おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

椎本 二

2021年10月11日  2022年6月9日 


  薫宰相中将はその秋、中納言となった。二十三歳にして押しも押されぬ高級官僚である。

 公務は多忙になり、物思いもまた増えた。何もわからず長年モヤモヤし続けた挙句に知った真相―――煩悶のうちに世を去った実父の痛ましさを思うと、罪が軽くなるよう勤行もしてやりたい。あの老いた弁の君を亡父に繋がる唯一の者とみなし、人目に立たないよう気をつけつつ何かと心づけを贈りもした。

 そんなこんなで、薫が久しぶりに宇治の山荘を訪れたのは七月に入ってからであった。

 都ではまだ気配もない秋の景色がそこにある。「音羽の山」付近では風の音もとても冷ややかで、槙の山辺も僅かに色づいている。やはり来てみれば趣深くまたとない場所ではある。

松虫の初声誘ふ秋風は音羽山より吹きそめにけり」(後撰集秋上、二五一、読人しらず)

 八の宮は常にも増して薫の訪れを喜んだ。今回は特に心細げな話を長々語ったかと思うと、

「私が亡くなった後も、何かにつけこの姫君たちをお尋ねくださり、お見捨てにならない人の数に入れていただけますよう」

 それとなく姫君の後見をほのめかす。薫は、

「以前、一言でもと申し上げました。こうしてはっきり承りました以上、決して疎かにはいたしません。現世に執着しまいと、妻子など係累を持たないつもりの我が身、何事につけ頼りなく将来性も定かではございませんが、それでも命があるうちは変わらぬ心ざしをご覧に入れられると存じます」

 ときっぱり言い切った。宮は嬉しそうに頷いた。

 その夜も深まる頃、月が明るく差し出して山の端がすぐ近くに見える。八の宮は沁みわたるような念誦を終え、昔語りをはじめた。

「近頃の世の中はどんな感じなのだろうね……私がまだ京にいた頃、こんな秋の月夜には帝の御前にて管弦の遊びなど催されたものだ。名人の中の名人とおぼしき面々が競い合うように演奏する、それはもちろん素晴らしい。が、そういった華々しい調べよりもっと、ぐっと来た音色がある……音楽を嗜む女御や更衣、それぞれの局はお互いに張り合いながらも上辺は取り繕っている。それが夜も更け人気も絶えた静かな時間、押し込めた思いが琴を鳴らし、ほのかに漏れ出てくるのだ……何とも聴き応えがあったことよ」

 宮は微笑んで、話を続ける。

「女というものは……何事につけ慰みのつまとされるが、弱弱しくはかないものから、人の心を動かす種にもなり得る。だからこそ罪業が深いとされるのだろう。親が子を思う道の闇といっても、男子にはさほど心を乱されない。女子は娶わせる相手次第だからか、たとえ不出来な娘であっても、どうとでもなれとはし難いものだ」

 一般論とみせているが、その実自分自身の思いなのだろう。父としてどれほど娘たちを心配しているかが痛い程伝わって来る。

 薫は、

「私は本当に、すべて……先程から申し上げている通り、現世の執着を一切捨ててしまったせいでしょうか、女性がそこまで罪深いものと感じたことはございません。ただ音楽ばかりは、取るに足らないことと存じながらも愛でる心を捨てられないでおります。賢い聖人の迦葉も思わず立ちあがり舞ったというではありませんか」

 といって、以前すこしばかり聴いた琴の音を切に所望する。宮は、薫と姫君たちとの距離を近づけるきっかけにとでも思ったか、自ら奥に入り琴を弾くよう促した。筝の琴がほんのわずか掻き鳴らされて、すぐに止む。人の気配もすっかり絶えた山荘、身にしむ空の景色と場所柄から、何気ない楽の遊びは心惹かれる佳き音を奏でた。もちろんすっかり気を許して合奏するというところまではいかない。

「これを初めとして、あとは若い者同士に任せよう」

 と宮は立ち上がった。

「私が亡くなり草の庵は荒れても

 この一言は枯れないものと思います

 こうしてお目にかかることもこれで最後になろうという心細さに堪えかね、愚にもつかないことを多く語ってしまいました」

 泣いている。薫は、

「どのような世の中になりましても枯れる(離れる)ことはありません

お約束をした草の庵から

 相撲など公務が立て込む時期が過ぎましたらまた伺います」

 と力強く返した。 

 八の宮が仏間へと立ち去ったあと、薫はあの問わず語りの弁の君を呼び出し、いつ終わるとも知れぬ昔語りを聴いた。

 入り方の月の光が隈なく差し入り、透き影が美しく浮かび上がるのを、姫君たちは奥まった場所からひっそりと眺める。よくある求婚者といった趣ではなく、思慮深く言葉を選んでゆったり話しかける薫に、姫君たちもひとつふたつ返事をかえした。

