総角 六
九月も十日を過ぎ、野山の景色も秋めいてきた。時雨がちな暗い空に叢雲がおどろおどろしく湧き出る夕暮れ、匂宮はそわそわと落ち着きがない。どうしようかと迷いに迷っているようだ。
そろそろ頃合いとみて参上してきた薫が、
「『ふるの山里』は如何でしょうか?」
※初時雨ふるの山里いかならむ住む人さへや袖の濡るらむ(新千載集冬-五九九 読人しらず)
と誘いかけた。
「薫!待ってたよ、行こう!」
匂宮と薫、一つ車に乗り込んで宇治へと出立した。
山奥に分け入る間も宮は、
「京にいる私がこんなに辛いんだから、ましてあの寂しい山荘でどんな思いでいることか……早く逢いたいよ」
そればかり繰り返している。
ただでさえ黄昏時で心細い頃、雨は冷ややかに降り注ぎ、荒涼とした晩秋の景色が広がる。湿気を含んでいっそう香しく匂いわたる二人は、此の世のものとも思えない優艶な一対であった。賤しい山がつどももどれほど心を騒がせたことだろう。
訪れのないことを日々文句ばかり言っていた女房達も、この一行が到着するや俄然いそいそと御座所の準備を始めた。この結婚を機に各々の娘や姪などの縁者が京から二、三人呼び寄せられていたが、まさか本当に兵部卿宮が現れるとは思っていなかったのだろう。みな大変な驚きようであった。
大君も、この雨の中よくぞいらして下さったと歓迎したが、当たり前のように連れ立ってきた薫を見て、
(一緒にいらしたのね……何だか気恥ずかしいし、面倒な事。でも……華やかで押しの強そうな宮と比べると、随分と穏やかで控えめでいらっしゃる。やはり滅多にはいない殿方なのだわ)
と改めて見直したりもしたのだった。
匂宮はもう完全に婿として迎えられ、山奥なりに精一杯丁重にもてなされていたが、薫の方は此方側とされて気安く扱われた。その割に決まった居場所もなく、臨時の客間に遠ざけられるという体たらくである。
大君もさすがにこれはあんまりだろうと、物越しの対面を許した。
「戯れ言もいえないくらいですよ。こんな有様では」
※ありぬやと心みがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧-一〇二五 読人しらず)
薫はさっそく恨み事をつらつら述べる。大君の方はやっと世の道理というものを理解してはきたものの、中君の身の上について無暗に悲観しており、結婚生活を嫌なものとばかり思い込んでいた。
(やはりわたくしは、何としても絆されないようにしよう。今は愛しいと仰るそのお気持ちも、結婚してしまえばきっと辛いことも起こる。わたくしも相手もお互いに幻滅することなく、最後まで変わらない気持ちでいたい)
ますます頑なに殻に閉じこもる。
匂宮についての話になり、その流れで中君が嘆いていた様子もそれとなくほのめかされたが、薫にしてみれば予想通りである。
「まことにおいたわしいことに存じます。ですが宮も思いは同じのようでしたよ。私が常々観察しておりましたところ、相当中君へのお心は深いようです」
大君はいつもより素直に受け答えをしたものの、
「すこし疲れました……考えることが多すぎて、もうすこし心が落ち着きましたらまたお話いたしましょう」
と対面を終わらせようとした。不快になるほどの冷淡な態度ではないにしろ、障子はピッタリと閉められて錠もさしてある。
(無理やりに突破するのは乱暴狼藉とみなす)
と言っているようなものである。
(大君には大君のお考えようというものがあるのだろう。軽々しく他の男に靡くような人ではないし)
薫は今回もおおように、物わかりのよい男を演じて心を鎮めながらも、
「ただ……こんな風に隔てを置かれては何とも心許なく、とうてい満足できません。あの時のようにもっと近くで話したい」
と訴えた。大君は、
「この頃のわたくしは姿をお見せするのが恥ずかしくて……ご覧になられてもし不快なお気持ちになられたらと思うと辛いのです、どうしたことか」
かすかに笑う。その気配に不思議なほど心惹かれた薫は、
「貴女のそんな気まぐれに翻弄されて、私はいったいどうなってしまうのでしょうね?」
溜息をつきつつ、またも山鳥の夫婦のように別々の臥所で夜を明かした。
匂宮は、まさか薫がこんな寂しい独り寝とは思いも寄らず、
「薫はいいなあ。ここの主人としてのんびり過ごせてさ。羨ましいよ」
と呟く。中君は、
(え……姉君と薫さまはご夫婦というわけではないのに)
と思ったが黙っていた。
無理を通して宇治行を敢行した宮はまだ暗いうちに帰らねばならない。とうてい飽き足らない顔をしていたが、中君の方も
「次はいつになることか……物笑いの種になりはしないか」
と涙ぐんでいる。
(やはり結婚は心労が多く苦しいばかりなんだわ)
大君がこう思ってしまうのも致し方なかった。
京で隠れ家になりそうな場所もない。六条院は一画に夕霧左大臣の部屋がある。何とか愛娘・六の君と娶わせようとするも靡かない宮を恨めしく思っているところに、まさか住まわせるわけにもいかないだろう。夕霧は宮の不行跡を手厳しく非難し、内裏辺りにも愁訴しているらしい。何より中君は、訳ありで遠ざけられた故八の宮の娘である。何かと憚られることも多かった。
普通の恋人ならば、いっそどこかで宮仕えでもさせてしまえばよい。だが中君はそういった類の相手ではない。他の男の目には触れさせたくないのだ。
「もし御代が変わり、帝や后のご意向通り私が春宮にでもなれば、きっと人より高い地位に据える!」
とまで考える程、現在のところ中君しか目に入らない!という宮だったが、どうにも思うようにはいかなかった。
一方薫は、再建中の三条宮が完成した暁には
「大君を正式にお迎えしよう」
という心づもりでいた。
その辺り臣下は気楽なものだ。
宮としては心底から愛して幸せにしたいという思いがあるのに、こそこそと通わねばならず、お互いに悩みは深まるばかりである。
(あまりにも気の毒だな……よし、人目を忍んで通っている事情を明石中宮のお耳にも入れよう。暫く何かと騒がれるのはおいたわしいが、中君の御ためを思えば大した咎めでもない。あんな風に、夜を明かすこともできずに帰らねばならぬ苦しさは如何ばかりか……何とかうまく執り成して差し上げたいものだ)
そう考えた薫は、むやみに隠すことはやめた。
(十月になれば冬の衣更えがあるが、宇治の山荘にテキパキと手配できるような者は……いないだろうな)
機転を利かせて、帳の帷や壁代など、三条宮への移転準備として揃えていたものを流用することにした。母の入道宮には、
「差し当たって入り用ですので」
と内々に了承を得た上で、まとめて宇治へと贈った。さまざまな女房の装束は乳母にも相談して、堂々と作らせた。
参考HP「源氏物語の世界」他
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