早蕨 一
藪だからといって日光が分け隔てして射すわけではない。あまねく照らす春の光に、
「わたくしは……今までどうやって生き永らえてきたのだろう」
中君には、過ぎ去った月日がまるで夢のようにしか思えなかった。
※日の光薮し分かねば石の上古りにし里に花も咲きけり(古今集雑上-八七〇 布留今道)
季節が来ては去る折々、花の色も鳥の声も同じ心で起き臥しに見、和歌を詠むにも上句と下句とを各々言い交し、心細い日常の憂さも辛さも語りあい慰めあってきた姉妹だった。嬉しいことも悲しいことも、思いを共にしてくれた姉はもういない。何もかもが闇となる中独り涙に濡れ、父宮が亡くなった時の悲しみよりなお勝る恋しさと侘しさに成すすべもなく、いつ夜が明けたのか暮れたのかもわからないほど惑乱していた中君であった。寿命は前世からの定め、死ぬに死ねないのも酷な話である。
※花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり(後撰集夏-二一二 藤原雅正)
山寺の阿闍梨から使者が来た。
「年が改まりましたが如何お過ごしでしょうか。御祈祷はたゆみなく勤めております。今は御身の上をくれぐれも息災にと祈念いたしております」
という文を添え、風流な籠に入れた蕨やつくしを
「童子達が献じましたお初穂です」
と献上する。手蹟は悪筆で、歌も大仰に一字ずつ離してあるが、
「故八の宮にと毎年ずっと春に摘んでまいりました
今年もいつも通りの初蕨です
中君の御前でお詠みください」
不器用だが精一杯心を尽くして詠んだのであろう、歌の心が胸に沁む。さして思いも深くなさそうな歌を、美麗に飾り立てて筆任せに書き連ねたような文よりはずっといい。目が離せず何度も読み返すうち、涙も零れ落ちた。中君は返事を書かせ、使者に禄を取らせた。
「この春は誰に見せましょうか
亡き人の形見に摘んだ峰の早蕨を」
二十五歳の中君は今まさに女盛りといった艶やかさである。心労続きでやや面窶れして気高さと優雅さがいや増したところ、随分と大君に似て来た。二人揃っていた頃は姉妹それぞれに違いがあって、特に似た感じはなかったが、今はふとした瞬間に見間違えるほどだ。
「薫中納言さまは未だに亡骸だけでも残して拝見できたならと、朝夕に慕っておいでだそうね」「どうせなら中君さまとご婚姻されていれば……と思うけれど、そういう宿縁はお持ちではなかった……残念だこと」
女房達はこっそり囁き合った。
薫の家来が通って来るので、お互いの様子は絶えず聞き交わしている。
「薫さまは相変わらずぼうっとしておられるらしい」「新しい年かとも言わず、悲し気な顔をしていらっしゃる」
という。中君は、
(亡き姉君へのお気持ちは真実、一時の浮ついた恋心ではなかったのね。それほどまでに深いご愛情だったのだ)
と感じ入った。
一方、ますます宇治を訪れることが難しくなった匂宮は、ついに
「中君を京に移そう」
と心を決めた。
正月も二十日を過ぎ、内裏での内宴など一通りの行事が終わった頃合い、薫は
(心に収まり切れない事々を誰かに語りたい)
と、同じ六条院内の匂宮のもとへ参上した。
宮は端近に出て、しっとりとした夕暮れの空を眺めていた。筝の琴を掻き鳴らしながら、お気に入りの梅の木の香りを賞美する。薫はその下枝を折り取って持参した。梅が薫自身のそれと相まっていっそう優雅に香り立つのを、宮は折も折と興じて、
「折る人の心に通う花なのか
色には出ず下に匂いを含むとは」
暗に、中君に下心があるんじゃないの?とからかう。
薫は即座にその意図を受け、
「見る人に言いがかりをつけられる花の枝は
心して折るべきでした
すぐそうやって勘繰る。メンドクサイ人ですね全く」
と切り返す。
危うい話題も戯れ言として阿吽の呼吸でいなし合う、実に仲の良い二人であった。
軽い近況報告や世間話のあと、匂宮はまず宇治の様子を尋ねた。薫は、大君を喪った悲しみが未だ尽きないこと、亡くなった当日から今日まで思いが断ち切れないことなど、四季折々につけ時にはしんみりと、時には面白く、泣ける話笑える話をとりどりに語った。宮は薫以上に感受性豊かで涙もろい性質なので、他人事とはいえ袖も絞らんばかりに泣きぬれつつ、親身に聞き、応えた。
