椎本 一
如月(二月)二十日の頃、匂兵部卿宮が初瀬に参詣した。昔立てた願の御礼参りという名目である。長いこと放置していたが、ちょうど中間地点にある宇治に立ち寄りたい余りの思いつきであった。「憂き里」と言う人もあるこの地名が、聞くたびに慕わしく思える理由はいうまでもない。
※我が庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり(古今集雑下-九八三 喜撰法師)
上達部も殿上人も大勢供についた。京に残る方が少ないほどである。
ヒカル院から受け継いだという夕霧右大臣所有の邸は川向うで、広々と興趣あるさまに造られている。帰途は夕霧自ら迎えに来る手はずになっていたが、急な物忌があり重く慎まねばならず行けない、との旨知らせが来た。
出鼻を挫かれた体の匂宮は膨れたが、供の中には薫もいる。むしろ気楽に宇治辺りの話も出来るよね、と気を取り直した。そもそも宮は伯父の夕霧とはどうにも打ち解けられない。右大臣という立場はもちろん見た目も中身も重々しく、気の張る相手なのだ。
ただ夕霧の子息である右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐がついてきていた。父帝や母中宮から並々ならぬ愛情を受け、世間の声望も限りなく高い匂宮はヒカルの孫でもある。六条院に少しでも縁のある者は末の末まで残らず、まるで主君のように傅いていた。
夕霧所有の邸は山里らしい趣向で風雅に設えてあり、みな碁や双六や弾棊(たぎ)の盤など取り出して思い思いに春の日を楽しんだ。馴れない遠出に疲れた匂宮はすっかりくつろいで、遊びには加わらずひと眠りした。
夕暮れに起き出した宮は、これからが本番とばかり琴を取り寄せて弾き始める。
得てしてこのような人里離れた場所では水の音も際立って、物の音もいっそう澄み渡る心地がするものだ。あの聖の宮――八の宮の山荘まではただひと棹で漕ぎ渡れる距離、追い風に乗って楽の音が響きわたる。
八の宮は昔を思い出し、
「なんと見事な笛の音だ。誰が吹いているのだろう。昔聴いたヒカル院の笛の音も素晴らしく心惹かれる音だったが、こちらは澄みのぼって重厚な気配が加わっているような……亡き致仕大臣の笛の音に似ているかな」
と独り言を呟く。
「何と遠い昔になったことか。こういった遊びもせず、生きるよろこびも何もなく、ただ年月だけを積もらせて……益体もない」
何につけ姫君たちの境遇が不憫で、
(こんな山奥に引き籠らせたままにしてはいけない)
と思うことしきりであった。
(どうせなら薫宰相のような方を近い縁者としたいものだが……どうもあちらにはその気がなさそうだ。かといって如何にも今時の、軽佻浮薄な若造になどやりたくないし……)
女好きの匂宮の行状は八の宮の耳にも届いている。
所在なく物思いに耽るばかりの山荘では春の夜もいつ明けるとも知れぬ長さだが、旅を満喫する匂宮一行にとっては逆である。酔いしれるまま疾く明けていく短夜に、まだまだ物足りない、帰りたくない匂宮であった。
遙かに霞みがかった空、散る桜があれば咲きそめる桜もさまざまに見渡される中、川沿いの柳が風に起き伏し靡く水鏡は尋常ならざる美しさである。匂宮には何もかもが珍しく見捨てがたく思えた。
薫は、
(せっかくだから八の宮の山荘にも伺いたい)
と思っていたが
(これだけ多くの人目を避けつつ一人だけ舟を漕いで渡っていくなんて、さすがに無茶かなあ)
と手をこまねいているうちに、彼方から文が来た。
「山風にのって霞を吹き分ける笛の音は聴こえましたが
そちらの白波は遠く隔たっているように見えますね」
達者な草仮名で書かれている。匂宮は、
「これが例の八の宮の?どれどれ、見せて!」
興味津々で眺めると、
「この返事は私が」
とさっさと書き出した。
「そちらとこちらの汀を波が隔てても
宇治の川風は構わず吹き通いますよ」
薫は八の宮の山荘へと向かった。音楽好きな公達を誘い、ともに棹さして「酣酔楽」を演奏しながら川を渡る。川を望む廊から水面に向け階段が造り下ろされている山荘の景色は何とも洒落ている。いかにも由緒ある宮邸といった風格に皆感服し、襟を正して舟を下りた。
山荘の内部はまた違った雰囲気で、山里めいた網代屏風など立ててある。一切を削ぎ落した、シンプルで見所あるしつらえであった。来客を予想してかどこも美しく掃き清められ、隅々まで念入りに整えてある。古くからこの宮家に伝わる楽器の数々もさり気なく置かれている。どれもこれも二つとない音色を出すという名器である。
薫と共に伺候してきた面々は、より品格ある壱越調で春の催馬楽「桜人」を演奏した。
桜人
その舟止めよ
島つ田を
十町作れる
見て帰り来む
主である八の宮は琴の名手として知られていた。この機会に是非聴いてみたいと皆が思っていたが、わずかに筝の琴ばかりをさり気なく他と合わせながら掻き鳴らすのみであった。若者にとっては初めて聴くその音色に、
「え、渋い!」「エモい!」
と感動の声しきりであった。
山里らしい饗応に風流を尽くしたもてなし、僅かなりとも皇族の血を引く人品卑しからぬ人々が数多接待にあたる。かねてから八の宮に心を寄せていた、王族で四位の年輩者などが、大勢の客人を迎える折とみて集まっていたのだ。酒瓶を傾ける所作も品よく、いかにも宮筋といった古風で雅なあしらい様であった。歓待された客人たちは大いに感心した。
(思ってたよりずっとイイ感じ)(こういう邸に住んでる姫君たちもきっと……?)
