おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

橋姫 三

2021年9月29日  2022年6月9日 



  秋の末、宇治では四季に合わせての念仏を行う。川べりにある山荘ではこの季節、網代の波もひときわ耳障りでとても静かにとはいかない。八の宮はあの阿闍梨の住む山寺の堂に移り、七日間ほど籠って勤行することとなった。その間姫君たちはいっそう心細く、所在なさも増してただぼんやりと過す。

 ちょうどその頃、

(そういえば久しく伺っていない)

 と思い立った薫、まだ夜も深い、有明の月がようやく差し出る時間に京を出た。人目に立たないよう供も最小限、身なりも質素にした。

 川のこちら側なので舟も必要なく、馬で行く。山に入り込むうち霧に塞がれ、道も見えない繁木の中を突き進む。荒ぶる風の勢いにはらはら乱れ散る木の葉の露がつめたく降りかかり、すっかり濡れてしまった。

 こんな山路の夜歩きなどしたことのない薫には、心細くもあり面白くもある。

「山おろしの風に堪えられぬ木の葉の露よりも

不思議に脆い我が涙よ」

 山住まいの民を起こしては面倒だと、随身の音もさせない。柴の籬を分け入って、そこはかとなく流れる水を踏みしだく馬の足音も、極力静かにと注意していたにも関わらず――紛れようのない匂いが風に漂い「主知らぬ香」と目を覚ます家々もあった。

ぬし知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎ掛けし藤袴ぞも」(古今集秋上、二四一、素性法師)

 山荘に近づくと、琴か何かも聞き分けられないほど微かな楽の音が流れて来た。

(もしや姫君たちの……はたまた八の宮の名高い琴の音?どちらにせよ願ってもないチャンスじゃないか!)

 とばかりに敷地内に入ると、音の正体は琵琶の響きであった。「黄鐘調」に調律したよくある掻き合わせだが場所柄か、得もいわれぬ音色である。掻き返す撥の音も清新で面白い。合間合間に、筝の琴の心にしむ優美な音が挟まる。

 薫は暫く静かに耳を傾けていたが、その気配はやはり隠しようがない。宿直人らしき男が慌てて出て来た。

「かくかくしかじかの理由で宮は山寺にお籠りあそばしておられます。すぐお知らせを差し上げましょう」

「いや、その必要はないよ。日数を限った勤行なのに途中でお邪魔しては申し訳ない。それより、こうして濡れ鼠で参上したのにみすみす帰る哀しみを姫君たちに申し上げて、まあお気の毒にとお声をかけていただければ満足かな」

 薫がそう言うと男は醜い顔をほころばせて、

「さように申し上げましょう」

 と立ち上がる。

「いや、ちょっと待て」

 薫は男を引き留め、さらに招き寄せる。

「長い間人伝てに聞くばかりだった琴の音をやっとこの耳で聴くことができたんだ。良い機会だからもう少しこのまま、隠れて聴けるような適当な場所はない?今来ましたよ~ってずかずか近づいていったら、きっと弾くのをやめてしまう。それじゃ意味ないからさ」

 至近距離でこう言われた男、無骨者なりにそのただならぬ気配と容姿の美しさに畏れおののきつつ、

「誰もいないときには一日中弾いておられますが、たとえ下人であっても都の方から参った者が立ち交じっている時には、音も立てられません。大方、こんな風に姫君がいらっしゃることをお隠しになり、世間にも知らせまいとの思し召しなのでしょう」

 と言った。薫は笑って答える。

「意味がないね。どれほどお隠しになろうと、人は皆、世にも稀なるお方として噂せずにはおかないだろうに。さあ、案内して。私にはよからぬ下心などない。ただこれほどの山奥に住まわれながらこうして音楽を嗜まれていらっしゃる、それが不思議で珍しい、それだけだよ」

「滅相も無い……弁えのない者と後で叱られてしまいます」

 男はそう言いつつも、姫君のいる周辺は竹の透垣を巡らせてあり、他と違うのですぐわかる、とこっそり教えた。薫の供人は皆、西の廊に呼び集めて接待中である。

 薫は、姫君たちの住まいに通じているという透垣の戸をそっと押し開けて、中を覗いた。良い感じに霧でぼやけた月の下、簾を短く巻き上げて女房達が座っている。簀子にはいかにも寒そうに痩せてみすぼらしい形の童女が一人、同じような大人が一人。内側にいる一人は柱に少し身を隠しつつ、琵琶を前に置いて撥を弄びながら座っている。

