椎本 三
姫君たちは「明けぬ夜の心地」のまま、九月になった。
※明けぬ夜ながら心地ながらにやみにしをあさくらと言ひし声は聞ききや(後拾遺集雑四-一〇八一 読人しらず)
野山の秋景色も袖の時雨をもよおしがちに、絶えることのない涙に濡れる。ともすれば先を争うように散りしきる木の葉の音も、水の響きも、滝の轟きも、すべてが悲しみと一体になり境目がない。
「このような有様では、定められた寿命をまっとうすることすらお出来にならないのでは」
女房達は心配して、懸命に姉妹を慰めようとするが、どうにもならない。
山荘には念仏の僧が伺候し、亡き八の宮の居室は持仏を形見として忌籠りの場とされた。時折此方に通って来ていた皇統の年寄りたちも加わり、一同心をこめて勤行をおこなう。
匂兵部卿宮からもたびたび弔問の文が届いた。が、姫君たちに返事などできようはずもない。
(なんだよ、全然返ってこないじゃないか。薫にはきっとこんな態度とらないよね。私はやはりないがしろにされてるんだな)
匂宮は面白くない。
(もともと、紅葉の盛りに詩文作るって名目で宇治行きを予定してたんだよね。なのにいきなり八の宮が亡くなられて……さすがに喪中の家のすぐ傍でドンチャン騒ぎするわけにいかないから中止にしたけど……ホント、残念でたまらないよ)
暫くは仕方がないと堪えた宮だったが、四十九日の忌が明けるや、
(そろそろ涙の止まる隙もあるよね!)
と、時雨がちな夕暮れにいつもより多めに書きつらねた。
「牡鹿鳴く秋の山里で如何お過ごしでしょうか
小萩に露のかかる夕暮れに
ただ今の空の景色も目に入らない顔でおられるのもあまりにつれないお振舞い。『枯れゆく野辺』も格別に思える季節ですから」
※鹿の棲む尾上の萩の下葉より枯れ行く野辺も哀れとぞ見る」(新千載集秋下、五二六、具平親王)
文を読んだ大君は、
「仰る通りね。今まで何通もいただいたお文をスルーしてしまったんですから、今度こそお返事しないと」
いつものように中の君を促して書かせようとした。しかし中の君は、
「父宮が世を去られてから今日までどうにか生きてきたけれど、硯など近くに引き寄せようかとも思わなかった。なんと時の流れは無情なものかしら……」
涙が込み上げて何もかもがぼやけてしまう。硯をおしやり、
「やっぱり書くのは無理ですわ。少しずつ起きていられるようにはなりましたが、この悲しみがいつかは薄れていくのだと思うのも疎ましく、辛い……」
よよと泣き萎れる姿は何とも痛々しく、とてもこれ以上は勧められない。
匂宮からの文を届けに来た使者がそわそわと返事を待っている。京を出立したのが夕暮れで、此方に着いた頃には宵を少し過ぎていた。
大君は、
「今日はもうお帰りになるのは無理でしょう。どうぞお泊りあそばして」
と伝えたがこの使者は、
「いいえ!すぐ引き返して宮のもとに文をお届けしなければ!」
どうあっても帰京するつもりでいる。
大君は中の君同様まだ悲嘆の最中ではあったが、さすがに気の毒に思い、自身で返事を書くことにした。
「ただ涙ばかりの霧にふさがれている山里は
籬で鹿が諸声に鳴いております」
夜の闇の中で選んだ紙は黒、墨付きも判然としない。体裁を整える余裕もなく筆に任せて一気に書き上げ、そのまま包んで差し出した。
急ぎ宇治を出立した使者が木幡山にさしかかる頃には雨模様で、辺りは真っ暗だった。物怖じしない者を選り出したのだろう、その不気味な笹原を馬を止める間も惜しんで駆け抜け、あっという間に京へと辿り着いた。
匂宮の御前に濡れ鼠で参上したこの使者には、たっぷりと禄が与えられたという。
「ふーん……以前の文とは違う手蹟だな。もう少し大人びて……何と言うか、風情がある。はて、どちらが姉でどちらが妹か……?」
宮は文を下にも置かず見比べ続けて、いつまでも寝ようとしない。
「返事を待たれると仰って起きていらしたのに」
「いつまでご覧になってるのかしらね、随分とご執心だこと」
と傍仕えの女房達はブツブツと囁き合う。主がこれでは寝るに寝られないのだ。
匂宮は、まだ朝霧が深い早朝に起き出して返事を書いた。
「朝霧に友を見失った鹿の鳴く声を
ただ普通に哀れと聞きましょうか
鹿の諸声に負けないくらい(会いたくて)私も泣いてますよ」
文を受け取った大君は、
「如何にも気がありますよ、と仰られるのも煩わしいこと……今までは故父宮を盾として蔭に隠れていたからこそ、何事も安心して過ごせたけれど、もうそうはいかない。私たちが思いのほか長生きするうちに不本意な過ちが僅かでもあれば、最期まで心配しておられたお父さまのみ魂にまで疵をつけかねない」
