総角 八
宇治では匂宮の訪れを日々待ち構えていたが、ただむなしく月日ばかりが過ぎていく。
「やはりこのまま終わってしまうのだろうか……」
と皆が心細く過ごすうち薫が見舞いにやって来た。
大君はさほど重く患っているわけでもなかったが、病を理由に対面を断った。
「ご病気と聞きびっくりしてはるばる参上いたしましたのに。是非お近くに」
このままでは帰れないと切に訴える薫に女房達は抗しきれず、病床の御簾の前まで案内した。
大君は、
「何と見苦しいことを」
と苦々しく思ったもののわざわざ来てくれた薫を邪険にも出来ない。頭をもたげながら言葉を返す。
薫は、匂宮が心ならずも山荘を素通りしたことの言い訳をして、
「どうかご安心ください。焦れてお恨みになるようなことのなきよう」
と諭したが、大君は
「此方には特にご説明はありませんでしたわ。これこそが亡き父宮のお諫めになっておられた事態かと合点が行きました。妹が可哀想でなりません」
と泣いている様子である。薫は胸を突かれ、我が事のように恥ずかしい気持ちがして、
「夫婦仲は誰であれ一筋縄ではいかないものと申します。まして何もご存知ないお二方にはむやみに恨めしく思われることもありましょうが、どうか気長に構えてください。まったくご心配には及ばないと存じます」
優しく宥めすかす一方で、
(他人の世話ばかり熱心にして、何をやっているんだろう私は)
心中は複雑だった。
大君の病状は夜に悪化するという。客が間近にいるのも姉妹ともに気を遣うだろうと、
「薫さま、やはりあちらへ……いつもの客間にどうぞ」
女房達がすすめたが、薫は聞かない。
「取るものもとりあえず駆けつけたというのに、追い出されて放置ではたまらない。こんな非常時に何をどうするか、私の他に誰ができるというんだ。――弁の君をこれへ。御修法を始めさせよう」
山寺から阿闍梨も呼び寄せる運びとなった。
(困ったこと……もう捨ててしまいたいほどの我が身だというのに)
心苦しく思う大君だが、薫の厚意をすげなく斬り捨てるのもあまりに不躾ではある。何より、長く生き永らえてくれとの願いはありがたく心に沁みた。
一通りの手配を終えた薫は客間に移り眠った。
翌朝、目覚めた薫は女房伝いに大君に問うた。
「御気分は良くなりましたか?昨日と同じようにお話できればと存じますが如何でしょう」
大君からは、
「ここ数日体調の悪さが続いておりまして、今朝はだいぶ苦しいようですが……どうぞ、此方へ」
と意外な返答が来た。薫は、
(自分から此方へ、だって?そんなに悪いのか)
と驚いた。慌てて来てみれば、以前よりずっと対応が柔らかい。胸騒ぎを覚えつつ近寄ってあれこれ話しかけるも、
「苦しくて……お返事ができません。すこし、収まりましてから」
と蚊の鳴くような弱弱しい声である。あまりに痛々しい様子に不安が募り、どうにも離れがたくなった薫だが、いつまでもこの場に留まるわけにもいかない。後ろ髪を引かれながらも一旦京に帰ることにした。
「ご病気の時にこんな山奥では、尚更不便で仕方がない。転地療養にかこつけてもっと近い場所へお移ししようと思う」
周りにはそう言い置き、阿闍梨にも心して祈祷するように言い含めた上で出立した。
ところが、薫の与り知らないところから思わぬ事態が発生した。
薫の供人に、此方の若い女房と恋仲になった者がいる。その供人が恋人にした「ここだけの話」―――
「匂宮さまは今お忍び歩きを禁止されて、内裏の中だけに籠っておられるんだけど、どうも左大臣の娘御と……って話があるらしい。向こうは長年望んでおられたものだから渡りに舟で、年内にもって感じ?でも宮さまは全っ然乗り気じゃないんだよね。内裏周りで当てつけみたいに恋愛沙汰起こして、帝や后のお諫めもどこ吹く風だってさ。それに引きかえ我が殿の薫さまは、滅多にいない真面目なお方すぎて敬遠されがちなんだよね。その薫さまが此方にはこんなに熱心に通われて……いやー愛だね!眩しいね!これは本物だよってみんな言ってるよ」
これがいつの間にか、
「こうなんですってよ」
と女房たちの中で話が広まり、大君の耳にまで届いてしまった。
(匂宮が左大臣の姫と結婚ですって……?何てこと、もうお終いだわ……やんごとなきご身分の方に縁付くまでのひと時の気まぐれに、ここまで思い入れてしまって……さすがに薫さまへの遠慮はあるのでしょう、宮の言葉ばかりは随分と深いけれども)
