をつぶさに視察し、今後やるべきことの指示を出す。一通り仕事を終えた薫は、
(さて次はやはりあの弁の尼を訪ねるか。素通りするのも気の毒だし)
と山荘に向かった。
すると女車が一台、今にも宇治橋を渡ろうとしている。特に仰々しくもないが、帯刀した無骨な東武士を何人も護衛に付け、下人も大勢従えていっぱしの体裁を整えた一行ではある。
(田舎の小金持ちか何かかな?まあ、特に珍しくもない)
薫は構わず山荘の中に入ったが、供人たちがいつまでも外で立ち騒いでいる。どうやらあの車も此方に用があるようだ。
随身達がガヤガヤとうるさいのを黙らせて、
「どこの誰なのか聞いてきて」
と命じたところ、訛りのキツイ男が、
「前の常陸国守の姫君が、初瀬の寺に詣でてのお帰りにございます。行きも此方に泊まられました」
と言うではないか。
(もしやあの……故八の宮の落し胤か!)
ピンと来た薫は、自分の従者たちは隠れさせ、別の家来に、
「早く車をお入れなさい。先客ありですが北面においでなので」
と言わせた。
薫の供人たちはみな狩衣姿でざっくばらんな風体ではあったが、やはり雰囲気でただならぬ身分とわかったのだろう。面倒事は避けたいとばかり、馬を引っ張って後退し畏まっている。車は中に入れて廊の西の端に寄せた。
改築後の寝殿はまだ何もなく簾すらかけていない。格子をきっちりと下ろした中の二間には障子が立てられている。薫はその部屋に忍び入った。この障子には穴が開いているのだ。
(……どうも服がカサカサいうな。脱いじゃうか)
下に着た衣裳を脱ぎ捨てて、直衣とインナー、指貫だけの姿になった薫、覗き見の準備万端である。
車からはまだ誰も下りて来ない。弁の尼に挨拶がてら「誰が来ているのか」と問うているらしい。薫は最初から、
「私がここに来ていることは決して言うな」
と口止めしていたので、山荘の女房たちも皆心得て、
「早く下りてください。客人はおられますが、別のお部屋ですので」
と促しているようだ。
若い女房たちがまず下りて、女主のために簾を上げた。周りにいる前駆どもよりは物馴れて、立ち居振る舞いも洗練されている。もう一人年かさの女房が出がけに「早く」と車中に声をかけた。と、
「何だか、丸見えになってしまいそうで……」
かすかに、上品な声。
「またそんなことを。此方は以前も格子を下ろして閉めきってございました。いったいどこから丸見えになると仰いますの?」
女房が言い聞かせるとその姫君はようよう下りる気になったらしい。ほの見える頭の形や身体つき、細くて上品な感じは亡き大君を思わせたが、扇子を広げて隠しているので顔は見えない。薫は胸を騒がせつつじっくり観察した。
通常ならば車と廊の間に渡す打ち板が無く、それなりに高低差がある。女房達は難なく下りてきたが姫君はそうはいかない。躊躇いがちに長いことかけてようやく下り、部屋にいざり入った。濃い紅の袿に撫子襲とおぼしき細長、若苗色の小袿を着ていた。
四尺の屏風を障子に添えて立ててあったが、穴の位置はそれより上だったのですべて見通すことができる。姫君はやはり隣室が気になるようで、背を向けて物に寄り臥していた。
「何ともお疲れのご様子。泉川の舟渡りも、今日は実に恐ろしゅうございましたね。二月の時には水量が少なかったのでよかったのですが」
「いえいえ、それしきのこと。東国の旅路を思えば恐ろしい場所などどこにもありませんわ」
二人の女房が平然と話す脇で、女主は声も立てずに臥せっている。ちらと見える腕はふっくらとして美しく、とても地方受領ごときの娘とも見えない気品である。
ずっと中途半端な姿勢のままの薫はだんだん腰が痛くなってきた。動いては相手に気づかれると思いなおも我慢して見ていると、若い女房が、
「……何か、匂わない?すごい強い香。尼君が焚いてらっしゃるのかしら?」
と言い出した。老いた女房が、
「ほんに素晴らしい薫りですこと。やはり京のお方は違いますわね、こんなに雅やかで華やかなお暮しをなすって。北の方さまはわが薫物こそ当地で一番と思し召しでしたが、東国でこれほどの薫香を合わせることなどまず出来ますまい。此方の尼君は住まいこそ簡素でいらっしゃるけれど、御衣裳は上等だし、鈍色や青色といっても染めぶりが良いですわねえ」
と褒めちぎる。
向こう側の簀子から女童が出て来て、
「お薬湯などどうぞ」
と、折敷と一緒に次から次へと差し出す。
女房が果物を近くに寄せて、
「もし、如何ですか?」
と姫君に声をかけるも起きない。仕方ないわねえ、とばかりに女房二人は遠慮なく栗などパクつき始めた。こういった素の姿を普段見聞きすることのない薫にとっては見苦しいことこの上ない。いったん障子から身を退いたものの、やはり気になって覗き込み……という仕草を繰り返した。