空の景色もまた心を知り顔に霞みわたる。夜になり、烈しく吹き出した風はなお冬めいて冷え冷えとし、灯りも消えかかる。闇の中梅の香りだけを頼りに、互いに言いさすこともなく、話は尽きないまま深夜になった。
匂宮は、薫と大君の世にも稀なる関係を、
「まーたまた。何にもないってことはないでしょ、まだ何か隠してるよね絶対!」
と思い込んで問い詰める。自分ならありえない話だからである。とはいえ概ね分かりが早く、落ち込んだ気持ちを引き上げて慰めもし、悲しみを和らげるようさまざま話をする宮に薫の心も徐々に解け、癒されてゆく。胸に収めきれないほど鬱積したものが吐き出され、やさしく受けとめられるうちにすっきり晴れていく心地がする。
宮の方も、中君を近く二条院に移すことを打ち明けた。
「なんと、それは実に喜ばしい。私の不手際であんな結果になってしまって、悔やんでも悔やみきれない気持ちでいたもので……亡き大君のたった一人の妹である中君には頼りになる親族もおりませんから、日常の生活全般は私がお世話申し上げようと思ってました。あ、いや色めいた意味ではないですよもちろん。実は……大君にも生前頼まれたことがありまして」
薫は、かつて大君が「私同様にお思い下さい」と薫に中君を譲ろうとした一件に触れたが、「岩瀬の森の呼子鳥」めいた夜のこと―――大君に逃げられて中君と過したこと―――は伏せておいた。
※恋しくは来てもみよかし人づてに岩瀬の森の呼子鳥かな(玄々集-九三)
心の内では
(せめてもの慰めの形見として大君の仰った通り、中君を妻にしておけばよかったな)
と後悔することしきりだが、今更どうしようもない。
(ダメだ、常々こんなこと考えていたらいつ不埒な心が起こるかもしれない。誰のためにも無益で愚かなことだし、キッパリ諦めよう……それはともかくとして、中君が宇治から京に移るならその支度や細々した実務に雑用、私しかやる人いないよね)
薫は自らに言い聞かせ、早速中君の引っ越し準備にかかった。
宇治の山荘では見目の良い若い女房や童女を雇い入れ、皆満足げに立ち働いている。中君としては、もうこの伏見ならぬ宇治を離れるのだと思うと心細くてたまらず、嘆きも尽きないが、かといって独り立て籠もるほどの意気地はない。
※いざここにわが世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し(古今集雑下-九八一 読人しらず)
匂宮からは、
「浅くない縁が絶え果ててしまいそうな山住まい、いつまで続けるの?早く移っておいで!」
という恨み言の雨あられだが、確かにそれもそうなのだ。このまま宇治で一生暮らせる気はしない。だが京に移るのも不安……中君はどうしたらいいのかわからず、ただ逡巡していた。
二月に入り、引っ越しも目前となった。花の咲く木の蕾は今にも開きそうにふくらんでいる。
(春霞が立つのを見捨てて去る雁は、花なき里に住み馴れるという。わたくしは――自分の家でもない、まるで仮初めの旅寝のような有様で京に住まって……馴れることが出来るのだろうか。人に嗤われるような羽目になったら……)
※春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる(古今集春上-三一 伊勢)
中君は何もかも自信がなく、独りくよくよと思案にくれていた。
姉妹の服喪は三か月と決まっており、そろそろ喪服も脱いで禊をすることになるが、如何にも短い気がする。生まれてすぐ世を去った母親は顔も知らず、恋しく思ったこともない。姉を母代わりとみなして、親同様に濃い色の喪服を着たいと望んだ中君だったが、叶うはずもなかった。
薫から車や前駆を勤める供人、陰陽博士などが山荘に差し向けられた。
「早いものですね、霞の衣を裁ったばかりなのに
花も綻ぶ季節も来ました」
色とりどりの美しい衣装も添えられていた。引っ越しの際の家来や女房への心づけなども、仰々しくはないが各々の身分に応じて細々と考慮され、大量に用意されている。
「まあ、まことに折々お忘れなく並々ならぬお心遣いをいただいて……実のきょうだいであってもとてもここまでは出来ますまい」
女房達は口々に中君に訴えた。特に老女房たちは、こういった何気ない物心両面のサポートが如何にありがたいかをしみじみと説く。若手の女房達は、
