総角 九
「いよいよ私を捨てていかれるなら、私も此の世に留まれる気がしない。定められた寿命にてもし生き永らえたなら、深い山に入ろうと思う。ただ気がかりなのは独り残される方ですね……」
世の中を殊更に厭い、離れろと勧める仏の類が、人をこれほど酷い目に遭わせるのか。
薫の目前で、草木が萎れるように命尽き果ててゆく大君―――。
引き留める術はなかった。
薫は地団太を踏まんばかりに取り乱し、人目も省みず悲嘆に震える。中君は、自分も連れて行ってくれと泣き叫ぶ。半狂乱のこの妹を、例によって賢しらぶった老女房たちが
「まことに不吉なこと、お離れください」
と無理やり引き離す。
薫もまた正気を失っていた。
まさか……本当に亡くなってしまったのか、夢なのではないか―――。
灯りの芯をかきたてて明るくし、つぶさに見てみたが、隠していた顔もただ寝ているかのように―――何も変わったところはなく、ひたすらに愛らしい。
「このまま……虫の抜け殻のようにずっと置いて見つめていたい……出来るものなら」
悲しみに身悶える。
臨終の作法を行うため女房達が大君の周りに集まった。亡き人の髪をかきやるたびにふわりと芳香が立つ。生きていた時そのままに広がる香り。
薫は仏に問いかける。
(世に二人といないこの人を、どうしたらただの女と思い切ることができようか。これが本当に世を捨て去るための道しるべなら、なぜこんなに……心をかきむしられるほどに美しい?もっと恐ろしくて醜い、悲しみも吹き飛ぶほどの様相を見せつけてくれ)
祈り続けたところで悲しみが鎮まるわけもない。
(ひと思いに煙と成してしまえ)
これ以上亡骸を目にすることが堪えられず、薫は葬儀の準備に没頭した。
空を歩くようにふらつきながら、荼毘に付される大君を見送る薫。小さな亡骸は最後まで儚げに、煙すら多くは立たなかった。
(なんとあっけないことだ)
薫は茫然と山荘に戻った。
忌籠りの人波で心細さはすこし紛れたが、中君は姉に先立たれた悲しみに加え周囲の人の目や思惑に堪えられず、自らも死んだように臥せっている。
匂宮からも弔問が引きも切らない。それほど真剣な恋であり、決して中君を疎かに考えてはいないということを、大君は最期まで理解しなかった。此方も何とも辛い宿縁である。
薫はもう此の世がほとほと嫌になり、この機会に出家の本意を遂げようかという気も起こすが、三条宮の母君を思うと躊躇われ、独り取り残された中君も見捨てられない。
(大君が生前仰っていたように、中君を形見として結婚しておけばよかった。本音としては、血を分けた姉妹とはいえ心が移る気はしなかったけど……こんなに打ちひしがれておられる様子を見ちゃうとね……いっそ深い仲になっていれば、尽きせぬ悲しみを夫として慰めるという道もあったのに)
詮無い思いに心騒がせる薫であった。
京には少しも帰ることなく、人にも会わず、誰も慰めようがないまま宇治の山荘に籠りきりの薫を、世の人々も
「それほどまでに深く愛しておられたのか」
と知って、内裏をはじめ各所から弔問や見舞いの品々が贈られた。
とりとめもなく月日だけが過ぎてゆく。七日毎の法要も入念に行い心を込めて供養するが、夫ではない薫は喪服を着るわけにもいかない。亡き大君を特に慕っていた女房達が黒染めの衣裳に着替えているのを目にした薫は、歌を詠んだ。
「紅色に落ちる涙もどうにもならない
形見の色すら染められないのだから」
ゆるし色(薄紅色)の直衣は涙で凍りつき解けそうにもない。涙を止める間もなくぼんやりと座り込む薫の姿は、どこまでも優美に清らかであった。女房達は覗き見しつつ、
「亡くなってしまったお方のことはさて置き、あの殿が此方にいらっしゃることが普通になってしまったから、忌明けには他人になってしまわれるのが惜しいし残念なことね」
「思いも寄らない宿縁でいらしたのね。これほどまでに深いお心のほどを姉妹どちらも拒まれたとは」
などと言い合って泣いた。
中君には、
「故大君の御形見として、今は何でも申し上げ、また承ろうと存じます。他人行儀に隔てを置かれませぬよう」
と話したものの、
(何もかも嫌。誰とも話したくないし聞きたくない)
という状態で、まだまだ対面して話をする段階ではない。
(中君は顔立ちがはっきりした美女だけど、姉君より子供っぽい感じがする。亡き大君はもっと毅然としていらっしゃる一方で、親しみやすく潤いあるお人柄が勝っていた)
何かにつけ姉妹を比較してしまう薫だった。
