宿木 五
侍従でーっす!
ヤッバイねー薫くん!今さっきこの三条宮に帰って来たんだけどさー、アレね。もう完っ全に恋する男!間違いない。恋の熱にボーーーっとなっちゃってる。心の声もダダ漏れって感じ。いや実際には口に出してないけどね。
(中君……以前よりすこし痩せたかな?気品もある上にメチャクチャ可愛かった……離れたくなかったなあ。まだ、すぐ傍にいるような感じがする……他に何も考えられないよ)
(宇治にすごく行きたがってたのはどうしようか。願いを叶えてあげたいけど、きっと匂宮は許さないよね。かといってこっそり黙って連れてくのもマズイ……どうやったら人目にも怪しまれず、思う通りに出来るだろう)
心ここにあらずって感じでぼんやりしちゃってる……と、思ったらチャッカリ二条院にお文のお使い頼んでるわ。いつの間に書いたんだろ。
少納言さーん!
はい、少納言です。
お文早速二条院に届きました。見た目はいかにもお堅そうな立て文で、
「無駄に分け入った道の露が多く
昔を思い出す秋の空ですね
ご対応の冷ややかでした理由、何も知らずに辛うございました。申し上げようもなく」
とありました。いつもきちんとお返事なさっていた中君さまです、今回だけ無視というのも要らぬ邪推を産むかもしれないとの思いがあったのでしょう。苦し紛れに、
「承りました。とても具合が悪く、これ以上は申し上げられません」
と書きつけただけのお文を返されたようですよ。
薫さまはきっとがっかりされましょうが、致し方ないですわね。
ではまた三条宮へお返しします。
少納言さんアリガトー!再び侍従でっす!
そうそう、割と速攻で届いたんだけど、
「え、これだけ?あまりにも短すぎない……?」
薫くんガックリ肩を落しつつも、まーたボンヤリ恋の熱に浸ってる。
(人妻になってすこしは男女仲というものをお分かりになったんだろうか、以前のようにありえない!信じられない!って感じじゃなかったな。頑として拒否するのじゃなく、気高く毅然とした態度ながら、やさしく宥めるような物言いをして上手に私を帰らせた)
(ああ、本っ当に悔しい。これまでの色々を思い出すたびにウアアア!ってなる。昔よりぐんと魅力的な女性になられた……なのに)
(いや、待てよ。匂宮の心がすっかり離れてしまえば、私以外に頼る男はいなくなる。そうなったとしても大っぴらに気安く逢うようなことは無理だけど……人目を忍ぶ仲となっても、これほどに思いをかける女性はこれで最後だろう)
もう中君さまのことで頭がいっぱい、ふんわり恋心とかじゃなくはっきりよからぬ妄想ね。あんなに思慮深げに賢しらぶってても、やっぱ男は男なのよ残念ながら。亡き大君さまをいくら偲んだところで、もう此の世にいないわけだから何言っても仕方ない。それはそれこれはこれ。生きて手の届くところにいる中君さまを、如何にものにするかっていう頭しかないんだわもう。
そんな不穏な状況を野生の勘で察したのか何なのか、
「本日、匂宮さまが二条院にお渡りになったそうだ」
なんて家来さんたちが言い合ってた。
薫くん、もう色恋抜きの保護者役なんていう気持ちはキレイさっぱり消え失せちゃった。胸が締めつけられそな嫉妬メラメラ!ってかんじね。
では二条院どぞ!
