椎本 四
雪や霰の降りしきる季節はどこであれ風の音が激しくなるが、姫君たちは今はじめて山に入って住み始めたような心地である。
女房達の中には、
「もう今年も終わるのね……心細く悲しいこと。この気持ちが改まるような春を待ちたいものだわ」
※百千鳥さへづる春はものごとに改まれども我ぞ古りゆく(古今集春上-二八 読人しらず)
と新しい年に望みをかける者もいるが、
「難しいのではないかしら……」
姫君たちはまだとてもそんな気にはなれない。
「如何お過ごしですか」
と通り一遍の挨拶をしに来るくらいである。もはや立ち寄る理由がないのだ。
薫は、
「年が明けてしまえば公事に忙しくて、とても行く暇がないだろう」
と年内ギリギリに宇治へと出かけた。
並の身分の人すら見かけなくなってしまった雪深い山荘を、並々ならぬ立派な風采で気軽に訪れてくれる薫の心持ちが浅いものであるはずもない。姫君たちも常より気合を入れて御座所などを設えさせた。
墨染ではない、普通の火桶を奥から取り出してきて塵をかき払う。その作業の間も、故宮が生前どれほど薫の訪れを待ちわびて喜んでいたか、女房達が口々に噂し合った。
姫君たちは躊躇したが、薫のせっかくの好意を無にしたと思われては……と御簾越しの対面を敢行することにした。
完全にうち解けるとまではいかないものの、以前より少しは言葉数も増え、非常に感じがよく奥ゆかしい。薫はいっぺんに心を奪われた。
(これは……ただ話すだけでは済みそうにない。しかし、いとも簡単に気持ちが変わりすぎだな私も。まあ所詮、そんなものだよね人間って)
「そうそう、匂宮がまことに不思議な程私をお恨みになっていたことがございまして……故八の宮のお気の毒なご遺言を承りました際のご様子を、何かの拍子にちらとでも漏らしたのかもしれません。匂宮はこの手の話を聞き逃さないお方ですから邪推されたのでしょう、
『うまく取り次いでくれとあんなに頼んだのに……彼方がつれない態度なのは、お前の取り持ちがよろしくないせいだ!』
と度々文句を仰るのです。まったく心外ですし、私としても宮の『里のしるべ』となって此方にご案内申し上げること、無下に拒絶もしかねます。どうなのでしょう、なぜそんなに冷たいおあしらいを?
※あまの住む里のしるべにあらなくに恨みむとのみ人の言ふらむ(古今集恋四、七二七、小野小町)
女好きだの何だのとお噂があるようですが、底知れない深い部分をお持ちの宮でもいらっしゃいますよ。軽はずみな物言いをする女は、チャラチャラとすぐ靡いて全くつまらない、幻滅するねと仰られることもあります。何事もあるがまま、我を張ることなく大らかに構えている女性こそ、一般的には幸せになれるのでしょうね。なんだかんだあっても受け流し、多少気持ちに添わない節があっても仕方がない、そういう定めだったと諦めることが、長く仲を続ける秘訣なのでしょう。あまりに責め立て過ぎると『三室の岸が崩れて龍田川の流れを濁す』ように名を汚し、どうにもならないほど破たんしてしまうこともあるようです。匂宮はまことに情愛深いお方ですから、そのお心に適い、お心に背くことが滅多にない方に対して、軽々しく初めと終わりで態度を変えるなどということはまず、なさらないでしょう。宮に関しては、他人が存じ上げないところを多く見聞きしております。もしこのご縁談を似つかわしい、お受けしたいと思し召しならば、私が全力でお執り成しをさせていただきます。そうなれば私は京と宇治との間を奔走して、さぞや足も痛めましょうけれど」
※神奈備の三室の岸や崩るらむ龍田の川の水の濁れる(拾遺集物名-三八九 高向草春)
薫はいたって真面目に話し続けた。大君は、自分自身のこととは思いもよらず、
(妹の親として応えなければ)
と考えを巡らせるも、やはり言うべき言葉が見つからない。
「何と申し上げたらよいやら……あまりに惚れたはれたの話ばかり続きますので、かえって考えがまとまりませんわ」
穏やかに笑った大君の気配は、薫に良い印象を与えた。
「必ずしもご自身ごととして背負われなくてもよいのですよ。雪を踏み分けて参上いたしました私の志だけご理解いただいて、姉君としてのお心でお考えおきください。匂宮のご関心は別のところにあるようですので……わずかに文のやりとりもあったようですが、はて、それも他人には判断しがたい。お返事はいずれの方がしていらしたのですか?」
薫が問うと大君は、
(よくぞ戯れにも書かずにいてよかった……大した内容ではないにせよ。宮は中の君にご執心とのこと、それなのに貴女が書いていたの?なんてことになったら、どれほど恥ずかしくていたたまれない思いをしたことか)
言葉に詰まる。
「雪深き山の架け橋は貴方以外に
まだ踏み(文)通う跡を見ていませんわ」
さっと書いて御簾の下から差し出した。薫は、
「そんな言い訳をなさると余計に疑わしくなる」
と言って、歌を返す。
「氷に閉ざされて馬が踏みしだく山川を
宮の案内がてらまず私が渡りましょう
それならばこそ、私が此方へ来る甲斐も十分にあるというものです」
大君にとってはまったく想定外の返答であった。
(え……結局そういうことなの?)
