橋姫 四
十月になった。
薫は五、六日あたりに宇治を訪れることとした。
「この季節なら網代川ですよ!旬の氷魚(鮎)漁を是非ご覧になってください!」
と勧める者もいたが、薫は乗らない。
「蜉蝣(ひおむし)とどちらが儚いかという私が、氷魚とり見物を愉しむなどと」
却下して、いつもと同じくお忍びの体で出立する。気軽な網代車で、目の詰まったかとりで縫わせた直衣と指貫という地味な格好だ。
待ち受けた八の宮は大いに喜び、地元の食材をふんだんに使った山里らしい趣の饗応でもてなした。
日が暮れると灯りを手元に置き、以前から読みさしてある経文類について、山寺から呼びつけた阿闍梨に講釈させる。皆まんじりともせず夜を徹しての講義である。
吹きすさぶ川風に木の葉が散りしきる音、とどろく水の響き……晩秋の山荘は物寂しいを通り越し、そこはかとなく恐怖を感じる程心細い有様であった。
ようやく明け方も近づいたかという時、薫はあの垣間見を思い出し、
「それにしても琴の音というものは身に沁みますね。前回霧に迷わされた日の曙に、珍しい楽の音を一節ばかり拝聴いたしましたが、ほんの僅かな間でしたので物足りず、今も残りを聴いてみたくてたまりません」
と切り出した。八の宮は、
「色も香もとうに捨てた身ですから、昔耳にしたこともすっかり忘れてしまいまして」
と言いつつも、家来に琴を持って来させた。
「いや本当に似合わなくなりました。先導していただける音があるなら思い出すかもしれないが」
宮は琵琶も召し出して薫に勧める。薫は手に取って調子を合わせ、爪弾いた。
「私がほの聞いた音色は、本当にこの琵琶から出ていたのでしょうか?同じものとは思えません。弾き手が違うとこうも変わるものか……とても私などが気軽には」
「よくもそんなお上手を仰る。貴方のお耳に留まるような熟練の音色が、いったい何処からこの宇治まで伝わりましょう。ありえませんよ」
宮は笑って琵琶を掻き鳴らす。その音色は深く、ぞっとするほど心に響く。ひとつには「峰の松風」の効果もあっただろう。忘れたという体でたどたどしく自信なげに弾くも味わいがある。宮は一曲だけ披露してすぐ止めてしまった。
※琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒より調べそめけむ(拾遺集雑上、四五一、斎宮女御)
「この辺りで思いがけない折々にほの聴く筝の琴の音は、なるほど心得ていると感心することもありましたが、さして気にもかけないまま久しくなりました。それぞれ心に任せ掻き鳴らして、打ち合わせるのは川波ばかり。もちろん既定の拍子など何も身についていない我流にすぎません。それでもよろしければ――これ、ひと節鳴らしてみなさい」
と、姫君たちのいる方に声をかけた。
「知らぬ間に独り琴を聴かれてしまっただけでもいたたまれないのに、まして今弾けなんて無理……」
とばかりに、姫君たちは引っ込んで沈黙を守っている。宮が何度か促しても、何かと言い逃れをして弾かないので、ついに諦めてしまった。薫は残念でたまらない。
宮は宮で、頑として父の言うことを聞かなかった娘たちの態度に驚き、
(なんてことだ、客人の前で無粋な。こんな風に育てたつもりはなかったのに……恥ずかしい)
思わず薫に正直な気持ちを吐露した。
「姉妹の存在を誰にも知られまいと育ててきましたが、今日明日ともわからない私の寿命の残り少なさを考えますと、先の長い二人はまず落ちぶれて路頭に迷ってしまうでしょう。ああ……私が世を離れられないでいる、唯一の絆しそのものです」
ストレートに将来の不安を語った宮に、薫は同情を禁じ得ない。
「表立った後見役といったような明確な形ではなくとも、私を身内同様に思し召しいただければと存じます。私の方が少しでも長く生きている限りは、あの時こんな風にお引き受けしたと、一言たりとも違えないように計らいますので」