 ふいに雲が切れ、月がぱっと明るく輝いた。

「扇ではなくこの撥でも、月を招き寄せられそうね」

 と外をうかがうその顔は、たいそう愛らしく艶やかだ。

 すぐ傍で伏している人は、琴の上に身を持たせかけて、

「入り日を返す撥ならわかるけれど月は……誰も思いつかないことを仰るのね」

 と笑う。此方はもう少し大人びて威厳がある。

「そこまでは出来なくても、これだって月に縁がなくはないでしょう?」

 撥を収める所を「隠月(いんげつ)」と呼ぶから、ということらしい。たわいもない雑談にさんざめく姫君たちの飾らない姿は、薫が頭で想像していたのとはまるで違った。たいそう可愛らしく慕わしく、感じが良い。

(昔物語とかで語られる場面そのままだ。若い女房が読んでくれる物語って決まって、昔々あるところに美しいお姫さまがひっそりと隠れ住んで……って始まるから、そんなのあるわけない、作り事だと思い込んでた。本当にこういう、隠された綺麗な世界があるんだ)

 薫はすっかり魅入られてなお目を凝らすが、霧が深くはっきりは見えない。

 やっと月が明るく差し出たかと思えば、奥の方から「お客さまです」と告げる女房の声に、簾を下ろして皆中に入ってしまった。うろたえた風もなく、ごく穏やかな仕草でさり気なく隠れる気配である。衣ずれの音もしないのは着馴れて古びた衣裳だからだろうか。いたわしくも気高く雅やかな立ち居振る舞いに、薫は強く心惹かれる。

 そっとその場を去り、帰りの車を手配すべく家来を走らせた薫は、先ほどの男に、

「折悪しく宮にはお逢い出来なかったが、かえって嬉しく、すこし心も癒されたよ。姫君たちに私が来たということを伝えてくれ。露に濡れそぼったという愚痴もね」

 と命じた。

 伝え聞いた姫君たちの方はまさか覗かれていたとは思いも寄らず、ただすっかり気を許して琴を弾いていたのが聞かれたかとそればかり気にしていた。

「そういえば妙にかぐわしい風が吹いていましたわ……誰もいないものと思い込んでいました」

「あの香りで気づかないなんて、何て迂闊なの」

 二人とも動揺し、ただただ恥じらうばかりである。

 取り次ぎをするにも物慣れた女房などいるはずもなく、一向に誰も出てくる様子がない。

(仕方ない。臨機応変に行こう)

 薫はまだ晴れない霧に紛れ、姫君たちのいる御簾の前に歩み出て簀子に座り込んだ。

 山里の、田舎びた若い女房たちはどう言葉を差しはさんでよいかもわからず、茵を差し出すにもオロオロする始末である。

 薫は、

「御簾越しでは、どうにも居心地が悪いですね。一時の浅い思いつきだけなら、これほど繰り返し尋ね来るべくもない険しい山越えですのに、何とも風変りなお扱いで。露に濡れつつ日を重ねて通いました私のこと、きっとご存知だと期待しております」

 至って真面目な態度で言った。

 若い女房達はすらすらと言葉も出ず、ただ消え入りそうに恥ずかしがっている。見かねて奥深くにいる年配の女房を起こしに行かせたものの、それにも手間取る。間が持たない辛さに堪えかねたか、

「何もわからない有様のわたくしたちが、どうして知った顔でお応えできましょうか」

 と奥ゆかしく気品のある声が、奥に引っ込みつつかすかに応えた。大君である。

 薫は、

「何もわからないことはないでしょう。辛さなど知らない顔をするのは世の習いと存じますが、他ならぬ貴女があまりに空々しい言いようをなさるのは如何なものか。万事悟り澄まされた尊い宮と暮らしておられる貴女のお心のうちも、きっと涼しいものと推察しております。私の、堪えきれず滲み出た心の深さ浅さのほども見分けて下されば、今日ここに伺った甲斐もあることと存じます。あ、世間でよくあるチャラい男とは区別してくださいね?恋愛沙汰に強く引っ張り込もうとする者があっても、靡くことはない心強さが私にはあります。元よりお聞き及びでもありましょう。とりとめもない世間話など聞いていただける方としてお頼み申し上げたく、其方も俗世間を離れて物思いするばかりの紛らわしにでも、すすんで私にお手紙をくださるほど馴れ親しんでいただければ幸いに存じます」

 などと長々語ったものだから、大君はかえって気が引けて答えにくくなってしまった。そこにちょうど先ほど呼びにやった老女房が起きて来た。

 弁の君と呼ばれるこの老女房は何とも出しゃばりな態度で、

「まあ、勿体ないこと!失礼な御座所でございますねえ。さあさ、廂の内にお入りくださいまし。若い女房は物の道理も弁えず困りますわ」

 などとしゃがれ声でまくしたてる。

(余計に失礼なのでは)