「もう薫さまのお姿は見られないのかしら」「そりゃそうでしょ、二条院は匂宮さまのお宅だもの」「時々でも目の保養だったのに……寂しい」「どんなにか恋しくなるでしょうね」
などと言い合っていた。
薫自身も引っ越し前日の早朝にやって来た。いつもの客間に通された薫は、
(この場所もこれで最後か……私こそ誰より先に、大君を、中君ともども京にお迎えしたいと思っていたというのに)
在りし日の大君の姿、発した言葉を思い出しつつ、
(酷く疎まれたり、もっての外と撥ねつけられたりなどということはついぞなかった。私は自分から変に距離を取ってしまったんだ。なんと不甲斐ない)
胸は痛むばかりである。
いつか姉妹の様子を垣間見した障子の穴も思い出して覗いてみたが、中の部屋は全て戸を閉め切ってあり何も見えなかった。
薫の目の届かない奥の部屋でも、女房達が大君を思い涙ぐんでいた。中君はまして催される涙の川に明日のことも考えられず、ぼんやりとただ横たわっていたところ、
「幾月もご無沙汰いたしました間に積もったお話も、大したことではありませんが、ずっと欝々としておりました心を片端なりとも吐き出して、慰めにしたいと存じます。いつものように他人行儀に放っておかないでください。ますます違う世界に来たような気になります」
薫から女房に言伝てられた。中君は、
「他人行儀と思ってしまわれると困るのだけれども……わたくしはいつものわたくしではなく動揺しているし、はかばかしい応答も出来ずに失礼をしてしまうかも……気が引けるわ……」
と渋ったが、女房たちにそれはあまりに気の毒です!ご挨拶だけでもと諭されて、中の障子口で対面することになった。
久しぶりの薫はこの時、中君と同じ二十五歳であった。その姿に女房達は色めき立つ。
(なんだかすごく……眩しくない?清らかさが増したような)(大人っぽくなられたわよね?)(何というか、凄みのある色気というか雰囲気が)(こんな人、他に見たことない。吸引力半端ないわね)
うっとりしながら溜息しきりである。
中君は、亡き大君の面影を重ね合わせてしみじみと涙ぐむ。
薫は、
「お話ししたいことは山ほどありますが、今日は封印しましょうね」
と言った後しばらく間を空けて、
「お住まいになる二条院から近い場所に、私も後ほど移ることになっております。『夜中暁いつの時にも』とは親しい仲の行き来を申しますが、どんな折にも気兼ねなくお声がけくだされば、此の世に生きている限りは何なりとご相談承ります所存です。貴女のお考えは如何でしょうか?人の心はそれぞれ違いますから、私のこの気持ちなど要らぬお節介かと、独り決めもしかねております」
と言う。中君は、
「『里をば離れず』と申す歌のように、この家を離れがたい気持ちが強うございます。近く、と仰られましても心が乱れるばかりで、何も申し上げようが……」
※今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れず訪ふべかりけり(古今集雑下-九六九 在原業平)
と、言葉を選びながら答えたが、身を切られるような寂しさが物越しにも伝わって来る。何よりその気配は亡き大君にそっくりだった。
(自分から余所の男の妻にしてしまった)
薫はまたも悔しい気持ちに襲われるが、何の甲斐もない。あの夜のことは露ほども触れず、忘れ去ってしまったかのように沈着冷静に振る舞った。
すぐ近くの庭の紅梅は色も香りも見事で、鶯も見過ごしがたいか、さかんに鳴いて飛びかっている。まして「春や昔の」と心を惑わせている同士が語る折のこと、胸に沁みる美しさだ。風がさっと吹き入ると広がる得も言われぬ薫り、花橘ならぬ昔を思い起こさせるよすがとなった。
※月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして(古今集恋五-七四七 在原業平)
「退屈の気紛らわしにも、嫌なことの慰めにも、心を留めて愛でておいでだった」
中君は大君の思い出で胸が一杯になり、
「見る人もいなくなってしまった山里に
昔を思わせる花の香りだけがします」
ひそやかな声で、途切れ途切れに詠む。薫は愛おしげに反復し詠み返した。
「あの人が愛でた梅は変わらぬ匂いで