少納言です。
匂宮さま、六条院にいらっしゃること数日を経て、自分でも堪えきれない……!っていう体で急に二条院へお渡りになられました。中君さまは、
(隠し事は何としても気取らせまい。宇治の山里へも行きたいけれど、頼みの綱だった薫さまにああいったお気持ちがあるとわかった今、もう無理ね……)
とますます辛い思いを胸に抱えておられましたが、
(自分が嫌になる……消えてしまいたい。けれど自分では消すに消せない命だから、せめて生きている間は大らかな気持ちでいたい)
※憂きながら消えせぬものは身なりけりうらやましきは水の泡かな(拾遺集哀傷、一三一三、中務)
ある意味諦めの境地に至られて、ただひたすら無邪気に可愛く振る舞っていらっしゃいました。宮さまはそんな中君さまの態度がますますいじらしく、嬉しく思われて、何日ものご無沙汰を埋めようと頑張っていらっしゃいました。
ややふっくらとしてこられたお腹を腹帯で包んでおられる中君さま、ご本人はたいそう恥じらっていらっしゃいますが、これまで妊婦を間近でご覧になったことのない宮さまには珍しく、ますます愛しさを募らせておられるようです。気詰まりな所に居続けたことで、ここ二条院がいかに万事気楽で安らぐ場か改めて実感されたのでしょう、またもや並々ならぬお約束をつらつらと繰り返されます。
中君さまは、
(何とまあお口が達者でいらっしゃること……昨夜の薫さまの無体なお振舞いにしても、長年ただご親切なお方とばかり思い込んでいたのに、結局は男女の情絡みだった。宮の仰る先々のお約束とやらもどうなることか)
と醒めたお気持ちもあったものの、真実の愛を語る甘い言の葉の洪水に決して悪い気はいたしません。やはり宮さまはその辺手練れなのです。
(それにしても薫さま……巧妙に油断させて入って来られたものだわ。亡き姉君とは何もなく終わってしまったと語られて、世にも珍しい、なんと純粋で誠実なお方かと感心したけれど……だからといって気を許してはいけなかった。これからは一層用心しなければ)
宮さまの訪れが長く途絶えるようなことがまたあれば、必ずやまた同じことが……いえ、おそらくはそれ以上の事態になりかねません。中君さまは恐ろしくてたまりませんでしたがもちろん言葉には出せず、そのお気持ちの分だけ、いつになく宮さまにまとわりついておられました。宮さまは、そんな中君さまがいっそう可愛いと抱き寄せられたのですが―――
(……ん?この香り……)
宮さまの顔が曇りました。
世に「匂宮」と異名を取るほど香の道を好み、精通しておられるお方にございます。中君さまの御身からふとした瞬間に薫ったそれは、現存するどの香を焚き染めてもはっきり違うとわかる、唯一無二の―――
(間違いない。これは薫の……)
「……昨日、薫がここに来たの?まさか、泊まり?」
一転、咎めるような口調です。確かに会ったことは会った、泊まったといわれれば泊まった……事実なのですが、どうにも表現しようがなく、中君さまは言いよどんでしまわれました。
宮さまはすっかり頭に血が昇られて、
「なるほど、そういうことなんだね?泊まっていったんだ。予想通りだよ、こんな近くに住んでる薫が、平気でいられるはずはないってずっと思ってた」
もうすっかり何かあったものと思い込まれました。
中君さまは昨夜お召しになっていたものは単衣(下着)まで全部着替えられましたが、それでも身にすっかり沁みついていたのでしょう。
「これだけ薫ってるんだから、行きつくところまで行ったってことだね」
口を挟む隙も無くまくしたてられるので、中君さまはもう情けなくて身の置き所もありません。
「誰よりも貴女を愛してるのは私なのに、捨てるなら自分からってこと?こんな風に裏切るなんて下賤な女がすることじゃない?私を嫌いになるほどのご無沙汰だった?思いのほか恨みがましいお心だったんだね」
等々、とてもすべては再現しきれない程の酷い言いようをされて、おいたわしいことこの上ありません。途中から何を仰るのも諦めて口を噤まれた中君さまに、なおのこと苛々されたか、
「他の男に馴れ親しんだ袖の移り香か
我が身も深い恨み(裏)で占められた」
本性を見たと言わんばかりの歌を詠まれました。
言われっぱなしで黙っておられた中君さま、さすがに何も言い返さないのもどうかと思われたか、
「見馴れた中の衣と、親しみ信頼してきた夫婦仲も
こればかりの薫りでかけ離れてしまうのでしょうか」
と詠むや泣きだされました。その余りのいじらしいお姿に胸を突かれたのでしょう、
「こんなだから……手を出されてしまうんだ!」
とますます苛つかれた宮さま、ご自分も涙をぽろぽろと零されました。まことに情の深いお方にございます。本当に酷い過ちがあったとしても、いきなり切ってしまうことなどとてもお出来になりません。中君さまの可憐でいて痛々しいお姿を前に、恨み通されることも無理です。酷い言葉も長くは続かず、号泣する中君さまの涙を拭いたり慰めたりと、とにかく混乱しておられるようでした。
翌日はゆっくり朝寝なさって、御手水や御粥などもこちらでお召し上がりになりました。宮さまが昨日までいらした六条院のお部屋の設えはまさに輝くばかりで、それぞれの衣裳も高麗や唐土の綾錦を裁ち重ねた豪奢な色彩に溢れておりました。宮さまの目には、此方のご様子はごく普通の和やかな一般家庭と見え、女房たちの中には糊気のとれた衣裳を着ている者もちらほらいる、およそ華やかさとは遠い静かなたたずまいにございました。
中君さまは、なよやかな薄紫の袿に撫子色の細長を重ね、ゆったりくつろいだ格好でいらっしゃいます。何もかも華麗にして事々しく、盛りを極めていらっしゃる六の君の非の打ち所の無い美女ぶりを以てしても、まったく劣っているようには思えません。中君さまの、人を惹きつけずにはおかない魅力は、宮さまのこの上ない愛情を受けるに足るものでした。見た目にも、ぽっちゃりしておられたお身体がすこしほっそりして、肌の色はいよいよ白く気品ある美しさはいや増すばかりにございます。
以前から愛嬌があり可愛げのあるところは誰より勝っていると思っておられた宮さまです。
(この人と……兄弟でもない男が間近で話を交わして、何かにつけ声や気配を見聞きしていれば、そりゃ平静ではいられなくなるよね。きっとその気になっちゃうよ)
ご自身の正直なお気持ちからそう推察されてからは、
(これは真面目に対策しないと。どこかに、これぞ恋文!みたいなのはないかな?)