雪が降りしきる中、終日物思いに沈んで過す薫。世の人が殺風景だという師走の月夜、曇りなく差し出た月を簾を巻き上げて眺めるうち、向かいの寺の鐘が鳴る。今日も暮れたかと枕をそばだてその微かな音の響きを聞き、歌を詠んだ。
「後れまいと空をゆく月を慕うか
いつまでも住んではいられない此の世だから」
烈しい風の勢いに蔀を下ろさせた。四方の山が鏡のように映る汀の氷が、月光に照らされて実に美しい。
(京の家をどれほど磨き立てても、こんな風にはなるまい……大君が束の間でも生き返ってくれたなら、一緒にこの風景をみて語り合えただろうに)
何を見ても聞いても、亡き人に繋がって胸が悲しみで溢れそうになる。
「恋に身を焦がして死ぬ薬がほしい
雪の山に入って足跡も残さずに消えたい」
(求道のため死に赴く雪山童子に半偈を教えた鬼がここにいたら……私も唱えて川に身を投げたい)
求道ならぬ恋のために死ぬとは、未練がましい道心である。
女房達を間近に呼び寄せて話をさせる薫の佇まいは、まさに完璧と映った。穏やかで情愛深い薫を、特に若手の女房達は素晴らしい方!といっぺんに好きになる。年寄りたちは、ただただ大君の早世が悔やまれてならない。弁の君がつらつらと語り出した。
「故大君のご病気が重くなりましたのも、ただあの匂宮のこと……思いがけず縁づいて、世の物笑いにもなろうといたくご心痛であったことからでしょう。中君にはその胸の内を知られまいと、ただお一人で夫婦仲を嘆いていらっしゃるうち、ちょっとした果物すらお口になさらなくなり徐々に弱っていかれたのです。表向きには、大袈裟に心配している風には見せられなかったのですが、本心では万事を非常に気にかけておられたのでしょう、故宮の戒めまで違えてしまったと、妹君のことながら悩み抜かれておいででした」
亡き人がこういう時に何を仰った、などという思い出話もぽつりぽつり出て、誰も彼も涙の止まる暇もない。
(私のせいだ。匂宮をお連れしたばかりに、しなくていい心配をさせてしまった)
悔やむにも悔やみきれず、何もかもが辛くてたまらなくなった薫は、念誦に集中してまどろむこともなく夜を過す。
まだ明けるには早い、雪も冷え切って寒々とした頃。
遠くでガヤガヤと人声がする。と、馬のいななき、蹄の音が近づいて来た。
「何者か、こんな夜中に。雪も深いというのに」
大徳たちも驚くうち、山荘の門を誰かが入って来た。
狩衣に身をやつして濡れ鼠の、匂宮その人である。
忌明けまでにはまだ日数があったが、辛抱たまらず思い余った宮が夜通し馬を駆り、雪に難儀しながら辿り着いたのだった。
戸を叩くその様子で察した家来から知らされて、薫は奥まった部屋に隠れた。
中君にしてみれば、これまでの恨みも忘れてしまいそうなサプライズだったが、今はとても対面する気にはなれない。宮とのことで大君を嘆かせたのも恥ずかしく、状況が何ら好転しないままに亡くなってしまったのもやりきれない。今から宮が態度を改めたからといって何の甲斐があろうか、姉はもう二度と帰って来ない……中君の心は堅く閉じてしまった。
女房たちに強く道理を説かれてようやく物越しの対面と相成ったが、中君は宮のこれまでの謝罪と言い訳を無表情で聞くばかりだった。
中君の憔悴した気配、後追いもしかねない不穏な雰囲気を宮も感じ取り、ますます危機感を募らせる。
今日こそは何がなんでもここに泊まる!という決意のもとやってきたのだ。
「物越しではなく、直に」
としきりに頼み込むが、中君は
「もう少し気持ちの立て直しができましたら」
すげなく断るばかりである。
薫もこの騒動に際し、しかるべき女房を中君のもとに差し向け、
「此方のお嘆きもよそに心無いお扱い、初めも今も散々に気を揉ませたひと月余りのご無沙汰の罪は、不愉快に思われて当然のこと。憎からぬ程度に懲らしめておやりなさい。そんな仕返しをされたことはまだない宮ですから、きっと堪えるでしょう」
こっそりお節介な助言をしたものだから、中君はますます気恥ずかしくなり、何も返事をしなかった。
「なんと無情なお振舞いを……あんなにも固くお約束したことをもうお忘れに?」
宮の凹みようは尋常ではなく一日中嘆き暮らした。
夜になると激しさを増す風の音に、
(わたくしのせいであんなに落ち込まれて……さすがにお気の毒かしら)
と思い直した中君は、例によって物越しで話すことにした。無数の神を証に立て、末永く添い遂げようと誓う宮に、
(どうしてまたこんなにも馴れた口ぶりなのかしら)