進退窮まった心地がして、匂宮の辛い立場など思いやるべくもない。これからどうすればよいのかもわからず、大君はすっかり萎れてしまった。
気力が萎え、生き永らえようという思いも消えた。女房たちは皆さほどの身分でもないが、何を言われているかと思うと苦しくてたまらない。聞かなかったことにして寝た振りをした。
幸い隣にいる中君は何も知らず、「もの思う時の振舞い」と言われるうたた寝中であった。その姿は愛らしいことこの上なく、枕にした腕に髪が艶々と溜まっている様子も素晴らしく美しい。見惚れながら、亡き八の宮の遺言も返す返す思い出されて、
※たらちねの親のいさめしうたた寝は物思ふときのわざにぞありける(拾遺集恋四、八九七、読人しらず)
(お父さまは……罪が深いという地獄にはよもや沈んでいらっしゃるまい。どんなところでもいい、いらっしゃる所にわたくしをお迎えくださいませ。これほどまでに思い惑うわたくしたちを打ち棄てて、夢にさえ現れていただけないなんて)
悲嘆にくれるばかりの大君だった。
夕暮れの空模様は暗く、時ならぬ雨が降り、木の下を吹き払う風はたとえようもない音を立てている。過去のこと、将来のこと、あれこれと思いを巡らす病床の大君はどこまでも気高い姿であった。
白い衣に、このところ梳くこともない長い髪がからむことなく綺麗に流れおちる。病みついた数日で少し青みがかった窶れ顔はかえって優美さが増し、もの思わし気なまなざし、額つきの加減、ものの分かる人に見せたいほどである。
中君は荒々しい風音に目を覚まし起き上がった。山吹襲に薄紫の袿という華やかな色合いの装いに加え、顔はまるで染めたように上気し花のように艶やかで、悩み事など無縁に見えた。
「お姉さま、わたくし夢で亡き父宮を見ましたの。とても心配そうなお顔で、ちょうどこの辺りにおいでになられましたわ」
と言うので、大君はますます悲しくなった。
「亡くなられてからずっと、何とか夢にでもお会いしたいと思っていたのに、わたくしの方には全然ですのよ……」
姉妹二人して泣きに泣いた。
「この頃はしょっちゅう思い出しているから、少しはお姿をお見せくださるかしら。どうにかしてお父さまのもとに尋ね参りたい。罪業が深いといわれる女のわたくしたちですもの」
大君は彼岸の世にまで思いを馳せ、唐国にあったという反魂香を本気で手に入れたいと願う。
すっかり暗くなった頃、匂宮から使者があった。悲嘆に沈んでいた折、いささかの慰めにはなったが、中君は手紙を開こうとしない。
大君は、
「拗ねたりしないで、素直に、大らかな気持ちでお返事なさい。わたくしがこのまま儚くなってしまったら、この宮以上に酷い扱いをする人が出て来るかもしれない……たまさかにでもこの宮が思い出してくださるなら、邪な心で近づく人もいないでしょう。辛くても頼りにしなくては」
と窘めたが、中君は、
「お姉さままでわたくしを置き去りにしようとお思いなの?酷いわ」
いよいよ顔を襟の中に埋める。
「寿命というものがありますからね。お父さまには片時も後れまいと思っていたけど、よくぞ生き延びてこられたわ。『明日知らぬ』世とはいえそれでも悲しいのも、『誰がため惜しき命』かお分かりでしょう?……さあ、お手紙を」
※明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ(古今集哀傷、八三八、紀貫之
※岩くぐる山井の水を結びあげて誰がため惜しき命とかは知る(伊勢集)
大君は灯りを持って来させて、匂宮からの文を見る。
いつものように細やかな書きぶりである。
「眺めているのは同じ空なのに
どうしてこうも会いたい気持ちを募らせる時雨なのか」
「袖を濡らした」云々といった常套句が連ねてあるのが大君にはかえって軽薄に見えて、なおさら恨めしい気持ちになった。が、同じ文でも中君の受けた印象はまた違う。
何しろ世にも稀なる容姿を持ちながらなお、どうやったら女受けするかを考え尽くし、絶妙に洒落のめしている宮である。若い女ならいっぺんに心を掴まれて当然なのだ。
(あれほど……何度もはっきりとお約束なさっていらしたのだから、このままで終わるなんて絶対にありえない)
恨めしさと恋しさとが行きつ戻りつする中君であった。