密かに想いを馳せる向きもきっといたに違いない。
まして対岸に残された匂宮は、自由のきかない重い身分の窮屈さに唇を噛む。
(絶好のチャンスだっていうのに。もう我慢ならない)
と良さそうな桜花の枝を見繕って折らせ、お供の殿上童の中でも飛び切り可愛らしい子を使者として遣わした。
「山桜の匂う辺りに尋ね来て
同じかざしを手折りました
一夜の宿でも『野が慕わしくて』」
※春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(万葉集巻八-一四二八 山部赤人)
受け取った姫君たちは大慌てである。
「お返事はどうしましょう」「無理、無理だわ」
と困り切っていた。
「こういう場合はそこまで本気に取られなくても……あまり時間をかけますのも、勿体ぶっているようでかえって感じが悪うございます」
年配の女房たちが口々に諭し、ようやく中の君が筆を取った。
「かざしを手折られるだけで、賤しい山里の家は
通り過ぎてしまわれる春の旅人でしょう
野を分けゆくまではなさらないのね」
と、品良くきれいに書き上げる。
実際、川風は彼方も此方も分け隔てなく吹き通い、響きわたる楽の音は全員の耳を愉しませた。
間もなく、迎えを命じられた紅梅大納言が到着し、川のほとりは都へ帰る大勢の人々でごった返した。
一行は夕霧の邸を出て、山荘を通り過ぎる。ついつい後ろを振り返りがちな若者は一人や二人ではない。匂宮もまた、
「きっとまた来る、必ず……!」
強く心に決める。
花は盛り、四方が霞む。思わず目を奪われるその風景に漢詩も和歌も多く詠まれたが、煩わしいのでいちいち紹介しない。
慌ただしさに思うようなやり取りも叶わず心残りだった匂宮は、薫の仲介なしで直に宇治の山荘に向け手紙を送り続けた。八の宮は姉妹に、
「お返事はちゃんとしなさい。ことさら懸想文のような扱いはなさらないように。かえってお気を引くようなことにもなりかねない。恋多き親王のこと、ここにこのような姫がいると聞きつけられて放ってもおけない、とのお戯れだろう」
といって返事を促したが、大君はこういった方面には戯れにでも関わりたくない、潔癖で慎重な性格であったので、もっぱら書いたのは中の君であった。
来客が去ったあとの山荘はいつにもましてしんと静まり返り、所在ない春の日はますます過しがたく物思わしい。成人した姫君たちの容姿も立ち居振る舞いもいよいよ申し分なく美しいのがかえって不憫で、
(何か欠点でもおありなら、あたら若い盛りを惜しむ気持ちも薄かっただろうに)
父の心も日がな一日騒ぐばかりである。
その年、姉の大君は二十五、妹の中の君は二十三であった。
八の宮は六十一歳、男の厄年に当たっていた。何となく不安をおぼえた宮は、勤行もいつもより頻繁におこなった。もとより現世に執着はなく死出の旅の用意ばかり考えていて、極楽への往生も間違いない宮だが、ただ娘たちという絆しに足を取られている。道心は限りなく強いものの、
「いざこれで最後となると躊躇われるのでは」
と女房たちにすら見抜かれている有様だ。
(必ずしも理想的な相手ではなくとも、世間並で人聞きも悪くなく、そこそこ許容できるくらいの身分の人が『真心こめてお世話差し上げたい』と申し出てくれたならば、知らぬ顔で黙認しよう。姉妹それぞれがどこかしらに縁づいたならば、その人に譲って安心できようから)
そう思ってはいたものの、そこまで深い心持ちで求婚して来る人は今までいなかった。
ごくまれに、ちょっとした機会に言い寄って来る者もいるにはいる。が、所詮は若者の気まぐれにすぎず、参詣の中休みや行き来の間の暇つぶしに熱を上げた程度だ。どうせこんな山奥に引き籠っている姫など大したことはないだろうと軽んじる風がみえてしまうと、とんでもない、返事など以ての外!で終了である。
ただ匂宮は――どうしても宇治の姫君に会いたい、会わずにすむものかと思う心が強くあった。そこまで深い宿縁があるのだろうか。
参考HP「源氏物語の世界」他
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