 と姫君たちは内心ハラハラするが、弁の君はまるで意に介さない。

「まことにおかしな話ですが、俗世に住まわれる人の数にも入らぬお暮しぶり、当然おいでになるべき人たちですらすっかりお見限りになられ、音信不通になるばかりにございます。そんな中での薫中将さまのありがたきお心ざし、数ならぬ者の私でも目を見張るばかりですもの。姫君がたもお若いながらよくご存知でいらっしゃるはずです、ただ口には出されないというだけで」

 あけすけで馴れ馴れしい話し方が小面憎いが、人あしらいに相応の格式があり、教養を感じさせる口上と声色づかいなので、薫もほっとして、

「まったく取りつく島もないと感じておりましたところ嬉しい仰りようですね。何事もご存知であったとの由、頼もしい限りにございます」

 少し内側に近づいた。曙の光が射し、徐々に物の色目も見分けられるほど明るくなってきたところ、薫の露に濡れた狩衣姿が几帳の隙間から目に入る。

「なんという……此の世ならぬ匂い」

 と女房達がざわめくほどにさっと香り渡る。 

 突然、弁の君が泣き出した。

「出過ぎた者とのお咎めもあろうかと思い控えておりましたが、おいたわしい昔話をどのような機会にお話し申し上げ、片端なりともお耳に入れようかと、長年念誦の度に願い続けておりました験がありました……なんと嬉しい折でございましょう、お話しする前に涙が込み上げて、とても申し上げることができませんわ」

 としゃくりあげる様子は、本気の涙に見えた。

 薫も大体において老人は涙もろいものと見知ってはいたが、それにしてもここまでは……と不思議に思い、

「此方には何度となく参上したが、物のあわれを知る方もなく、露めいた道中に独り濡れそぼつ始末だよ。嬉しい折ということならなおのこと、すっかり話してみよ」

 と水を向けると、弁の君は、

「このような機会はもうございませんでしょう。もしあったとしても、この婆の明日をも知れぬ寿命など当てにはできません。ならば、ただこのような老人が世にいたとだけお見知りおきくださいませ」

 震える声を抑えながら語り出した。

「三条宮に仕えていた小侍従は亡くなったらしいと聞きました。その昔、親しくしておりました同じ年回りの人の多くが世を去った末に、遠い地方の国より人づてに上京して参りまして、この五、六年は此方の宮にお仕えしております。きっとご存知ではないでしょうね……今は藤大納言と申し上げる方の兄君、右衛門督の頃お亡くなりになられた方のこと、何かの話のついでにでも伝え聞かれたことはおありでしょうか?あの方が世を去られてからいくばくも経っていない気がいたします。あの折の悲しさも、まだ袖の乾く間もなく存じられますのに、貴方がこれほどまでに大きくなられるほどの年が過ぎたのも夢のようで。亡き右衛門督――柏木権大納言の乳母として仕えておりましたのが、この弁の母にございます。朝夕親しくお仕えいたしましたが、物の数にも入らぬ私には、誰にも言えずお心に余られたことのみ時折チラっと洩らされる程度でした。今わの際となられた病の末期に呼び寄せられて僅かに遺言なさったことがございます。是非お耳に入れなければならない仔細が一つだけ……ここまで申し上げましたところで残りもと思召すお心がございましたら、改めてゆっくりと全てをお話しいたしましょう。今は、若い女房達にも婆がみっともない、出過ぎた真似をと非難されても仕方がないですから」

 弁の君はみなまで言わずに口を閉じた。

(なんと不思議な。夢語り?もしくは巫女のようなものから問わず語りに語られたような……こんな話は聞いたことがない)

 薫自身、以前から真実を知りたいと思い続けて来た筋のことである。先を聞きたくてたまらないが、確かにこの人目も多い中、不用意に老女房との昔話を日が高くなるまで続けるのは得策ではない。

「はっきり思い当たるようなことはないが、昔の事と聞くと心打たれる感じはするね。では、いつか必ずこの残りを聞かせてくれ。霧がすっかり晴れてしまえば、このみすぼらしい旅やつれが露わになり、恥ずかしげもない不作法者とお咎めを受けることにもなろう。私としてはまだまだ此方にいたい気持ちだが……残念でならないよ」

 薫が立ち上がったちょうどその時、八の宮が籠っている寺の鐘の音が微かに聞こえてきた。霧はさらに深くたちこめる。

 峰にまつわる八重雲を思いやるにも隔ての多さに胸が痛むが、姫君たちの心の内を思うとさらなる同情の念もわく。

(どんなに物思いをし尽していることか。これほど引っ込み思案でおられるのも道理だ)

