宿木 六
薫さまはやはり気持ちを抑えきれなかったのでしょう、いつものように静かな夕方、二条院にいらっしゃいました。中君さまはそのまま端に茵を差し出させ、
「たいへん具合が悪く、とてもお話することができません」
と女房を介して対面をお断りされたのですが、その時の薫さまの酷くお辛そうな、泣きそうなお顔といいましたら……もちろんすぐにお隠しになられ、涙を紛らわせるように、
「具合の悪い時は見知らぬ僧もお傍近く参り寄るものです。医師などと同じように私も御簾の内にお入れください。このような人伝てのご対応では来た甲斐がございません」
強く仰いました。如何にも不愉快だという雰囲気を醸し出されましたので、昨夜の親密なご様子を目にしていた女房達は、
「本当にその通りですわ、これではあまりに遠すぎでは」
と言って母屋の御簾を下ろし、夜居の僧が座る部屋に薫さまをご案内しました。中君さまは実際体調もすぐれなかったのですが、女房がこうまで言うのに強く拒絶もしづらく、渋々ながらもすこしいざり出られて対面なさいました。
中君さまが蚊の鳴くようなお声でぽつりぽつりと仰るご様子に、亡き大君さまが病みつかれた頃を思い出されたようです。縁起でもなく悲しいことと目も眩む心地がして、すぐには言葉も出ず、躊躇いがちなご対面でした。
中君さまが随分奥まったところにいらっしゃるのがお気に召さなかったか、薫さまは馴れた手つきで簾の下から几帳をすこし押し入れて、さり気なく近づかれました。中君さまは気が気ではなくすぐ少将という女房を近く呼び寄せて、
「胸が痛いの。暫く押さえていて」
と仰いました。それを聞かれた薫さまは、
「胸は押さえたら余計に苦しくなりませんか?」
と溜息をつかれ座り直されました。中君さまはその気配を聞くだけでも心穏やかではありません。薫さまはさらにたたみかけられます。
「どうしてそんなにも、いつも具合が悪いままなのでしょうね。聞いた話では、暫くの間気分は悪いが後にはよくなる折もあるといいます。あまりに子供っぽいお振舞いでは?」
仮病じゃないの?といった口調に、中君さまは顔を赤らめられ、
「胸はいつでも痛みますの。亡き姉君も同じような症状がございました。長生きできない人がかかる病だとか聞いたことがあります」
と反論されました。
(そりゃ誰でも千年生きる松みたいな寿命は無いけど……そんな風に言われるとすごく心配になってしまう)
薫さまはもう誰に聞かれるのも構わず、中君さまに対し昔からどれほど深く思いを寄せられていたかを、ご本人にのみわかるように話されました。もちろん、あからさまに危ない内容でもなく、少将にも訝しく思われないような口調で、です。
(本当にこういうところは滅多にないお心ばえというものだわ)
中君さまもつい感心されるほどに。
薫さまは何事につけても故大君さまに話題を繋げます。
「私は幼い頃から、世を捨てて一生を終えたいという願いを持ち続けておりました。しかしどういった宿縁か、ついに結ばれぬまま終わった方――亡き大君に並々ならぬ思いを抱いて以来、この念願の形が違ってしまった。気慰めにとあちこち出かけて人と交じらい、いろいろ見聞を広げれば紛れることもあろうかと存じましたが、他の女性に心が移ることはありませんでした。実に困ったことに……気持ちを強く引かれるのはたった一人だけ。浮気なこと、とお思いですよね、お恥ずかしい限りです。が、不埒な心など断じてございません。ただこの程度の対面――時々お互いに思うことを言ったり言われたり、心置きなく語り合いたいというだけ。誰が咎め立ていたしましょう?世の人とは違った心のほどは、誰にも非難されるいわれはございません。どうかお心安く今後とも」
などと涙ながらに恨み事を盛り込まれますが、中君さまはあくまで冷静です。
「後ろめたく思っていたら、誰かに怪しまれかねないことまで申し上げましょうか。長年、宇治でもこの京でもご厚意は存じております。貴方を世間には例のない後見人として、今ではわたくしの方からご相談を申し上げたりしているのですから」
「私ごときがいつ何をしたものかもう覚えておりませんが、たいそう立派なことのようにお考えくださっていたのですね。今度の宇治への出立準備の件でようやく呼んでいただけた。仰せのように、私を頼りになる者と見込んでのことだとしたら、どうして疎かに思えましょうか?」
薫さまはまだご不満そうでしたが、すぐ傍に女房が控えておりますので、正直なお気持ちをそのまま口に出すわけにもまいりません。
外の方に目を遣りますと、徐々に暗くなって虫の声だけが響き、築山の方は小暗くてはっきりとは見えません。そんな時間になっても寄りかかったまま動かない薫さまに、中君さまは内心うんざりもされているようですが――。
「恋しさにも限りがある」
※恋しさの限りだにある世なりせば年経て物は思はざらまし(古今六帖五-二五七一)
薫さまはそっと口ずさんで、