くよくよ考えているうち恐ろしくなり、返事が書けなくなった。
匂宮を、軽薄な今時の若者と思ってのことではない。何気なく走り書いた筆跡も言葉づかいも、いかにも洒落ていて心惹かれるさまである。大君とて多くの男性を知っているわけでもないが、只者ではないということだけはわかる。
「これほど嗜み深く風流めかしたお手紙にお返事差し上げるなんて、私たちのような田舎者には似つかわしくない。いっそこのまま、山伏のように暮らし続けられたら―――」
一方、薫の文はどれもいたって生真面目な内容であったため、かえって気楽にやり取りが出来ていた。
薫は、忌明けを見計らって宇治へと出かけた。
喪中の姫君たちが籠っているのは母屋より一段低い東廂の間である。薫は簀子に座り弁の君を呼び出した。
闇に閉ざされていた邸にいきなり眩い光が射したようで、一面に得も言われぬ芳香が満ちみちている。誰もまともに正視できず、言葉も出てこない。
なかなか返事が来ないのに痺れを切らした薫が言った。
「このようなお扱いでは、故八の宮のご意向とは違ってしまいませんか?もっと心安くしてくださればお話を承る甲斐もあるものと存じます。風流を気取った振舞いには馴れておりませんから、人づてに申し上げるのでは話が続きません」
とはいえ直に話すなど出来るはずもない。
やっとのことで大君が口を開き、弁の君が薫に伝える。
「恥ずかしながら今日まで生きながらえておりますが、覚まそうにも覚めない夢の中にいるようです。心ならず空の光を見ますのも憚られ、とても端近には出られません」
「やっとお言葉をいただけたかと思えば、あまりにも深過ぎるお考え。月や日の光は、自分から晴れ晴れしくお出ましになるならば罪にもなりましょうが、そうではないでしょう?私自身、どこにどう進めばよいのかわかりません。ただほんの暫くの間でも、そのお悩みを晴らして差し上げたく――」
弁の君はこの薫の言葉に、
「何と有り難いこと」
と喜んで、
「姫君たちの類まれなるご悲嘆ぶりをお慰め申し上げたいという薫さまのお心ばえ、決して浅いものではございませんよ」
と念を押す。
姫君たちの心もようやく少し落ち着いて、身の周りが見えて来た頃である。亡き八の宮への義理立てとしても、こんな山奥まで野辺を分け入って来てくれる薫の厚意も理解したのだろう、もう少し近くにといざり寄った。
姫君たちの悲しみを慮りつつ、故宮と生前に約束していたことなど事細かに優しく語り、ギラギラした荒っぽい振舞いは露ほども見えない薫である。姫君たちも殊更に避けたり嫌がったりはしないものの、こんな風に他人に声を聞かせることも、父宮の死後何となく頼ってしまっていたことも、思い返すとやはり心苦しくいたたまれない。
薫の方はそうとは知らず、僅かに一言二言返事をするだけの姫君たちの様子から、
(やはりまだまだ悲しみが癒えないでいらっしゃるのか……お気の毒な)
などと思っていた。
御簾越しにほの見える黒い几帳の透き影も痛ましい。
(あの奥で、喪服に身を包んだ姫君たちはどれほど沈んでおられることか)
以前垣間見た明け暗れの、楽し気な姉妹の姿が薫の脳裏に浮かぶ。
「色を変えた浅茅を見るにつけ
墨染に身をやつしていらっしゃるお姿をお察しいたします」
独り言のように薫が呟くと、大君が、
「色が変わった袖を露の宿りとしていますが
我が身はどこにも置き所がありません
ほつれる糸は涙に――」
※藤衣はつるる糸は侘び人の涙の玉の緒とぞなりける(古今集哀傷、八四一、壬生忠岑)
言いさして、感極まったかそっと奥に入ってしまった。
折が折だけに引き留めるわけにもいかず、薫は心残りのまま思いを馳せる。
老女房の弁の君が、大君の代役とばかりにしゃしゃり出てきて、昔や今の話をかき集め、悲しい物語を語った。薫にとっては、世にも稀なる驚くべき出来事を見届けてきた唯一の人である。見た目はみすぼらしく耄碌した老女だが、見限ることなくたいそう優しく相手をした。
「幼い頃に故ヒカル院に先立たれて、何と此の世は悲しいものかと悟ってしまった。それから年を重ねるとともに、官位も世の中の栄華もどうでもよくなってしまったんだ。この宇治での静かな暮らしは故八の宮のお心に適ったものだろうが、それもあっけなく終わってしまわれた……ますます此の世は仮初めと改めて実感したよ。もう世を捨てても、と思わなくもないが、おいたわしい境遇にある二人の姫君がいらっしゃる。お二人が私の出家を妨げる絆しだ……などと申し上げると懸想じみた口実と思われるかもしれない。ただ私は……このまま俗世で生き永らえて、亡き宮のご遺言を過たず遂行するにはどうしたらよいのかご相談申し上げたいんだ。実をいうと……思いがけない昔話を聞いて以来、ますます此の世に跡を残そうとは思わなくなっていてね」
