夕霧 十一
再び一条宮邸より、小少将にございます。
落葉の宮さまはあれ以来ずっと、塗籠の中に立てこもっておられます。
「いつまでもこうして隠れているわけにもまいりませんでしょう。幼稚でわからずやなお方だという噂が立ちかねません。いつもの御座所にて仰るべきことを仰ってくださいまし」
女房一同で異口同音に申し上げましたが、出ようとはなさいません。
もちろん道理はお分かりでいらしたのです。ですが、既にさまざまなお噂が立ち今後も止むことはありません。
(今まで、亡き夫の従兄弟で親友という夕霧さまを真面目で親切なお方と信頼してきた……その結果がこれ。誰よりわたくし自身が腹立たしい。それもこれも、夕霧さまのお振舞いのせいで)
といったところでしょう。一夜明けた今日も対面は断られました。
「嘘でしょ。さすがにどうかしてるんじゃない?」
夕霧さまは言葉を尽くして思いのたけを吐露されます。取次ぎをいたします私たち女房もいたたまれません。
「『僅かでも人心地がついた折に、お忘れでなければ何なりとお返事いたしましょう。故御息所の服喪期間中は、せめて他のことで頭を悩ませずに過ごしていたいのです』とそれだけを願っていらっしゃいます。生憎なお噂が知らぬ人もなく回っておりますのも、いたく気に病んでおられるようで」
と申し上げますと夕霧さまは、
「だから私の思いは普通の人とは違って盤石ですって……。まったく、思いもかけない目に遭うものだ」
と嘆かれつつ、
「今はいつも通りのご様子?だったら物越しにでも気持ちだけを申し上げ、お心を傷つけるようなことはしません。何年でもきっとお待ちいたしましょう」
言葉を尽くされますが、宮さまは、
「母君を喪った悲しみも癒えないうちから無理を仰られるのが本当に辛い。他人がどう聞くかどう思うかも、内親王という身分ではいい加減に済まされないことだけれど、それより何よりドサクサの勢いで結婚してしまおうという、そのお心がまえがどうしても受けつけない」
と繰り返し抗弁されるばかりです。ええ、もちろん直にではなく女房づてで。
(だからって、いつまでもこのままでいられようか。いつか必ず外にも漏れてしまう)
夕霧さまがこう思われるのも当然のことでした。外聞が悪いことこの上ないですし、女房たちの目も気になるでしょう。
「内々には宮のお心に適うようにしよう、暫くの間はね。しかし余りにも往生際が悪すぎじゃない?情けない。私がこの状況に嫌気がさして此方に来なくなったら、それこそ宮の評判が酷いことになる。自分の思いばかりに拘って、大人げない態度でいらっしゃるのは困ったものだね」
いやまったく仰る通りにございます。もうここに至っては、世間はお二人を夫婦としか見ません。喪中だから云々というのは宮さまだけの拘りであって、誰もそんなこと気にしてはいないのです。それより、一介の女房ふぜいが左大将という地位の殿方を水際であしらい続けるのにも、もうそろそろ限界がみえてまいりました。
塗籠は、掛け金を内側から外さない限りは入れません。ですが、実は北側にもうひとつ口がございまして、其方は常時無施錠です。私たち女房は普段そこから出入りしておりました。
私は夕霧さまに目くばせをしてご案内し、音を立てないよう気をつけて戸を開けました。
「……えっ?!何故……誰か、小少将はどこ?!」
宮さまのお声に私は耳を塞ぎたくなり、塗籠の戸をほんのわずかの隙間を残して閉めました。きっと酷い女房だと、もう味方は一人もいないのだと怒り、嘆かれていらっしゃるでしょう。
夕霧さまは懸命に理を説かれるだけでなく、心に響く言葉を数多尽くされましたが、宮さまはますます殻に閉じこもるばかり。さすがの夕霧さまもたまりかねたか、
「いやもう、ここまで酷い男かのように思われていることがこの上なく恥ずかしい。迂闊にも『あるまじき心』を抱いてしまったことを悔やむばかりですが、取り返しがつくものでもありません。今更評判が元に戻りましょうか。この際仕方のないこととお諦めください。思い通りにならないからと深き淵に身を投げる、という例もありますが、私のこの想いを『深き淵』になぞらえて、どうぞ御身を投げてください」
※身を捨てて深き淵にも入りぬべし底の心の知らまほしさに(後拾遺集恋一-六四七 源道済)