「おお、何と嬉しいことを」
薫の言葉に宮も感激する。
そうこうするうち夜明けも近づき、宮は勤行のため仏間に移った。
薫はあの老女房・弁の君を呼び出して面会する。
弁の君は姫君たちの世話役として仕えている。六十にあとすこしで届く年だが、雅やかで教養を感じさせる。
故・柏木権大納言がずっと女三の宮に恋い焦がれていたこと、ついに思いを遂げたこと……悩みに悩んで病を患い、若くして世を去ったこと。老いた女房は事細かに語りながら泣きに泣く。
薫も、
(確かに、まったく無関係の他人だとしても気の毒な話だ……まして長年モヤモヤしたまま、知りたくても知ることができなかった真相そのもの。いったい何がどうなっているのかはっきり教えてくれと、仏にも祈願し続けて、今ようやく……この夢のように哀れな昔語りを聴いている。何という巡り合わせだろう)
涙を堪えきれない。
「それにしても、よくぞ当時の事情を知る人が生き残っておられたものだ。この驚くべき、恥ずかしくも思えるこの話、他にも誰か伝え聞いている人はいる?これまで少しも私の耳に届くことはなかったけど」
「小侍従と私以外には知る人はおりません。一言たりとも他人には打ち明けてございませんので……ご覧の通りの頼りない、取るに足りない私でございますが、昼も夜もかのお方のお傍にお仕えしておりましたから、自然ことの経緯をも見聞きしておりました。どうしても胸に納められない折々に、ただ小侍従と私二人の間だけでやり取りをいたしただけです。畏れ多いことですので詳しくは申し上げられませんが……かの方が今わの際にいささかの遺言をされましたものの、私の立場ではどうにも対処しようがなく――今までずっと気にかかっておりました。どうやってお伝えすればよいのかと慣れぬ念誦のついでにも祈っておりましたが、やはり仏は此の世にいらしたと思い知った次第です。ご覧に入れたい物もございます。いえ、もうお話した以上必要無いですから、いっそ焼き捨ててしまいましょうか。いつ朝夕の露と消えるかわからない私が放置したまま儚くなり、他人の目に触れては、と気が気ではございませんでした。この邸近辺に時々お立ち寄りになられる薫さまをお待ち申し上げるようになってからは、少々気が楽になりまして、きっとよい折があるだろうと――祈っていた効験が出てまいりましたんでしょう。まことに、此の世ならぬ成り行きにございます」
弁の君は泣きながらも細々と語る。薫が産まれた時のこともよく覚えていた。
「柏木さまがお亡くなりになりました騒ぎで、乳母である私の母もやがて病みついて、間もなく世を去りました。不幸続きにますますがっくりしてしまって、喪服も脱ぐ暇なく悲しみに沈んでおりました。その頃、長いこと私に懸想していた身分の低い男にほだされて、西海の果てまで連れて行かれ、京との縁すら途絶えてしまい……再び上京しましたのは、彼方でその者が亡くなりましてから十年余り経った後。まるで別世界に来たような心地がしました。八の宮さまは父方の関係で、子供の頃からよく出入りしていたご縁がございまして……私ももう派手な世間づきあいができるような身分ではありませんが、冷泉院におられる弘徽殿女御さまなどは昔、お話ばかりはよく伺っておりました。そちらにお仕えをお願いしてもよかったのですが、気が引けてしまって言い出せませんで……こうして『深山隠れの朽木』になっているわけでございます。小侍従はいつ亡くなったのやら……当時若い盛りと見た人はもう数少なくなりましたこの晩年、多くの人に先立たれました我が命を悲しく思いながらも、まだこうして生き永らえております」
※形こそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ(古今集雑上、八七五、兼芸法師)
