おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

総角 七

2021年11月19日  2022年6月9日 


 十月一日。

 宇治の網代川も紅葉が観頃だろうと、薫は匂宮を誘った。側近の官人たちや特に親しい殿上人に限った「ごく内々のお忍び」という心づもりだったが、そこは何かと世間の注目を浴びがちな宮である。自然に話が広まって、夕霧左大臣の子息・宰相中将――『竹河』で出て来た蔵人少将――も参加することになった。それ以外の上達部はただ薫一人のみ、残りは並程度の殿上人である。

 薫は宇治の山荘にも根回しを忘れない。

「間違いなくこちらにもお立ち寄りになられましょうからそのつもりで。昨春の初瀬参りのお供で花見に来た面々が、この機会にと時雨に紛れて不意に現れるやもしれません。くれぐれもご注意を」

 御簾をかけ替え、あちこちを掃除して、岩蔭に積もった紅葉の朽葉を少し取り除き、遣水の水草を払わせる。季節の果物や肴、接待に必要な人材の手配もする。最初から一行を受け入れること前提の、至れり尽くせりの準備であった。
 大君は、
「薫さまに全部お膳立てしていただいて申し訳ないけれど……だからといってどうしようもない。これも前世からの宿縁と考えよう」
 と自らに言い聞かせ、迎える心づもりをした。
 川を上ったり下ったりしている舟から雅な楽の音が流れ出す。山荘からもちらほらその様子が窺えるので、若い女房達がこぞって見物に出ている。
 匂宮の姿までは見分けられないが、紅葉を葺いた舟の飾りは錦と見まがう美しさ、それぞれに吹き立てる笛の音は風に乗り川面に響き渡る。
 今をときめく匂兵部卿宮よと世間が持て囃しかしずくさまは、このような非公式の旅先でもなお別格であった。
 姫君たちも、
「やはり雲の上のお方……七夕なみの逢瀬でも、これほどに光り輝く彦星ならばお待ち申し上げる甲斐もあるのでしょう」
 と感嘆する。
 漢詩文を作らせるため連れて来た文章博士たちの顔も見える。黄昏時に舟を山荘の対岸に集めて楽を演奏し、時節に合った題に沿って詩文を作り朗誦しあう。濃い薄いをとりまぜた紅葉の枝をかざし、「海仙楽」という曲を吹き、皆それぞれに秋の日を満喫している様子だった。
 だが宮は「近江の海」の心地――淡水の湖は海松布(みるめ)が生えない、つまり逢えない辛さ――で、中君の嘆きは如何ばかりかと、心は向こう岸に飛んでいる。
いかなれば近江の海のかかりてふ人を見る目の絶えて生ひねば(奥入所引-出典未詳)
 山荘訪問は宴がひととおり引けた後に、と薫は考えており、宮にもそう説明してあった。ところが―――宰相中将の兄・左衛門督が大勢の随身を引き連れて忽然と現れた。上達部としての正式な作法に則った体の左衛門督は、
「親王という御身分の方の外出というものは、いかにお隠しになろうとも知らず知らず顕になるもので、後々の事例にもなることでございます。なのに重い身分のお供を殆どつけないまま突然お出かけになられたと―――ご心配あそばされた中宮より、私が派遣された次第です」
 恭しくこう述べた。
 ごく内々でのこじんまりとした宴は、一気に増えた殿上人たちにより全く別のものに成り変わった。匂宮も薫も、
(やられた)
 とげんなりして興も冷めてしまった。集まった者たちは二人の心も知らず、誰も彼も酔い乱れ遊び明かした。

 朝になり、今日こそはこのまま山荘にと思っていた矢先、中宮大夫を筆頭にこれまた大勢の殿上人たちが宮を迎えに現れた。気ぜわしいやら悔しいやらでとても帰る気にはなれないが、もうどうしようもない。宮は急ぎ山荘に文を送った。
 風流めかしてではなく、いたって真面目に今の状況と思いを細々と書き連ねたが、
「こんなに人目も多く騒がしい中では……」
 と気が引けたのだろう、中君からの返事はない。
(数ならぬ身のわたくしが、匂宮のような立派なお方とお付き合いすること自体、無理があったのだわ)
(遠く離れて過す月日はもちろん不安はあるけれども、きっといつかはいらっしゃるだろう、という希望を持つことも出来る。でも……目と鼻の先であれほど華やかに楽しんでおられて、挙句何もなしで帰られてしまうなんて却って辛い。悲しすぎる……)
 思い乱れるばかりの中君である。 