と手近にある厨子や小唐櫃のようなものの中をさり気なく探されましたが、それらしきものは見つかりません。ただ、いたって事務的で言葉少なな普通の手紙が、わざとらしくもなく他のものと一緒に置いてあるだけです。
(いやいやそんな訳ないだろう。他にもあるんじゃないか?)
疑いは晴れずますます不安が募りますのも、まだ昨日の今日ですので致し方はございません。
(薫だって、もののわかった女なら誰でも心惹かれるような男だし、問題外よ!って撥ねつけることはないよね。似合いの二人だ、お互いに思い合ったっておかしくない)
考えれば考える程、情けなく、腹立たしく、妬ましくて仕方がございません。到底安心ができませんので、その日も二条院から出られませんでした。ただ六条院にはお文のみ二度三度と送られたものですから、
「まあ、いつの間にあれ程言の葉が積もるものかしら」
と呟く老いた女房もおりましたとか。いえ、私ではないですよ?
では三条宮の侍従さん、お願いします。
ハイ侍従でーす!
薫さま、匂宮さまがずっと二条院に居っぱなしだって聞いて癪に触って仕方ない。
(不毛だな……こんな風に私が腹を立てるのは全然お門違いだし、よろしくない。安全安心な後見人としてお世話しようと決意した初心を忘れちゃダメだ)
無理くり反省しつつ、
(ともあれ宮が中君を見捨てていなかったことは嬉しくもある……そうだ、彼方の女房達の衣装がすっかり着馴れてよれよれになってたな)
いつもの気の利く有能薫くんが戻ってキター!
母君の入道の宮さま(三宮ちゃんね)のお部屋に行って、
「良さげな出来合いの衣装はありませんか?使うことがあるので」
とお願いしたのね。
「来月ある例年の法事の布施用に白い生地があったかと。染めてあるものは今特に置いてないわね。急いで作らせましょうか?」
「いや、仰々しい用向きではないのでそこまでは。あり合わせのもので結構です」
てことで、御匣殿に問い合わせて、女装束類を多数、細長もありったけ、染色していない絹綾なんかを取り交ぜて揃えたのね。中君さま用としては、薫さまの手持ちの布――紅色の槌目がキレイなやつとか、白い綾とか、そりゃもうたっくさん。ただ袴の付属品だけなかったから、どこからか腰ひも的なの一つ持ってきて結びつけて、お歌も添えた。
「結んだ契りの相手が違うのを
今更どうして一途に恨んだりしましょうか」
この一式を大輔の君っていう、宇治山荘時代からの馴染みの女房さんに、
「適当にかき集めただけだから、うまく整理して皆に分けてね」
って渡したのね。中君さま宛のは目立たないようにだけど、きちんと箱に入れて包装も別格にして、即わかるようにしてあった。ご本人の知らないところで、以前からこういうお心づかいはキッチリやる人なのよ。そこはホント、律儀でエライと思う。
ねっ少納言さん!