「困り果てております。音無の里を尋ねたい……あの山里の辺りに寺というほどでもない堂でも建て、故人を偲ぶ人形を作らせ、絵にも描き取らせて、勤行したいと思うようになりました」
※恋ひ侘びぬねをだに泣かむ声立てていづこなるらむ音無の里(拾遺集恋二-七四九 読人しらず)
などと仰る薫さまに、
「身に染むご本願にございますが、あの嫌な『御手洗川』に近い気がします。人形など……想像すると何とも痛ましいですわ。黄金を求める絵師がいたら何としましょう?」
中君さまが心配そうに仰いました。「御手洗川」とは「伊勢物語」の中のお話で、禊をし人形を流しても恋を諦めきれなかった、それどころか余計に思いが増した男が詠んだ歌に出て来ます。
薫さまは、
「そうですね。どんな彫師も絵師も、とても私の心に叶うような仕事はできないでしょう。少し前には花を降らせたという彫師もいたといいますが、そんな変化の人が今の世にもいればいいのに」
どうしてもこうしても故大君を忘れられず、お嘆きはなお深くなるばかりでした。中君さまにもその悲痛な思いは届いたのでしょう、もう少し近くに滑り寄られて、
「人形と仰いましたので思い出しました。とても不思議な、思いも寄らないような話を」
と切り出されました。何ともお優しいお声と雰囲気でしたので薫さまも嬉しくなられたか、
「どういう話ですか?」
勢い込まれて、几帳の下から手を捉えられました。中君さまはイラっとされたものの、
(何とかしてこういったお心を止めさせて、穏やかなお付き合いを)
との思いが強くあったのと、間近に控える女房を憚られたのとで、慌てず騒がずそのままにしておられました。
「今まで存在することも知らなかった人が、今夏に遠路はるばるわたくしを尋ねて来ました。決して遠い関係ではないようですが、なにぶん急すぎてとてもすぐ打ち解けるまではいかず……ちょっと前にまた来た時には不思議なまでに亡き姉君の気配に似通っていて、胸を打たれました。薫さまはわたくしのことを姉君の形見と仰いますが、全然そんなことはなくて
『ことごとくかけ離れていらっしゃいますよね、姉妹なのに』
と女房達には言われておりましたの。なのに縁が薄いはずの方があれほど似ていらっしゃるとは、どういうことかしら、と」
中君さまのこのお話に、薫さまは夢かとばかり一気に食いつかれました。
「何かしらの因縁があればこそ、貴女を慕って来られるのでしょう。どうして今まで少しもお話くださらなかったのか……!」
責め口調の薫さまに、中君さまは動じません。
「さあ……その因縁とやらも、どういうことなのかはわからないのです。頼るものもなく世に落ちぶれてさすらうこともあろう、と故父宮が不安に思われていたことすべて、わたくしがただ一人で何から何まで経験しておりますから……この上また不名誉なことまで加わり、人も聞き伝えますとは、本当においたわしいことで」
その奥歯にものの挟まったような言い方から薫さまは、
(なるほど……つまり亡き八の宮が密かに心をかけた人が、忍草を摘みおいた――つまり子を産んだということか)
※結びおきし形見の子だになかりせば何に忍ぶの草を摘ままし(後撰集雑二-一一八七 藤原兼忠)
と悟られました。
それより何より、亡き大君さまに似ていると仰られたことが耳から離れません。
「それだけですか。どうせならもっと詳しくお話しください」
続きをせがまれましたが、さすがに故宮の落し胤について細々と話すことは憚られたようです。
「尋ねたいと思うお心がおありなのですか……どの辺り、くらいは申し上げられますが、詳しくは知らないのです。わたくしの言ったことにあまりに期待しすぎて、実際にはそれほどでもなかったとなれば申し訳ないですし」
「海中にも愛する人の魂の在処を探し求め、心の赴くままに進み続ける……長恨歌にあるような強い決意まではありませんが、とうてい慰めようもないこの心、せめて人形の願いだけは叶えたい。宇治の山里の本尊と考えてはいけないのでしょうか?どうか、もっとはっきりと教えてください」
俄然その「大君さまに似ている人」に興味を持たれた薫さまは中君さまを責め立てます。
「どうなんでしょう……故父宮のお許しもないことをここまで漏らしてしまって、口が軽すぎましたわね。変化の彫師までお求めになられるのがおいたわしくて、つい」
中君さまはその勢いにたじろがれながらも、さらなる情報を伝えられました。
「たいそう遠いところに長年暮らしていたそうです。その母親という人が不憫がってわたくしを頼って来ましたのを、すげなく追い返すわけにもいかずどう答えたものか躊躇っているうちに、ご本人を連れて再訪されたのです。チラっと見ただけですが、全体的に思っていたよりは見苦しくもありませんでした。母親は娘をどういう人に縁づけようかと嘆いていたようですが、貴方の仏になるほどとまでは……いささか過分なのではないでしょうか」
(何気に、私のこの煩わしい恋心を何とか醒まそうとしてる?)