 薫は大君あてに歌を詠んだ。

「夜明けだが家路も見えない

尋ね来た槇の尾山は霧が立ち込めている

 心細いことですね」

 霧に包まれ立ち止まる薫の姿は、見慣れた都人ですら息を呑みそうな佇まいであった。ましてこの深山に暮らす人々はどうだったか。見惚れるばかりでとても返事などできそうにない女房たちに代わり、またも大君が遠慮がちに詠んだ。

「雲のいる山路を秋霧が

ますます隔てているこの頃です」

 かすかに嘆息する気配に、薫は胸を打たれる。

 恋の風情も何も弁えない女房たちに囲まれて、これまでその不足すら知らずに過ごして来た若い姫君たち。何ともいたましい。

 思ううちにも夜はしらじらと明けていく。恋を語るに相応しい時間はもう過ぎた。それどころか直に顔が晒されかねない。薫は、

「なまじお言葉をいただいたがために、中途半端感が否めませんね。もう少し顔なじみになりましてから、残りのお恨みも申し上げることといたします。とはいえ私を世間並の男と同じようにおあしらいになられるなら、心外ですし物わかりの悪い方だと恨みましょう」

 とだけ言うと、あの宿直人が整えた西面に移動して休んだ。

 近所回りをしていた供人達が話している。

「網代川は今混み混みだよ」「何か獲れるのかね?」「いや、それが氷魚すら寄りつかないみたいでさ。人が多い割には盛り上がってない。シュンとしてる」

 薫は、

(粗末な舟に刈った柴を積み込んで、それぞれ何てことのない暮らしの営みとばかりに行きかう者どもか。頼りなく水の上に浮かんでいるが、誰も彼も思えば同じこと、無常の世だ。私だけは浮かばない、玉の台の上で安泰だとどうして考えられようか)

 と密かに思う。

 硯を持って来させて、姫君たちに手紙を書いた。

「橋姫の寂しい心を汲んで浅瀬を漕ぐ

 棹の雫に袖を濡らしています

さぞかし物思いに沈んでおられることでしょう」

さむしろに衣かたしきこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集恋四、六八九、読人しらず)

 あの宿直人を呼ぶと、ひどく寒そうに震えながら届けに行った。

 受け取った姫君たちはさあ大変である。

 返事をどうするか。紙ひとつとってもいい加減な焚き染め方では恥ずかしいと思うものの、この場合速さを優先すべき、となった。

「棹さして何度も行きかう宇治川の渡し守は

朝夕の雫に濡れてすっかり袖を朽ちさせることでしょう

 身まで浮かんで」

 実に美しく書かれた手紙に薫は、

「ああ、完璧だ。とても良い」

 といたく感激したが、ちょうど

「車を率いて参りました」

 と家来たちが口々に騒ぎ出した。帰り支度をせねばならない。

 薫は宿直人だけを召し寄せて、

「八の宮がお帰りになられた頃、またきっと伺うよ」

 と言づける。濡れた衣服はすべてこの男に与えてしまい、自身は取り寄せた直衣に着替えた。 


 薫は都に帰った後も、あの老女房の話がずっと心にかかって離れない。予想以上にハイレベルで優れていた姫君たちの様子も忘れられず、

(やっぱり中々捨て去りがたい此の世だよね)

 と自らの心の弱さを思い知らされる。

 早速手紙を出した。懸想文じみた体裁ではなく、白く厚ぼったい色紙に、上等の筆を見繕い、墨つきも気合を入れて書く。

「ぶしつけすぎるかとやむなく止めましたが、言い残したことが多すぎて苦しゅうございます。先にも少し申し上げましたが、これからは御簾の前も心安くお許しいただきたく。八の宮の山籠もりが済む日をお知らせください。霧に閉ざされた迷いも晴れることでしょう」

 ごく生真面目な文面である。左近将監という家来を使いにやり、

「弁の君とかいう老女房に渡すように」

 と命じた。宿直人がいかにも寒そうにあれこれと用向きをこなしていたのを哀れに思い、食べ物の入った大きな桧破籠なども沢山差し入れた。

 翌日は八の宮が籠る山寺にも、 

「山籠もりの僧たちも近頃の嵐にはたいそう心細く辛い思いをしているだろう。宮が籠っていらっしゃる間の布施くらいは出してやらないと」

 と気を回して、絹や綿など多くの捧げものを贈った。

 勤行が終わり宮が下山する朝には、ともに籠った修行者たちに綿、絹、袈裟、衣などすべて一領ずつ、大徳たち全員に配った。

 宿直人は薫が脱ぎ与えた麗しくも立派な狩衣、得も言われぬ白綾の柔らかな単衣――例の佳き薫りが染みついている――をそのまま身に着けるも、中身が変わるわけもない。似つかわしくない袖の香りを会う人ごとに指摘されるやら褒められるやらで、かえって居心地が悪い。