使者が返事を待ちながら
「今宵じゅうに帰京したい」
と言い張っており、女房達もうるさく促すので、中君はただ一言
「霰降る深山の里は朝夕に
眺める空もかき曇っております」
と書いて渡した。
折しも十月の三十一日。
「あの紅葉狩りからもうひと月も経ってしまったのか」
返事を受け取った匂宮は気が気ではない。
「きっと今宵は、今宵は」
と思いつつも邪魔の入ることが多い上に、五節などの行事が早い時期に催される年で、内裏周辺の浮き立った雰囲気に紛れ知らず知らずのうちに日が経ってしまった。宇治ではその間首を長くして待ち続けているというのに。
しかしいくら仮初めの恋をしたところで、宮の心から中君の存在が消え去ることはない。
さしもの母中宮も、
「そこまで愛しい方がいるのなら、まず左大臣家のようなしっかりとしたお家から正妻をお迎えになった上で、呼び寄せて重く扱えばよろしいのでは?」
と譲歩をみせたが、匂宮は
「もう暫くお待ちください、考えがありますので」
と引き延ばしを図った。
(中君を辛い目に遭わせたくない)
その一心で頑張っている。
宇治の姫君たちは知る由もなく、物思いは日々増すばかりである。
薫ですら、
(思ってたより軽いお気持ちなんじゃないの?いくら何でもさ……)
と疑いを持ちはじめ、殆ど宮のもとに寄りつかなくなってしまった。
薫自身は宇治の山荘に対し、常にこまめな連絡を怠らず、大君の容態を逐一確認していたが、
「月が変わりましてからはすこし良いようです」
との知らせにすこし気が緩んだ。ちょうど公私ともに多忙な頃合いだったこともあり、使者すら差し向けないまま五日が過ぎてしまった。
ふと胸騒ぎがして、いてもたってもいられなくなった薫は、やるべきことも途中で投げ棄てて宇治へと向かった。
「修法は全快するまで行うように」
と言い置いていたはずが、大君自身が「良くなったから」と阿闍梨を山に帰してしまったという。山荘はいっそうひっそりと寂れていた。
いつもの老女房・弁の君が応対に出て来た。
「どこが痛いということもなく、酷くお苦しみになるという感じでもないのですが、とにかく食事をお召し上がりになりませんの。もとより他人よりか弱くていらっしゃいます上に、匂宮さまと中君さまとのご結婚にまつわる色々でますます考え込んでいらして、ちょっとした果物すら見向きもされないことが続きましたせいか、めっきり弱ってしまわれて……もうご回復の見込みも薄いように見えます。私自身はまことに情けないほどの長生きをしたばかりに、こんな悲しい目に遭わねばならず……まずは何とか先に行かせて貰えないかと思う次第で……」
言い終わらないうちに泣きだしてしまうほど、大君の容態は深刻化していた。
「何ということだ……何故、すぐにも知らせてくれなかった?冷泉院でも内裏でも目が回りそうな忙しい頃合いだったから何日も連絡できなくて……ずいぶん心配していたのに」
薫はすぐに前回と同じ場所に入った。大君の枕上の間近で話しかけるも返事どころか、声すら聞こえない。
「これほど重くなられるまで、誰も彼も私に教えてくれなかったなんて……どんなに心配していたか……」
涙混じりに恨み言をいいながらも、あの阿闍梨をはじめ、効験ありと評判の僧をありったけ山荘に呼び寄せた。御修法、読経を翌日から始めさせようと、薫の家来たちも大勢参集して上から下まで立ち働く。山荘は、山奥の心細さもすっかり消えて一気に活気づいた。
日が暮れると、女房達が薫に
「いつもの客間で」
と移動を促した。湯漬けなどの食事を振る舞うためだが、薫は、
「いや、お傍で看病したい」
と言ってきかない。南廂の間は僧たちの席になっているので、東面の、病床にさらに近い場所に屏風を立てさせて入った。
中君は困ったことと思いつつも、周りは薫と大君を
「夫婦同然の仲」
と見做して余所余所しく隔てたりはしない。
初夜から始め、法華経を絶えず詠ませ続ける。声のよい僧ばかり総勢十二人、いかにも尊い雰囲気が漂う。
灯りは僧たちのいる南の間だけで内側は暗いままである。薫は几帳を引き上げて中に滑り入った。老女房たちが二、三人ほど伺候している。中君はさっと物蔭に隠れたが、大君は人少なな中心細げに臥している。
「どうしてお声だけでも聞かせてくださらないのですか?」
手を取って声をかけると、