姉の明石中宮をはじめ、今ここにいる姫君よりはるかに身分も高く、容姿も嗜みも優れている女性を、薫はあちこちで飽きるほど見て来た。余程のレベルでなければ目も心も留まらず、生真面目が過ぎると揶揄されるほどであったのに、今は―――特にどこがどう良いということもない姫君から何故か目を離せず、無暗と好奇心が湧くばかりなのは、何とも不可思議な心向けではあった。
弁の尼は薫の方にも挨拶を取り次がせようとしたが、
「御気分がすぐれないようで暫く休んでおられます」
と供人達が気を利かせて伝えたので、
(あら、この姫君を探し出したいと仰っていらしたのに。この機会にお話でもというおつもりで、日暮れをお待ちになっているのかしら)
と考えた。まさか今まさに覗き見中だとは夢にも思っていない。
日頃からこの山荘に出入りしている薫所有の荘園の者たちが、ちょうど破籠(わりご)に入れた食べ物などを届けていた。弁の尼は、東国からの客人への差し入れにちょうどよい、と配る手はずをととのえた上、身づくろいして挨拶に出た。二人の女房達が褒めていた衣装はたしかにこざっぱりとしていて、顔つきも品があり美しい。
「昨日いらっしゃると聞いてお待ち申し上げておりましたのに、ご到着が今日、それもこんなに日が高くなりましたわね」
弁の尼の言葉に此方も老いた女房が応える。
「姫君がどうしたことかたいそうお疲れになられて……昨日はこの泉川の岸辺で宿を取りましてね。今朝もいつまでもぐずぐずしておいでで」
姫君は揺り起こされようやく目覚めた。弁の尼に恥ずかしがって身体を横に向けたせいで、薫のところからは丸見えである。気品溢れる目元、髪の生え際の感じ――故大君の顔も細かいところまでは見ていないはずの薫だが、ただただ面影を写し取ったようにしか思えない。例によってまた涙を零す。
弁の尼に応える声や気配は、中君にもよく似ている気がする。
(ああ、心が引っ張られる……こんな人がいたとは知らず、今まで探すこともせずに過してしまったとは。もっと身分が低かったとしても、これほど似通った人を得たなら決して疎かには出来ないだろうに、ましてこの人は―――認知して貰えなかったとはいえ真実、故宮の御子で間違いないのだ)
薫は確信して、喜びに打ち震えた。
(今すぐ這い寄って、此の世にいらしたのですね、と言ってお慰めしたい。愛しい貴妃の面影を求め道士を蓬莱山に派遣した唐の玄宗は、形見のかんざしを得ただけだ。私にはこの人がいる――大君とは違うとわかっているが、それでも充分に心慰められる……)
薫と故大君とはそれほどの宿縁があったということか。
弁の尼はすこし話をすると、すぐに引っ込んでしまった。女房達が香りに気がついたことで、
(どうやら薫さまは近い所にいらっしゃるらしい)
と察したため、あまり立ち行ったことも語れなかったのだろう。
そのうちに日も暮れたので、薫もそっと障子を離れた。もとのように着替えて、いつもの障子口に弁の尼を呼び出して姫君の様子を聞いた。
「ちょうどよい折に来合わせたものだ。どうだろう、私が以前頼んでおいた件は?」
と問うと、
「仰せを承りました後は、適当な機会がございましたらと待っておりました。去年は過ぎて、この二月に初瀬詣での時に初めて対面をいたしまして……母君に、薫さまの思し召しをほのめかしてみましたが、とても畏れ多く勿体ないお話だと申しておりました。その当時はご多忙と伺いましたし、持ち掛けるにも時機がよろしくないと存じまして、いちいちご報告しないでおりましたうち、また今月にも参詣して今日戻られた次第です。行き帰りの中宿りとして此処にお立ち寄りくださいますのも、ただ亡き八の宮さまの御跡を偲ばれる故にございましょう。母君の都合がつかず今回はお一人でお越しになりましたので、貴方さまがいらしているということも特にお伝えはしておりません」
と言う。薫が、
「田舎びた連中に忍び歩きの姿を見せまいと、家来たちにも口止めはしているがどうだろうね。下人の間では隠せるものでもないだろうし。さて、どうしようか……一人で来ておられるのはかえって気楽だね。それほど深い宿縁があってこそ巡り合わせたのだ、と伝えてくれ」
と言うと、尼君は
「また俄かなお話で。いったいいつの間にお約束が出来ましたのやら」
と笑って、
「それでは、そのようにお伝えいたしましょう」
引っ込もうとしたその背後で薫は、
「かお鳥の声も昔聞いた声に似ているかしらと
茂みをかき分けて今日尋ねてきた」
独り言のように詠みかけた。
この歌も姫君に伝えたらしい。
参考HP「源氏物語の世界」他
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