 宮はまして憂鬱な面持ちで、やるせない心を持て余している。

 網代川の氷魚も宮に心を寄せたか大漁で、色とりどりの紅葉を散り敷いた籠にのせて献上され、皆が舌鼓を打った。実際、上から下まで誰もが満足いく紅葉狩りの旅だったが、主役であるはずの宮は胸が塞がるばかりでぼんやり虚空を眺めている。その目の先には故八の宮の山荘――木立ちがことに美しく、常盤木に這いまわる蔦の色にも何ともいえない深みがあり、遠目にも物寂びた雰囲気を醸し出している。

 薫も、

「彼方に予め準備をお願いしたのが仇になってしまった。何ともお可哀想なことをしたものだ」

 と苦い思いを噛みしめる。

 去年の春に供をした公達は当時の花の色を思い出し、父宮に先立たれた姫君たちはどんなに心細かろうと言い合っている。匂宮が宇治に通っていることは極秘だが、どこから漏れたものか既に承知している者もいるようだ。とはいえ事情を露知らずとも、山奥でひっそり暮らす姫君の噂ばかりは大方の耳に届いているのだろう、

「えらくお綺麗な姫君というじゃないか」「筝のお琴が上手だとか。八の宮が明け暮れ手ほどきをされたそうだよ」

 などとしたり顔で話をしている。

 宰相中将は、

「いつぞやも花の盛りに一目見ました

木のもとまでも秋はお寂しいことでしょう」

 主人方と見たのか薫に詠みかけてきた。薫は、

「桜こそはよく知っているでしょう

咲き匂う花も紅葉も無常である世を」

 と返した。

 左衛門督、

「どこから秋は去っていくのだろう

山里の紅葉の蔭は立ち去りにくいのに」

 一番の年長者の中宮大夫は、

「お目にかかった方も亡くなられた山里の岩垣に

気長に這いまわる葛よ」

 と詠むや泣き出した。故八の宮の若い頃など思い出したのだろう。

 匂宮は貰い泣きのふりで、

「秋が終わりますます寂しくなる木のもとを

 あまり激しく吹かないでくれ、峰の松風よ」

 今にもこぼれ落ちんばかりに涙を浮かべつつ詠んだ。事情を知る人は皆、

(本当に深くお心をかけておいでなのだな。今日の機会を逃してしまわれて、何ともおいたわしいことよ)

 と同情したものの、あの山荘に仰々しい行列をつくって押しかけるわけにもいかない。

 作った漢詩文の出来がいい箇所を誦じたり、和歌もやたらと詠まれたりしたが、酔い紛れの中さきほどの歌以上のものが作れるわけもない。片端なりとも書き留めるほどでもないので省略する。

 

 さて山荘では、匂宮の一行が通り過ぎていく気配を見守るしかない。遠ざかる前駆の声に心を騒がせ、待ち構えていた女房達はなんと残念な、とがっくり肩を落とす。まして大君の失望は大きかった。

(やはり音に聞く月草の色のような移り気なお心なのね。女房達の話を漏れ聞くに、男というものはよく嘘をつくものらしい。愛してもいない女に言葉を尽くして愛を語るものだと、物の数でもない女たちの昔話だけれど……低い階層ではそういったけしからぬ心持ちの殿方も混じっているのだろう)

いで人は言のみぞよき月草の移し心は色ことにして(古今集恋四、七一一、読人しらず)

(何であれ高貴な身分ともなれば、誰も彼も批評することすら憚って、手前勝手な振舞いもしないものと思っていたけれど、そうとは限らなかった。恋多き宮だと故父宮もご存知で、ここまで近しい関係になろうとまでは思っておられなかったものを。不思議なほど熱心に求婚なさって、ついには妹の婿君となられ……わたくし自身の身の上にも新たな憂いが加わることにもなるとは、何としたことかしら)