「気持ちはあるのですが……物を言うのが苦しくてなりませんの。幾日もいらしてくださらなかったので、お目にかからないままこと切れてしまうのでは、と残念に思っておりました」
虫の息である。
「それほど私を待っておられたと……なのに今日まで来られなかったとは」
薫はたまりかねて声を上げて泣いた。大君の額髪に触れると熱を持っている。
「何の罪によるご病気なのか……人をこれほど嘆かせるからこうなったのですよ」
※水ごもりの神に問ひても聞きてしか恋ひつつ逢はぬ何の罪ぞと(古今六帖四-二〇二二)
耳に口を寄せて囁く薫に、大君は煩くも恥ずかしくもあり顔を覆ってしまった。薫は、この人をむざむざと死なせてしまったら……と思うと胸も張り裂けそうになる。
「何日も看病なさってお疲れも大変なことでしょう。せめて今宵だけでも心安くゆっくりお休みなさい。私が宿直人を勤めますので」
薫にこう言われた中君は気がかりではあったが
「何か理由がおありなのだろう」
と少し離れた場所に下がった。
顏は見えないがすぐ近くまで這い寄って来た薫に、身を縮める大君だが、
(薫さまとはそういった宿縁があったということかしら……この上なく穏やかで安定感のあるお心、もうお一方のあの匂宮さまとは比べ物にならない)
あらためてその美点に感じ入る。
(この世を去った後にまで、強情で思いやりのない女だったとは思われたくない)
すげなくあしらうようなことはもう出来なかった。
薫は一晩中、女房に指図して大君のために薬湯など持って来させたが、すこしも飲む様子がない。
(これは大変だ……どうしたらこの人のお命を留めることができようか)
薫はなす術もなく沈み込むばかりだった。
不断経を読む僧が夜明け前に交替した。その声がたいそう尊く響き渡る中、夜居のうちに居眠りしていた阿闍梨が目を覚まし陀羅尼を読み始める。老いてしわがれた声だが、そこは年の功で如何にも効験がありそうだ。
「どうですか、今宵のお加減は?」
読み終えた阿闍梨は薫に問うと、鼻をかみかみ、
「亡き八の宮は今どういう所においでなのでしょうね。きっと涼しい極楽にと想像しておりましたが、先ごろ夢にお見えになられまして――。
僧形ではなく在俗のままのお姿にて、
『世の中を深く厭うて離れていたので執着はないが、わずかに思い残したことで乱れが生じて、今しばらく念願の極楽浄土とは隔てられているように思う……何とも残念なことだ。追善供養を頼む』
とはっきり仰せになられました。すぐには供養申し上げる方法が思いつきませんので、私の出来る範囲で、修行中の法師たち五、六人にてなにがしかの念仏を唱えさせております。その他にも思いついたことがございまして、常不軽(じょうふきょう)の行いをさせております」
などと言うので、薫も痛ましさに涙が止まらなくなる。大君は、亡父の来世にまで障りとなった自分の罪業の大きさを、苦しい中にも消え入りたくなるほどに悲しんだ。
(どうにかして……父宮の彷徨っていらっしゃる同じ所に参りたい)
阿闍梨は多くを語らないまま立ち去った。この常不軽という行は、周辺の山里から京まで礼拝しつつ歩き回るものである。夜明け前の嵐に難渋しながら阿闍梨の勤行する場を尋ね、中門のたもとに座り恭しく額づく。回向の偈(げ)の末段あたりの文句は実に尊く、仏道に造詣の深い薫も感極まって咽び泣いた。
中君が大君を心配して、病床奥の几帳の後ろに近づいた。その気配に気がついた薫は、さっと居ずまいを正し、
「不軽(ふきょう)の声はお聞きになりましたか?内裏ではまず行わない祈祷ですが、実に尊いものでした」
と言って、
「霜が冷たく凍る汀の千鳥が堪えかねて
鳴く声も悲しい明け方です」
語りかけるように歌を詠んだ。
その声と姿はつれない恋人・匂宮を彷彿とさせ、何も言えなくなった中君は、弁の君を介して返歌をした。
「暁の霜を打ち払って鳴く千鳥は
もの思う人の心を知っているのでしょうか」
中君の代役としては似つかわしくないものの、品よく詠んだ。
(姉君の大君は、どんなちょっとしたことでもたいそう慎ましく、思いやり深く上手にとりなしてくださった。これでお別れともなれば私はどれほど悲しい思いをすることか……)
目の前が暗くなるような心地のする薫。
故八の宮が阿闍梨の夢に現れたことを思い合わせると、