ええ、本当に。どれもこれも素晴らしい、質の高い布ばかりで有り難いですわ。
もちろん突き返したりなどする類のものではありませんので、どうしたものかと思案することもなく、女房たちで手分けして縫物中です。
中君さまの御前近くに仕える若い女房たちはとりわけ身綺麗にさせるおつもりなのでしょう。そういった意図が窺えるラインナップでした。下仕えたちも、よれよれの衣姿だったのがシンプルな白い袷にかわり、良い感じになりました。
いったい誰がここまでお世話をしてくださるでしょうか。匂宮さまの並々ならぬお心ざしも本物で嘘はなく、
「万事不自由がないように」
とお考え置きくださいますが、こういった細々した内々の事情まではどうしてもお目が行かない。誰よりも最優先され大事にされることに慣れ切っておられるので、生活が思うに任せず物も不足しますことがどういう状況かご存知ない。それはもう、どうしようもないことです。
風流めかし、ぞくぞくと心に染む花の露の美しさを愛でる暮らしを常とする宮さま―――愛する人のために、自分から季節柄につけ実務的な面にまで目を届かせて取り計らわれる、などというお心づかいはとうてい期待するべくもありません。
「どんなものかしらねえ……夫でもないお方がこんなにして下さるのに」
非難めいた言い方で愚痴る乳母などもおりました。
女童たちの身なりも、たいていはあまりぱっとしない者が混じっておりましたので、中君さまもたいそうお気にされて、
(お邸が立派すぎて、レベルを合わせるのが大変だわ……)
と人知れず溜息をつかれることも一度や二度ではありませんでした。ましてこの頃はあの六の君のご威勢と華やかさに押され、
「匂宮付きの女房達もきっと見比べて、なんて彼方はみすぼらしいのかしら、と思っているのでしょう)
こんな悩みまで加わっていたとことです。薫さまはこの辺り本当によく察してくださっていてまことに有り難いことでした。親しくもない相手なら「お心遣い」もこれみよがしの押しつけがましい感じになりがちですが、薫さまは、
(仰々しくやってやった、みたいな顏をして、他人にお門違いじゃないの?何でそこまで?って思われちゃうのは嫌だよね)
という思いで、絶妙なバランス感覚のもとサラッとやってのけられます。
今回もまた例によって「派手さはないが良い感じ」のものを色々取り揃えてくださって、小袿を織らせたり綾の素材をいただいたりすることができました。ただ薫さまにしても宮さまと負けず劣らず大事にかしずかれてきたお方ですから、もともとは過剰なまでに自意識が高く、世の中を悟り澄まして、貴族としてのプライドもこよなきものにございました。それが故八の宮さまの宇治住まいを知られてからというもの、
(親王ともあろうお方が、あのような寂しい場所で暮らすことになるとは何というおいたわしさ)
と、ご自分の境遇が如何に恵まれているかを理解され心苦しく思われて、世の中全体をよく見据え、不遇な人々に深い同情をかけるようにもなられました。故八の宮さまのご悲運がこのような形でその娘御を助けることになりますとは、何とも皮肉なものです。
(やっぱり私はこんな風に、頼りになる安心安全な後見人として収まることにしよう)
こと「お世話」に関しては誰よりも丁寧かつ完璧という自覚はおありの薫さま、そちらに徹した方がいいと頭ではわかっておいでなのですが、やはりそれとこれとは別なのです。どうにも堰き止めがたい恋心に苦しむ薫さまは、せめてお文だけでもと以前より細やかに、ともすれば抑えきれない気持ちを露わに書き連ねるようになられました。中君さまの方は本当に厄介事ばかりの我が身と嘆かれるばかりです。
(全然知らない人なら、ちょっとオカシイんじゃない?止めてくださる?なんて委細構わずバッサリ斬り捨てても気楽なものだけど、昔から誰より頼りにして助けていただいたお方と何か揉めてそう~なんて世間に知られたら何を言われるやら。お心持ちも態度も浅いものではないとわかるからこそ困るのよ……シャットアウトも出来ない、かといってお気持ちを受け入れたかのように取られる振る舞いは極力避けたい……ああ、どうしたものかしら)
考えれば考える程、悩みの尽きない中君さまでございました。
お仕えする女房達に相談するにも、気持ちの理解できそうな若手は皆新しい人で、あとは宇治から一緒に上京したいつもの老女房達です。悩み事を同じ心で親身に話し合うような人は、やはり故大君さま以外にはいらっしゃらないのでした。
(姉君がもし生きておられたら、わたくしと同じように悩んだりされたかしら)
そう思う度に悲しくてたまらなくなる中君さま――宮さまに冷遇されることより、薫さまの件の方がより一層厄介で辛いことと思っていらしたようです。
参考HP「源氏物語の世界」他
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