とまで仰いました。宮さまは最後の抵抗とばかりに、単衣の衣を髪ごとひき被り声を上げて泣いておられます。あまりに憐れでおいたわしいそのお姿に夕霧さまは何を思われたでしょうか。
(なんという……本当に駄々っ子のようだ。どうしてここまで嫌われなきゃならないんだ。どんなに強情な人でも、ここまで時間をかければおのずと心が緩む気配も見せるだろうに。岩や木じゃないんだから……前世の宿縁が薄すぎるために相手を憎むことがあるっていうけど、そう思ってらっしゃるんだろうか)
(あんまりだな……三条の雲居雁は今頃どうしているだろう。昔、何の疑いもなくお互いに思い合っていて……長いこともう安心とばかりに信頼しきって打ち解けていたというのに。私のこの恋心のせいで、どちらにも恨まれることになってしまった)
いつ此方にお出ましになるやも知れないと、私も塗籠のすぐ近くに陣取って眠れぬ夜を過ごしました。が、一向にその様子がございません。夕霧さまはもう、塗籠の中でひと晩過ごすことにお決めになったようです。それも宮さまには心外であったのでしょう、いよいよ意固地になられて、暫くは言い争いが続きました。
どのくらい経ったものか……私もさすがにうんざりしてウトウト舟を漕ぐ頃、やっと――静かになったようです。
塗籠の中は荷物で一杯というわけではございません。香の唐櫃や厨子がいくつか置いてあるだけなのをあちらこちらと片づけて、住みやすいように設えておいででした。内側は暗うございますが、わずかながら朝の光は差し込みます。
そっと中を窺いますと―――
夕霧さまは宮さまが被っていた衣を押しやり、乱れ切った御髪をかき上げてそのお顔をご覧になりました。
いや、その時のお二人のお美しかったことといったら!
宮さまはまことに気高く、女性らしい優美なご様子でした。夕霧さまはきちんと取り澄ましていらっしゃる時よりも、無防備にくつろいでらっしゃる今のお姿が、とにかく神々しいほどにお美しゅうございました。
亡き柏木さまは、はじめから宮さまのご容貌にご不満を感じておられたようです。言葉にはっきりと出されたわけではありませんが、折々に。女ならわかりますよね……どなたと比べておられたのか存じ上げませんが、ご自分だって全然大したことはございませんのに。あっ、内緒ですよ。お二人のあまりのお美しさに見惚れて……つい口が滑ってしまいました。
そんなわけで宮さまはすっかり女としての自信を失っておられて、
(ましてあの時より衰えてしまったわたくしなんて、見るに忍びないだろう)
と、ひたすら恥ずかしくあれこれと思いを巡らせながらも、何とかご自分を納得せられたようにございます。あ、でも誤解のないように強く言っておきますが、宮さまは充分に若々しくお綺麗でいらっしゃいますよ!何より気品がございます。教養も嗜みも並以上でいらっしゃいますし、どこに出しても恥ずかしくない、素晴らしいお方ですので!
ただ―――私たち女房や他の家来らに、やっと……と思われますのも決まりが悪いことこの上ないでしょうし、外の噂は噂でどう変わるというものでもありません。一番は喪中にご結婚、そこがどうしても承服しかねるところだったようです。
そんな宮さまのお心をよそに、私たち女房は御手水や御粥など、いつもの宮さまの御座所に二人分ご用意します。鈍色の設えはさすがに縁起でもないので、東面に屏風を立て、母屋との際に香染の几帳など、はなやかすぎない調度類や沈の二階棚を良い感じに配置してございました。すべて、兄の大和守の差配です。
私たち女房も、地味な山吹襲、掻練、濃紫の衣といった青鈍色の服装を着替え、薄紫や青朽葉の裳をつけて喪の色を目立たぬよう残した格好で、食膳を運びました。女所帯で何かとナアナアになっていた一条宮邸内を見目よく変え、仕える人々をわずかばかりの下人に至るまで引き締める、という仕事を兄ひとりで取り仕切ってございます。
夕霧左大将さまという立派な婿殿が付いたと耳にして、すっかり足が遠のいていた家司も慌てて参上し、政所に控えて働き始めました。
一条宮邸は新しい生活に向けて動き出したのです。
参考HP「源氏物語の世界」他
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