(お二方の有様を、天翔けりながらいたわしくご覧になっているのか)
と胸も痛み、山寺にも更なる誦経を命じた。
あちこちに祈祷の使者を出し、公私において休暇の旨申し立て、神々への祭事や祓いまでも片っ端から行ったが、そもそも何かの罪業によって起こった病ではない。何の効果もみられなかった。
自分から平癒を願って仏に念じているならまだしも、
(ああ、もうこのまま世を去ってしまいたい……薫さまにこうして付き添われて、余命も少なくなったとはいえ、もう御縁を結ぶほかはない。今は並々ならぬ御愛情と見えても、そのうち思ったほどではなかったと落胆するようなことになるのは……薫さまとわたくし、どちらがそうなったにしろつらく情けない。もし辛うじて此の世に留まったなら、病にかこつけて髪を下ろしてしまおう。それでこそ末永く同じ心で過せるというもの)
などと独り決めしている。
(生きるにせよ死ぬにせよ、何とかして出家は遂げたい)
という決意はさすがに必死に奔走してくれている薫には言い出せず、中君に、
「いよいよ治る気がしなくなってきました。戒を受けると寿命が延びる効果があると聞きますから、そのように阿闍梨にお願いして」
と頼んだが、女房達は皆泣き騒いで、
「とんでもないことです。あれほどお心を痛めていらっしゃる薫中納言さまも、どんなにお嘆きになられることか」
誰ひとり賛同せず、頼みの薫にも伝えようとしない。大君は嘆きつつ口を閉じた。
薫が宇治の山荘に籠っていると人づてに聞いて、わざわざ見舞いに訪れる人々もいた。大君への心のこもった扱いを目の当たりにして、殿上人や親しい家司たちも各々さまざまな祈祷をさせて心を砕く。
(そういえば今日は豊明の節会だったな)
薫は遠く京に思いを馳せる。風が強く吹き、雪も降り散らされる荒れ模様だった。
(都ではこれほど天候の悪いことはあるまい)
自ら望んで来たとはいえ心細く、
(大君とは他人のまま終わってしまうのだろうか。これも宿縁なのか)
辛くても誰を恨むわけにもいかない。大君の優しく愛らしいもてなしを束の間でも取り戻して、
(思いのたけを語り合いたい)
と願い続けながら過ごす。その日は光が射さないまま暮れてしまった。
「かき曇ったまま日の光も見えない奥山で
心が暗くなるばかりの今日この頃だ」
山荘では、ただ薫の存在だけを頼りにしていた。姫君たちの私室近くで過すことも常態となっていたが、風が几帳を吹き上げるので中君はさらに奥まった場所へと引っ込んだ。老いさらばえた女房達も恥ずかしがって隠れている。
薫はさらに近くに寄って、
「具合は如何でしょう?心を尽くして祈祷差し上げた甲斐もなく、お声すら聞かなくなってしまいましたが、本当にやりきれない……私を後に残してしまわれたらどんなに……」
泣き泣き訴える。大君は意識も朦朧としつつも顔はしっかり隠していた。
「気分の良い時がありましたら……お話申し上げたいこともございますが……ただ消え入るようにばかりなってゆきますので……口惜しい限りにございます」
心底悲しく思っている風であったので、薫もいよいよ感情を抑えきれない。不吉だからと、不安な心の内は見せないよう取り繕っていたが、声を上げて泣いた。
(どれだけ酷い宿縁なんだよ……これほどお慕い申し上げていながら、つらくて苦しいことばかりのまま別れなくてはならないなんて。少しでも嫌な素振りが見えたなら、この思いを冷ますあてにもなろうか)
と見守るも、大君はなお愛しく、惜しく、ただただ美しかった。
腕もすっかり細くなって影のようにはかなげだが、肌の色艶は変わらず白く透き通るようだ。なよやかな白い衣の上にかけられた衾(ふとん)は押しやられて、まるで中に身のない雛人形を伏せたように見える。髪は豊かとはいえないが、無造作に打ち置かれて枕からこぼれ落ちた際が、壮絶なまでに美しい。
(ああ……いったいどうなってしまうのか)
これ以上どうにも生きていけそうにないと見えるのが惜しくてたまらない。
何か月も長く患って身づくろいもしていないはずの大君は、どんなに着飾った女よりも気高く心を持っていかれる。つくづくと眺めているうちに魂も抜け出てしまいそうだ。
参考HP「源氏物語の世界」他
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