涙を零しながら話す薫を前に、弁の君も泣いてしまいもう何も言うことが出来ない。それというのも、この時の薫が―――
(なんと、なんと柏木さまに似ていらっしゃる……生き写しといってもいいくらい)
弁の君の心中で長年忘れ去っていた記憶が次から次へと蘇り、繋がっていって、言葉もなくただ涙にくれる。
この弁の君は柏木権大納言の乳母子であり、姫君たちの母北の方とは従姉妹同士である。
父は故北の方の母方の叔父で、左中弁のときに世を去った。弁の君は長年遠国に流浪し、北の方の死後には致仕大臣家との縁も薄くなってしまった。行き先のなかったところを八の宮邸に拾われたのだ。
血筋の割には身分も低く、宮仕え馴れしていかにも世間ずれはしていたものの、機転が利くところを買われて、姫君たちの後見役に落ち着いた。
以来、姫君たちとは朝夕馴れ親しみ、何の遠慮もなく長年仕え続けていた弁の君だが、あの秘密―――柏木と女三の宮の件―――については、一切打ち明けることなくひた隠していた。
しかし薫は気が気ではない。
(年寄りの問わず語りなんてよくあることだ。誰かれなく軽率に言いふらしたりはしなくても、主である姫君たちは何か漏れ聞いておられるかも……困ったな。もし姫君たちが何かしらご存知ならば、ますますこのままにしてはおけないぞ)
何のことはない、言い寄る理由をこじつけているだけである。
とはいえ今は泊まるのも違う気がして、ひとまず帰ることにしたが、
(八の宮が『これで最後かもしれない』と仰ったとき、まさかとたかをくくっていたら、二度と逢えなくなってしまった。あの時も既に宇治は秋で、今もそうだ。大した日数も経っていないのに、宮はどの空にいらっしゃるのか……まさに世の無常。普通の貴族のような華やかさはなく簡素なお邸だが、いつもこざっぱりと掃き清められ、趣味よく住みなしておられた。今は大徳たちが出入りしてあちこち仕切って、念誦の道具なんかは変わらないままだけど……
『仏像は皆あちらの山寺にお移し申し上げる』
という話らしいし、そのうち坊さんたちも引き上げてしまったら、残された姫君たちはどんなに寂しいことだろう)
想像するとひたすらに胸が痛むばかりだ。
「すっかり日が暮れました」
と帰京を促す声に、物思いを中断して立ち上がる薫。
その頭上を、雁が鳴きながら飛んで行く。
「秋霧が晴れない雲居でなおのこと
此の世を仮(雁)のものだと鳴き知らせるのだろう」
京に帰り、匂兵部卿宮に対面した薫は、まずこの姫君たちのことを話題に出した。
匂宮には、薫のような八の宮に対する深い思い入れはない。
(よし、今はもう誰にも遠慮せず彼方に行けるということだな)
と、ここぞとばかり熱心に手紙を送りつけた。
姫君たちにすればうかうかと返事のできない、緊張を強いられる相手であった。
「あの宮さまは……世に浮名の絶えない『風流人』でいらっしゃるから、此方に興味を持たれて艶めいたやり取りを期待しておられるのだろうけれど、こんな風に埋もれた葎の下から差し出すお手紙など、どんなにか世慣れず古めかしく見えることかしら」
「それにしても知らぬ間に過ぎてしまう月日ね。こんな当てにならない寿命を『昨日今日とは思わず』ただ普通に、定めなき儚さばかりを日常的に見聞きして……私自身も、きっと亡き父宮も、後に遺されるにしろ先立つにしろこれほど隔たりがあるものとは思っていなかったわね」
※遂に行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを(古今集哀傷、八六一、在原業平)
「思い返してみると、昔から何も頼れるものなどなかったけれど、ただ何となく呑気に構えていて、怖いことも気が引けるようなこともなく過ごしてきたのね、私たちは。お父さまがいなくなった後は風の音もいやに耳につくし、いつもは見かけない人影が連れ立って案内を請うたりしようものならすごくドキドキする……恐いことも困ることも増えて、本当に堪え難いこと……」
大君と中の君はひと所で語らいつつ、涙が涸れる間もなく過ごした。
そうこうしているうちにその年も暮れた。
参考HP「源氏物語の世界」他
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