などととりとめもなく語るうち、例によって夜が明けてしまった。
「なんと、この昔語りはいくら聞いても終わりがないね。今度また、人に聞かれない安心な場所で聞くよ。小侍従という女房はうっすら覚えている。五歳か六歳の頃だったか、急に胸を病んで亡くなったと聞いた。ここで弁の君に会わなければ、何も知らずに罪障深い身で過ごしてしまうところだったよ」
弁の君は、古ぼけた袋に縫い込んだ黴臭い反故紙を取り出した。堅く細く巻きとめてある。
「貴方様の方で処分してくださいませ。柏木さまが、
『私はもう生きていられなくなった』
と仰って取り集め、下げ渡された文です。小侍従にまた会う機会がありましたら、きっと薫さまにお届けしてもらおうと思っておりましたが叶わず……私事ながらいつまでも悲しみが尽きないことでございます」
薫は無表情のまま、渡された袋をそっと隠した。
(得てして年寄りってこんな風に、誰も聞いてないのにずーっと喋り続けたりするよね。何やかんや不思議な話が~ってポロっと漏らしたり、は本当にないのかな。いや、あれほど何度も繰り返し、他言はしなかったと誓ってるし、まさかね)
考えると気が気ではない薫である。
勤行を終えた八の宮と薫はともに粥や強飯などの朝食を取った。
「昨日は休暇でしたが、今日には内裏の物忌も明けます。冷泉院の女一の宮のご病気お見舞いにも伺わないといけません。何やかやと暇がありませんがうまく調整して、山の紅葉が散らないうちにまた参上いたします」
薫の言葉に宮は、
「このように度々お立ち寄りくださるお蔭で、山の隠居所もすこし明るくなる心地がいたします」
と喜んで応えた。
薫は帰京するや弁の君に貰った袋を取り出した。
唐の浮線綾で「上」という文字が表に書いてある。口の方を結んでいる細い組み紐、そこには――柏木―― の名が書かれた封印。おそるおそる開いた。
色とりどりの紙。たまさかに交わした文の返事が五、六通。
それぞれに柏木の筆跡で、
―――病は重くもう臨終も近い。僅かばかりの文を書くのも難しくなったが、会いたいと思う気持ちは増すばかり。お姿を変えられたとのこと、悲しく承った――
というような内容が陸奥紙にぽつりぽつりと書き散らしてある。奇妙な鳥の足跡のようにおぼつかないのは病のせいか。
「目の前の現世に背を向けられた貴女よりも
お目にかかれず世を去りゆく私の魂こそが悲しい」
端の方にも走り書きがある。
「めでたく産まれた二葉のこと、私ごときが心配する筋合いはございませんが、
命あらばあれが我が子だと見ましょう
人知れず岩根に残した松の成長ぶりを」
書きさしたように乱れた字で、「小侍従の君に」と表書きがある。
紙魚という虫の住処になり古びて黴臭かったが、筆跡は消えず、たった今書いたものとも違いはない。言の葉のひとつひとつが形となり意味をなし、切々と訴えかけて来る。
(弁の君の言う通り……これは人目に触れさせてはならないものだ)
実の父であろう男の悲痛な手紙。哀れでもあり、また罪深くもある。
(こんなこと……此の世に二つとあるだろうか。あまりにあまりな……)
薫はますます人に言えない煩悶を抱えてしまった。
内裏に参上しなければと頭では思っているのに出られない。
ひとまず入道の宮のもとに向かう。
若い母は子供のように無邪気なさまで読経している。薫の姿を認めると、恥ずかしがって経文を隠してしまった。
(どうやってこの母に、私が知っているとわからせようか……いや、そんなこと出来るわけがない。こんな……未だ悟りには遠い、幼いままの母にはきっと受けとめきれない)
薫は千々に乱れる心を胸ひとつに押し込めた。
参考HP「源氏物語の世界」他
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