根こそぎ移ってしまう宿は他人のものなのですね」
堪えきれない涙を品よく拭い隠す。それ以上は多くを語らないまま、
「またいつか……こんな風に何事もお話しできますように」
と言い置いて立ち上がった。
中君との対面を終えた薫は、明日の段取りを皆に伝え置いた。この山荘の留守居役はあのひげ面の宿直人が勤めることになっていたので、近辺の荘園の者たちにも根回しし、生活に困らないよう細かいところまで気を配った。
あの老女房・弁の君は髪を下ろし、弁の尼と名のっていた。
「このような栄えあるお供にはそぐわないわが身にございます。思いのほか長かった寿命も辛くなってまいりました。人もこの年寄りを忌まわしいと見るでしょうから、今は世に在る者とも知られたくないのです」
と引き籠っていたのを薫が召し出して、しんみり昔の話をする。
「こちらにもまた時々は来るつもりだが、知った人もいないのは心細い。こうして残ってくれるのは実にありがたく嬉しいことだよ」
薫は言い終わらないうちに泣きだしてしまった。
弁の尼は、
「厭わしく思えば思う程に延びていく寿命が辛うございます。いったい私にどう生きよというおつもりで皆さま打ち棄てていかれたのかと恨めしく、此の世の総てを情けなく思っておりますので、罪もどんなにか深うございましょう」
愚痴り出して、薫を慰めるどころか、逆に慰められる始末である。
相当な年寄りではあるが、昔は美しかったらしき髪を削ぎ落して、額の具合も様変わりしたことでやや若く見え、尼としては優美な部類である。
(これほど悲しい思いをするのなら、なぜ大君も同じように尼にして差し上げなかったんだろう。もしかしたらそれで寿命が延びたかもしれない。尼姿でも生きておられたなら、どんなに心深く語らいあえたことか)
などと考えるとこの尼すら羨ましく、姿を隠す几帳を少しずらして細々と語らう。見た目にはすっかり呆けた年寄りだが、ものの言い回しや心遣いは人品卑しからず、嗜みある女房としての名残はあった。
「先に立つ涙の川に身を投げれば
死に後れることもなかったでしょうに」
泣き顔で詠んだ弁の尼に、薫は
「それも酷く罪深いことだ。彼岸に辿り着けなくなる。そこまでのことでなくても、深い底に沈んで生きていくのも無意味だね。すべて……一切が無常だと悟るべき此の世なのだ」
と言って歌を返す。
「身を投げる涙の川に沈んでも
恋しい折々を忘れることはできない
いつになったらこの悲しみが鎮まるのだろうか……果てしもない心地がする」
帰る気にもなれず、ぼんやりもの思ううちに日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも要らぬ邪推を生みかねないと憚られ、帰ることにした。
そんな薫の様子を弁の尼は中君に語り、誰も慰めようもない涙にくれた。他の女房達は皆満ち足りた風で、縫物などしつつ、老いさらばえた容貌も気にせず身づくろいに右往左往している。
その中で際立って質素な恰好で、
「人はみな準備に忙しい袖の浦で
一人藻塩を垂れる(泣いている)海人(尼)の私です」
と泣き泣き詠む弁の尼に、
「塩垂れる海人(尼)の衣と何が違うのでしょう
浮いた波に濡れている私の袖は
人並の生活がいったいわたくしに出来るのかどうか……とても無理そうな気がする。ことによると戻ってくるかもしれないし、荒れ果てないようにしておきたいわ。その時にはまた会えるでしょう。ただ、ほんの暫くの間だけでも心細げに留まる貴女を見てしまうと、ますます行きたくなくなるわね……髪を下ろしたからといって、必ずしも籠り切りの方ばかりでもないようですから、どうか気軽にお考えになって、時々は京に逢いに来てくださいね」
とやさしく言い聞かせた。故大君が愛用していた調度類などは全部この尼に残し、
「これほど亡き姉君を思って悲しんでくださるのを見ると、前世もきっと特別な御縁があったのでしょうね。離れるのは悲しいわ」
とまで言うので、尼はいよいよ母を恋しがる子のように泣き咽ぶ。気持ちを抑えるすべは何もなかった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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