白々しいと呆れつつも、遠く離れて今日は来るか明日は来るかとやきもきしていた時よりは、目の前の姿も声も身に沁みて、蟠りも徐々に解けていく。一方的に嫌ってばかりもいられないのだ。ただじっと聞いていた中君は、
「過ぎ去ったことを思い出しても心許ないのに
どうして行く末までも頼りにできましょうか」
と小声で呟いた。
やっと声が聞けたものの、却って物足りなく焦った宮は、
「行く末を短いものと思うなら
せめて私の前だけでも背かないでほしい
何事もあっという間に変わってしまう世の中だ。拘りすぎるのも罪深いことだよ」
ここぞとばかり宥めすかそうとしたが、中君は
「気分が悪くなりまして」
と奥に入ってしまった。
女房達の前でのこの仕打ちは面目丸つぶれで、宮はまたもや嘆き明かした。恨まれて当然な事態にしても冷酷過ぎない?と泣きの涙を落したものの、
(いや……中君は、今の私よりずっと辛い思いをしてきたんだろうな)
と反省しきりである。
一方で薫はこの山荘の主人然として、女房達も気安く召し使い、大勢をして食事の差配まで取り仕切っている。
(大君が亡くなって辛いだろうに。顔も窶れて青白いし、ぼーっと物思いに耽ってるのも痛々しいな)
気の毒に思った宮は、薫にも心のこもった見舞いの言葉を告げた。薫は、
(大君の生前の話など詮無いことだが、この宮には申し上げておきたい)
と思うが、いざ切り出そうとすると心が挫けてしまう。意気地なく愚かしい自分を知られるのが憚られ、つい言葉少なになる。
何日も声を上げて泣き続けたので顔の相も変わったが、見苦しくはないどころか清新な美しさが増した薫に、
(女なら誰しも持ってかれるな、これは)
心中穏やかでない宮である。自分自身の良からぬ性癖からの邪推だが、
(よし、世間の非難やら恨みやらをどうにか排して、中君を京に迎えなくては)
との決意を新たにした。
中君の心は解けないままだったが、匂宮が宇治に滞在していることは内裏にも届いていて、これ以上居座るのも具合が悪い。不承不承ながら帰ることにした。
宮は出立の直前までありったけの言葉を尽くしたものの、冷淡に扱われることが如何に辛いかを思い知らせたい中君は、ついに気を許すことはなかった。
年も押し迫ると、こんな山奥でなくても空模様がいつもとは違ってくるものだ。
宇治では荒れぬ日とてなく雪が降り積もる。
物思いに沈むばかりで何もせず暮らす薫は、まるで終わらない夢の中にいるような心地でいた。
匂宮からも誦経や布施など煩いほど贈られてくる。このままでは年明けまで泣き通すことになってしまう。文すら出さずに引きこもる薫は母宮をはじめあちこちから無沙汰を責められており、さすがにそろそろ京に帰らねばならない。それもまた悲しいことだ。
薫が常にいて人の出入りも多いことに慣れ切ってしまった女房達は寂しがった。大君の葬儀などで大変な思いをした時よりも、ごっそりと人が減り静まり返る中に残される方が気持ち的にキツい。
「時たま、季節ごとに故八の宮さまと雅な交流をしておられた頃より、のんびり何もせず日常を過されていた今のほうがずっと身近な感じがしたわね。とにかくお優しく細やかで、風流ごとにも実務にもよく行き届いておられたお人柄、もうこれで見納めかと思うと……」
一同涙にくれるばかりだった。
匂宮からは、
「京から宇治まで行くのってホント大変なんだよね。近場で引っ越しできそうな場所の目途がやっとついた!」
と知らせが来た。
宇治の姉妹の話は明石中宮の知るところともなり、
「薫中納言も並々ならぬ悲しみに沈まれていたと……それほどのお方と、皆が認めているということね」
と気の毒がって、
「二条院の西の対にお移しになって、時々通うように」
内々に許しが出た。
(さては女一の宮の女房にする気か?)
宮は疑いつつも、気軽に逢えるようになるのが嬉しくて、すぐに知らせてきたのだった。
「そうか、それはよかった」
薫も喜んだが、
(私も……三条宮の再築が成ったら大君をお迎えしようと思っていた。せめて中君を代わりにお世話したかったな)
と以前の後悔を繰り返し、寂しい気持ちになった。ただ、宮が邪推していたような方面からは遠くかけ離れていて、
(普通に、保護者としてのお世話はしよう。私以外に誰もいないのだから)
という心持ちである。
参考HP「源氏物語の世界」他
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