(結婚した途端にこんな仕打ちをなさる宮のお心、薫さまはどうお考えなのかしら。此方には大した身分の女房などいないけれど、それでも各々思う所はあるはず……こんな物笑いの種になってしまって、なんとみじめなこと……)

 心痛のあまり気分も悪くなり、調子を崩してしまった。

 中君本人は、たまさかの逢瀬でも宮本人からこの上なく深い愛を語られ固く約束も交わしていたので、姉ほど悲観的には捉えていない。

(あれほど仰っておられたのだもの、すっかりお心が変わってしまうなどありえない。此方にいらっしゃらないのもきっとどうにもならない事情がおありなのでしょう)

 ただ、近くまで来ていながら素通りされたのは堪えたのだろう、目に見えて落ち込んでいた。

 大君は、

(可哀想に……とても見ていられないわ。世間並の姫君としてひとかどの貴族らしい暮らしをしていたなら、こんな杜撰な扱いはされなかったでしょうに)

 我が事のように胸を痛める。

(わたくしも生き永らえていれば、妹と同じような目に遭うこともあるのでしょう。薫さまがあれこれと言ってこられるのも、わたくしに探りを入れておられるということ……わたくし自身がいくら遠ざけようとしたところで、言い逃れるにも限度がある。ここにいる女房たちは性懲りもなく、何とか薫さまと結婚させようとばかり思っているようだし、結局はそうなってしまうのかもしれない。これこそが、お父さまが生前何度も繰り返し仰っておられた、用心して過ごしなさいということだったのね……あのご遺言は、こんなこともあろうかという御忠告だったのだ)

(わたくしたち姉妹は不幸な運命を背負っている身の上で、だからこそ頼るべき親に相次いで先立たれてしまった。今は二人ともに世間の噂の種にされる体たらくで、亡きお父様もお母様も草葉の蔭できっと嘆いておられる。情けないこと。わたくしだけでも男女関係の物思いに沈むことなく、罪業も深まらないうちに世を去りたいものよ) 

 くよくよと悩むうち、本当に具合が悪くなって食も細り、ただ自分が亡くなった後のことを明け暮れ考え続ける。言いようのない不安にかられ、中君を見ても哀れでならず、

(わたくしにまで先立たれたらいったい誰を頼りに生きていかれるのか……若く美しいこの妹を夜も昼も眺めて、どうにか一人前にして差し上げたいと思いお世話してきた。誰も知らぬ、わたくし自身の生きがいとして。匂宮のような勿体ないお方と縁づいても、こんな……人に嗤われるような目に遭った子が世間に出て人交わりをし、普通に暮らしていけるのだろうか。前例もなく辛いことでしょうね。考えれば考える程、此の世にはすこしも慰められることなく終わってしまいそう……わたくしたち姉妹というのは)

 心細さが募るばかりであった。

 匂宮は帰京後すぐにまた宇治に取って返すつもりでいたが、あの左衛門督が、

「かくかくしかじかの忍び事があるものだから、山里へのお出かけも簡単にお考えになるのです。軽々しいお振舞いだと世間も陰口を叩いております」

 などとほのめかしたため、内裏は騒然となった。父帝からは、

「もう勝手は許さない。そもそも気まま放題に里住みをしているのが悪いのだ」

 と厳しい言葉も出て、宮は内裏に常住する沙汰となった。今までのらりくらりと逃げていた夕霧左大臣の六の君との縁組も、もはや本決まりとなり強制的に進められる。

 薫はこれを聞いて困惑した。

(私があまりにも変わり者過ぎた?それともこういう運命だったのか……亡き八の宮が将来を憂えておられたお姿、今でもまざまざと思い浮かぶ。あんなにお美しく気立ても良い姫君たちが、何の栄えもないまま朽ちていかれるのは惜しいと思うあまり、何とか人並の幸せをと我ながら不思議なほど心を砕いた。宮も躍起になって取り持てと責めるし、大君は私の気持ちを知りながら中君と結婚させようとするしで、待て待て、まずは宮と中君をと動いた結果がこれか……考えてみれば悔しいな。どちらも私の妻にしたところで誰にも咎められなかったろうに)