 この衣装のせいで思いのまま気軽に振る舞うこともできず、かといって捨ててしまうには勿体ない。気味が悪いほど他人をおどろかす匂いを無くそうとすすいでも、相手は名だたる「薫の君」である。移り香はそうそう取れるものでもなく、たいそう扱いに困ったとか。

 

 薫は、姫君からの返事がよく整っていて若々しいと喜んだ。

 宇治でも、山寺から帰って来た八の宮に、

「薫中将さまからこのようなお手紙が来ました」

 と女房達が申し伝える。宮は、

「何、どうということもあるまい。色めいた文と受け取っては却って失礼にもなろう。普通の若者とは違ったお心ばえのようだからね。私に万一のことがあればよろしくと一言ほのめかしておいたものだから、そのつもりでお心にかけてくださっているのだろう」

 と言って、自身でもたっぷりと届けられた贈り物への礼状を書いた。

 薫はそろそろ宇治に行こうかと考えていたが、

(そうだ。匂宮がよく言っていたな、

『奥深ーく隠されてた女に実際会ってみたら、思った以上によく見えるって説面白いよね』

 って。どうせ想像だけなんだろうから、この話をして羨ましがらせてやろう)

 と、暇のできた日の夕暮れに匂宮を訪ねた。

 いつものようにさまざま話を交わすうち、薫は宇治に住む八の宮の話題を切り出した。姫君たちを垣間見た暁の情景を詳細に語ると、匂宮は俄然食いついてきた。

 案の定だとほくそ笑む薫、宮の顔色を見つつさらに心を動かすべく話し続ける。

「え、姫君からの返事ってどんな?見せてくれないの?私なら絶対薫には見せるけど?」

 焦らされた匂宮は文句タラタラである。薫は、

「何言ってるんだか。あちこちでいろいろあるらしいけど、端っこすら見せてくれたことないじゃないか。ま、あの宇治の辺りは、こんな陰キャな私が独り占めしていい相手ではございませんから?きっとご覧に入れて差し上げましょうって思いだけはあるけど、どうやって宇治くんだりまで行く気なの高貴な親王さまが。だいたい大したことない身分の方がこういう時は速いし簡単でいいよね。どうせ君は隠れて散々チャラチャラしてるんだろうけど」

 ここぞとばかりに言いたい放題である。さらに、

「そこそこイケてる女子が物思わしく隠れ住むパターンって、山里めいた片田舎にはままあるみたいだよ。今私が話した辺りは超のつく浮世離れした感じだから、きっとガッチガチのお堅い女子なんだろうと長年思い込んで、正直バカにしてた。耳すら留めなかったね。大間違いだった」

 匂宮の顔を真剣なまなざしで見つめ、ゆっくりと、

「あるかなきかの月光の下で見たあの通りなら、相当の美女だよ。雰囲気や身のこなしも完璧。まさに理想的といっていいね」 

 断言した。

 すっかり引き込まれた匂宮は本気で薫を憎らしく思いつつ、

(並大抵の女には靡かない薫が、ここまで言うなら余程のレベルにちがいない)

 と、「宇治の姫君」に会いたいとの思いは否が応でも高まるばかりである。 

「薫、これからもよくよく様子を見て来てくれよ!」

 人に頼むしかない我が身の窮屈さが疎ましく、腹立たしく思っている宮の心の内が丸わかりなので、薫はおかしくてたまらない。

「いや、そこまで言うほどのことでも。つまらないことだよ。私はほんの少しでも此の世に執着を持たないよう心掛けて、お遊びの色恋沙汰すら控えてるっていうのに……抑えきれない恋心なぞ抱いたら、大いに思惑違いのことも起こりそうで心配だな」

「まーた出たよ、ホントいっつも大げさだよね。その事々しい、聖人ぶった物言いがいつまで続くものやら見てみたいよ」

 匂宮も笑った。

 薫の心の内は実のところ、あの弁の君がほのめかした話で占められていた。宇治の姫君の美しさだの気立ての良さだのにはさほど関心が向いていなかったのだ、この時点では。

<橋姫 四 につづく

参考HP「源氏物語の世界」他

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