薫さまは中君さまの意図を察してはいらっしゃいましたが、それにしても気にはなります。
(断固としてあるまじき恋心だとはお思いなものの、あからさまに拒絶して此方に恥をかかせるような扱いは出来ないことも、よくわかっていらっしゃる)
胸を高鳴らせるうちにも夜は更けてゆきます。御簾の内では中君さまが人目にどう映るかとやきもきされ、ついに隙をみて奥に入ってしまわれました。薫さまも返す返す当然のなされようと理解はされておりますものの、やはり恨めしく残念で、恋心を静める術もなくただ涙が零れ落ちます。独り残されて体裁も悪く心は千々に乱れますが、だからといって無謀なお振舞いに出ますのもやはり愚かしく、自身にとってもよろしくないことではありますので、どうにか堪え、いつもより嘆きがちに二条院を出て行かれました。
(これほどの恋しさをどうしたらいい?苦しすぎる……どうしたら世間に批判されないままに思いを叶えることができるだろうか)
二条院からは以上です。少納言でした。ふう……。
右「少納言さん、長々とお疲れ様!ホント大変ねー薫くんの相手……中君ちゃんにも同情するわ、妊婦だっていうのにシツコク長居されちゃってさ」
侍「ねー、アレッてやっぱり恋愛経験値があんま無いせい?何したいのかマジでわからん……」
王「保護者的な雰囲気で油断させていきなり肉体的接触に走るわ、咎められたら話するだけでいいって拗ねるわ、話したら話したで恨み言クドクド、か。大君ちゃんを諦められないのはいいとして、そこから何で人妻の中君ちゃんに行くのかしらね。姉妹だからって代わりになんかならない!ってあれだけ力説してたのに。こっちもダメそうってなったら、人形でもいいから~なんて言い出しちゃって……だいぶヤバい子よね」
右「ごめん、正直言ってキモい(直球)。えっと、二十代もう半ばだっけ薫くん。子供っぽすぎじゃない?後先も考えてない、相手の立場も気持ちもお構いなし、過去に囚われて今が見えてないってさあ」
侍「みんな容赦なーい!でもわかるうー、だって三条宮帰ってきた後もこれよ。
(似ていると仰る人とやら、本当かどうかどうやって確かめよう?大した身分ではないのなら言い寄るのも難しくはないだろうが、先方の望みと違っていれば面倒なことになりそう)
とかなんとかウジウジ悩んでばっかりでまーた夜が明けちゃった。またおんなじことやりそうねこの人……もう何でもいいからとにかく中君ちゃんは諦めないとさー、もう子供も生まれるんだし入る隙間なんてないって。万一まかり間違ってどうかなったとしても、その瞬間匂宮くんとの友情も終了するから!ヒカル王子みたいに謀反だなんだとは言われないだろうけど、倫理的にも社会的にもダメダメだから!」
少「(溜息)どうしたらいいんでしょうね……とりあえず暫くでも大人しくして下さるといいんですけど。さすがに疲れましたわ……」
侍「というわけで次の舞台はまたもや宇治、遠いので一旦女房ズの語りはお休みしまーす。ではまた!」
参考HP「源氏物語の世界」他
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