 今更取り返しのつくことではない。ただ愚かしいばかりの悔恨を、一人胸の内で反芻する薫であった。

 宮は寝ても覚めても中君のことで頭がいっぱいで、恋しいやら心苦しいやらで悩みに悩んでいる。

 母の明石中宮は、

「それほどお心に適う方ならば此方に呼び寄せて宮仕えさせるなりして、夜歩きなどせず穏やかにおさめなさい。将来は春宮になろうという貴方なのに、軽々しいようなお噂を立てられるのはまことに残念です」

 一日懇々と諭すが、中君を召人扱いにせよといわれて承服するはずもない。

 時雨がはげしく降って何もない暇な日に、匂宮は姉の女一の宮のところに参上した。御前には女房の数も少なく、静かに絵などを見ている。

 姉弟は几帳だけを隔てとして直に話をした。この上なく上品で気高い一方、たおやかで愛らしいこの姉宮を、長年二人といない女性と称えてきた宮である。

(これほどのレベルの女子、他にいる?冷泉院の姫宮くらいかな……ご寵愛の深さや内々の評判も奥ゆかしいこと極まりないらしいけど、彼方は特に口にも出さずただ思ってただけだもんね。いやいや、宇治の中君だって、とにかく可愛らしくて品のいいところは決して見劣りしない!)

 やはり思い出して中君が恋しくてたまらなくなった宮、気慰みにと散らばった絵を眺めてみると、いわゆる「女絵」、恋物語を題材にした絵で中々見応えがある。恋する男の住まい、山里の風情ある家など、さまざまな恋する男女の姿が描かれており、身につまされることも多く目が離せなくなった。

(すこし貰って、宇治に送ってやろうか)

 とも思う。

 在五中将(在原業平)の伊勢物語で、妹に琴を教えながら「人の結ばん」と詠みかける場面を見た匂宮は、何を思ったか几帳ににじり寄って、

※うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ(伊勢物語-九〇)

「昔の人は、きょうだいならばこうして隔てもなく暮らしたようだね。姉君はちょっと余所余所し過ぎじゃない?」

 と囁いた。姉宮が、

「え、どの絵のこと?」

 と首を傾げたので、絵を巻き寄せて几帳の向こうへと差し入れた。うつ伏せて眺める姉宮の髪がうねうねと流れてほんの少し此方側に零れ出たが、これが素晴らしく艶やかで、宮はすっかり目を奪われてしまった。

(ああ……この人が少しでも血の遠い人であったら)

 胸のざわめきに堪えきれず、歌を詠んだ。

「若草のように美しい貴女と共寝しようとは思いませんが

モヤモヤ悩ましい気持ちにはなりますね」

 お付きの女房達は、匂宮と顔を合わせるのを恥ずかしがって物陰に隠れているので誰も聞いていない。

「まあ、事もあろうになにを……!」

 姉宮は呆れて絶句した。匂宮は、

(しまった、いくらなんでも下品だったか)

 と反省しつつも、ふと絵の中の妹姫のセリフが目に入った。

「考えもなくものを仰る」

※初草のなど珍しき言の葉ぞうらなく人を思ひけるかな(伊勢物語-九一)

「なんだ、この子にまで叱られちゃったよ」

「なんですか、冗談ばかり」

 しまいには姉弟ともに吹き出す始末であった。  

 紫上が義祖母としてこの姉弟を手元に置き慈しんだので、大勢のきょうだいの中ではことに仲も良く気の置けない二人である。

 女一の宮は母中宮の寵愛も深く、伺候する女房達もハイレベル揃い、少しでも難のあるものは隅に追いやられる。高貴な家の息女も多く仕えていた。

 名だたる色好みの匂宮は此方の新参の女房にチョッカイをかけつつも、中君を片時も忘れることはなかった。

 こうして宇治に行こうにも行けないままに数日が過ぎ去った。

<総角 八 につづく

参考HP「源氏物語の世界」他

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