(匂宮が随分ご執心なんだよな)

 と内心後ろめたい薫だが、

(我ながらやっぱり他人とは違ってるよね。八の宮はきっとお許しくださっているのだろうけど、じゃあ早速って気にはなれない。かといって結婚するのが絶対イヤというわけでもない。こんな風に言葉を交わして、折節の花紅葉につけ情趣を通わせるには悪くない相手だよね……ただ、他人のものになっちゃうのは悔しいな)

 そこはやはり若い男子である。二人の姫君を独占したい気持ちもあった。


 薫はまだ夜の深いうちに帰った。

 八の宮の、どことなく寂しげな影の薄い様子が気がかりだったので、

(公務が落ち着いたらきっとまた伺おう。匂宮はこの秋に紅葉見物でもなさったらいい)

 と次の訪問を算段する。

  一方、匂宮との文のやりとりは依然続いていた。書き手の中の君は、本気の恋文とはまるで思っていなかったので特に気にすることなく、さらりとした調子で折々に返信していた。


 秋も深まったある日、八の宮はただならぬ不安におそわれた。

(いつものように静かな場所で念仏に専念しよう)

 と思い、姫君たちにもそのように伝え、話をした。

「世の習いとして、終の別ればかりはどうにも逃れられない。何か慰めになるようなことがあれば悲しみも紛れるというものだが……後を託せる人もいない、心細い有様で貴女がたを打ち棄てていくのがまことに辛い。しかしそればかりに妨げられて、無明長夜の闇に惑うのも無益だ。貴女がたをお世話する間にも捨て去っていた俗世、まして死後は関知することではないが、私一人のことだけではなく……亡くなった母君の面目をも潰さぬよう、軽々しいお振舞いはなさいますな。並々ではない御縁以外に、他人の言葉にうかうか乗せられてこの山里を離れないように。ただ、他人と異なる宿命を負った身と思い成して、ここで生涯を終えるご覚悟を。覚悟が決まれば、造作なく月日は過ぎていくものだ。まして女はひっそり閉じ籠って、煩い他人の非難を直に浴びずに済むのがよかろう」

 姫君たちは、この先自分たちの身の振り方をどうするかまでは考えが及ばず、ただ

(お父様に先立たれては、どうやって此の世に生き永らえていられましょうか)

 とぼんやり思っていただけである。これほど切羽詰まった物言いをされたことに言葉も出ず、戸惑うばかりであった。父宮にすれば、内心では執着を捨てていたにせよ、明け暮れをともにし馴れ親しんでいた家族をいきなり突き放すのは断腸の思いであったろうが、娘二人にとってはただ恨めしいばかりの仕打ちであった。

 明日は山寺に入るという日、八の宮は邸内のあちこちを見て回った。普段はしない行動である。改めて見るとどこもかしこも余りに簡素で頼りない、仮初めの宿といった風情で、

(こんな侘しい住いに長の年月を過してきたのか。私が亡き後、若い姫君たちがどうやって籠り続けていけるというのか)

 涙ぐみつつ念誦する。その姿は如何にも清らかであった。

 年配の女房達を呼び出して、

「この先もしっかり姫君たちに仕えてくれ。元から気安い、世間の噂にならないような身分ならば先細りもよくある話で、目立つこともないだろうが、こと皇統となると……他人の思惑以前に、落ちぶれて流浪すればやんごとない血筋だけに痛ましいことも多いだろう。何となく寂しい、心細い暮らしを送るくらいならまだいい。生まれた家の格やしきたり通りに身を処することが、人聞きにも、自分自身にも間違いがなく思える。贅沢に人並の生活をしたいと思っても、その心にかなわぬ時勢とあらば、ゆめゆめ軽々しく良からぬ男に手引きしてくれるな」