一方薫は、これまでの大君の対応にたいそう好感を抱いていた。
(余所余所しくもないし取り澄ましてもいないように見える。かといって今時の女子のように愛想を振りまくわけでもなく、しっとりした雰囲気の大らかなご気性。まさに想像していた通りの方だ)
しかしその後はいくら恋を語ろうとしても、まったく知らぬ顔でスルーされ続けた。気恥ずかしくなった薫は、昔話ばかりを真面目くさって話し続ける。
「そろそろ日が暮れてしまいます。雪が空を塞ぎそうに酷くなりますよ!」
と供の人々が促すので、薫は立ち上がって外を一瞥しさらりと言った。
「まったくおいたわしい場所にお住まいでいらっしゃる。山里なみにたいそう静かで、人の行き来もない所がございますが、そちらも我が家とお考えいただけたらどんなに嬉しいことか」
女房達はもちろん聞き逃さない。
「もしやこれは京へのお誘い?!」
「まあ、何とおめでたいことかしら!」
とニヤニヤしている。中の君は、
「はしたない……どうしてそんなことができましょうか」
と苦々しく思う。
西面に移った薫とその供人は、品良く盛られた菓子、体裁よく整えられた酒肴でもてなされた。あの宿直人――薫の衣装を下賜された――も、鬘鬚と呼ばれるむさ苦しい髭面で接待している。薫は、
「あれが姫君たちをお守りする唯一の家来か。何とも心許ないな」
と哀れに思い、召し出した。
「どうだ、主がいなくなられてからはさぞ心細かろう」
と問うと、目を伏せてシクシク泣きだした。
「頼もしい寄る辺もございません我が身ですので、ただ八の宮さまお一人の蔭に隠れ、三十余年を過してまいりました。今となっては野山に流離いましても、どのような木を頼りにしてよいものか……」
ますますみすぼらしく身を縮める。
八の宮の居室を開けさせると、塵が厚く積もり、ただ仏像に供えた花だけが以前と変わらず瑞々しい。勤行していたらしき床は取り去られ跡形もない。薫は、自分が本願を遂げた暁には、と故宮と約束していたあれこれを思い出し、
「立ち寄った蔭と頼んだ椎の本は
むなしい床となってしまった」
※優婆塞が行ふ山の椎が本あなそばそばし床にしあらねば(宇津保物語-二一二)
と詠んで柱に寄りかかった。若い女房たちがその姿を覗き見してはつつき合う。
日がとっぷりと暮れた頃、田舎びた者たちが大挙してドヤドヤとやってきた。薫自身も知らなかったのだが、供人が帰りの用意にと薫所有の荘園へ馬の秣を取りにやったところ、
「中納言殿がお渡りか!ご用聞きに伺わねば!」
となったらしい。
(うわーちょっとやめて……お忍びで来たのにバレバレじゃん)
薫は焦りつつも、此方の山荘に旧知の老女房がいるから、ということにして誤魔化した。さらに、
「今後は此方にも参上して、用向きを伺い働くように」
と荘園の人々によく言い含めて、薫一行は京へと出立した。
参考HP「源氏物語の世界」他
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