 懇々と諭す。

 出発前のまだ暗い早朝に、宮は姫君たちのもとへ渡り、

「留守の間あまり寂しがらないようにね。気持ちを明るく持って、琴でも弾いたらいい。何事も思うに任せない世の中だから、深刻に思い詰めることはないよ」

 と、振り返り振り返りしながら邸を出て行った。姉妹はますます不安が増し、寝ても起きても語り合う。

「わたくしたちもどちらかがいなくなってしまったら、どうやって生きていけましょう」

「この先どうなるかもわからない状況で、二人別れ別れになってしまったら……」

 などと泣いたり笑ったりしながら、遊びごとも習い事も、同じ心で慰め合いつつ過ごす二人であった。

 八の宮の勤行が今日で終わるという日、帰りを今か今かと待つ夕暮れに使者が来た。

「今朝から具合が悪くて出られない。どうも風邪をひいたらしいのであれこれ手当しているところです。いつにもましてお会いしたい気持ちなのに」

 姫君たちはびっくりして、父宮のために綿を厚くした法衣を急ぎ用意して届けさせた。ところが二、三日経ってもまだ山を下りてこない。

「具合はどうですか」「いつお帰りに」

 と使者を差し向けるが、

「そんな大げさな病状ではない。なんとなく苦しいだけでね。もう少しよくなったら無理にでも山を下りよう」

 口上にて返って来た。

 山寺では、阿闍梨が宮につききりで看病しつつ、

「大した病にも見えませんが、あるいはこれが最期となるかもしれない。姫君たちのことはもうお考えになりませぬよう。持って生まれた宿世は人それぞれですから、心配したところでどうにもなりません。今こそ思い離れるべき時にございます。もう、今更下山などなさいますな」

 と諫め諭す。

 八月の二十日ごろであった。季節柄、空の景色も物悲しく、姫君たちは朝夕、霧の晴れる間もなく父を思い泣き暮らしていた。

 有明の月に眩しく照らされさやかに澄む川面を、蔀を上げて覗く。鐘の声がかすかに響いた。

「夜が明けたようね」

 と言い合ううち、誰か来たのか邸の入口が騒がしくなった。

「申し上げます!宮さまが……八の宮さまが、夜半にお亡くなりに……!」

 使者が泣く泣く伝える。

 今の今まで父宮の病状が気がかりで、どうしているのかと絶えず心配していた二人の娘は、突然のこの知らせに頭が真っ白になった。涙も出ず、ただ突っ伏したまま動けない。

 目前で看取ったのならばともかく、知らぬ間に亡くなりましたと言われたところで実感もなく、気持ちがついていくはずもない。ほんの片時でも父に先立たれてはとても生きてはいられないと思っていた二人は、後を追いたいと泣き沈んだ。だが父宮は定められた寿命を全うしただけであり、望みが叶う訳もない。

 阿闍梨は長年約束しておいた通り、葬儀や法事など一切を取り仕切った。姫君たちは、

「亡骸になられた父君のお姿、お顔だけでももう一度拝見したい」

 と懇願したが、まったく聞き入れない。

「今更何になりましょうか。生前にも、もうお会いするべきではないと再三お諫め申し上げていたというのに、まして今……もうお互いに執心は捨てられますよう、父宮さまのお心構えに倣うべきです」

 生前の山での様子を聞くにつけ、阿闍梨のあまりに悟り澄ました聖人ぶりを小面憎く思う姫君たちであった。

 八の宮の出家への志は昔から深かったが、他に頼る者もいない姫君たちを見捨てがたく、自分が生きている限りはと日々離れることなく面倒を見てきた。それがこの寂しい暮らしの慰めにもなり、突き放すことなど考えられないまま過ごして来たのだ。しかし所詮は限りある道、先立つ方も後を慕う方もどうにもならない。


 薫は突然の訃報に言葉を失った。

(なんということだ……今一度、ゆっくりとお会いしたかった。まだまだ語り合いたいことがたくさんあったのに)

 人の世の無常を思い知り、泣きに泣いた。

(宮は『再びお目にかかることは難しいかもしれない』と仰っていた。普段から『朝夕の隔て知らぬ』世の儚さを誰よりも実感しておられた方だから、此方も耳馴れてしまって『昨日今日とは思わずに』いたんだ。かえすがえすも、もっと訪問していれば……)

朝に紅顔有つて世路に誇れども、暮には白骨と為つて郊原に朽ちぬ(和漢朗詠集、無常、藤原義孝)

つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを(古今集哀傷、八六一、在原業平) 

 悲しみは尽きない。

 薫は、阿闍梨の山寺と姫君たちのもとへ心を込めて弔問をおこなった。弔問客どころか普段消息を尋ねる人すらない有様の山荘で悲しみに惑乱するばかりの姫君にも、ここ数年来の薫の厚意は身に沁みた。

(普通の家で親に死に別れても、その直後はこれほど悲しいことがあるかと誰でも心が乱れるものだ。まして気を紛らわせるようなものが何も無いあの山荘で、どんなに嘆いておいでだろうか)

 薫は姫君たちの心を思いやりつつ、後々の法事などしかるべき準備をととのえ、阿闍梨とも打ち合わせた。宮邸の方も、老人たちにことよせて誦経の用向きなども配慮した。

<椎本 三 につづく

参考HP「源氏物語の世界」他

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