幻 一
はじめまして、中将の君と申します。幼い頃より亡き御方さま――紫上のお傍近くでお仕えしてまいりました。この度はまことに……未だ何をしていても、すぐそこに御方さまが微笑んでいらっしゃる気がして――もう二度とあのお姿を目にすることも声を聴くことも出来ないのだといちいち思い返しては泣いてばかりの日々にございます。乳母であった少納言さんはまして親子同然の絆でしたから……今はとてもお話しできるような状態にはありません。右近さん、侍従さん、王命婦さんにしても同様です。
代わりにというのも烏滸がましいことですが、私なりにいま語るべきことを語っておきたく存じます。まだ気持ちもまったく立て直しが出来ておらず、お聞き苦しい点も多々あるかと思いますが、ご理解の上お聞きいただければ幸いです。
悲しい秋が終わり冬が来て、今また春の光を見る頃になりました。
ヒカルさまは未だ闇の中で、心の内の悲しみは収まるべくもございません。六条院には例年の如く多くの皆さまが年賀の挨拶に集まりましたが、ヒカルさまご自身は体調不良を理由に御簾の内から出ようとなさいません。唯一、仲の良いごきょうだいである兵部卿宮さまとだけは、私室で対面されることになりました。
「我が宿は花をもてはやす人も無いのに
どうして春が尋ねて来てくれたのでしょう」
ヒカルさまの歌に宮さまは涙ぐみ、
「梅の香を求めて来た甲斐もなく
ありきたりの花見と仰るのですか」
と返されました。
紅梅の下に歩み出られた宮さまのお姿―――御方さまが殊の外愛されたこの紅梅を、これほど優雅な佇まいで愛でてくださるのはこの方をおいて他にはいらっしゃいません。ほのかに開き初めた花は胸を打つ美しさでした。
例年のような管弦の遊びも何も無い、静かな六条院にございます。
私たち女房も、長く仕えて来た者は揃って濃い墨染の衣を着たまま、亡き女主をいつまでも諦めきれず慕い続けています。ヒカルさまが他の女君がたのもとへお渡りになることもすっかり絶えてしまいました。
女房の中には、ヒカルさまにお目をかけられ、召人――つまり恋人のような関係になった者も幾人かございます。ですが、ヒカルさまは今や独り寝が常。色恋沙汰などは一切無くなりました。ただ夜に馴染みの女房たちを誰かれとなく何人も、お傍に置かれるだけのことです。
眠れない夜の徒然に昔話もよくなさいました。
今までとは打って変わって、まるで山住みの聖のように枯れた佇まいのヒカルさまが語られるのは、もちろん亡き御方さまのことばかり。
「本当に可哀想なことをした。さして長続きしそうもない遊びの恋愛でやきもきさせ、まあ中には不可抗力なこともあったにしろ、辛かったろうに。何でも上手く執り成してくれて、私の心も隅から隅までわかっていてくれたから、心底怨まれ続けるなんてことはなかったけど……私がフラフラする度ごとにどうなることかと気は揉んだよね。いくら後悔してもし足りないよ」
みな側近の女房達ばかりですから、事情はよく存じております。
「入道の宮さまのご降嫁の折がやはり……」「お顔にも態度にも一切出されませんでしたが」「事に触れて、何ともいえない思いが垣間見えましたね」
ぽつりぽつりと口に出す者もおりました。
三日間女三の宮さまのもとに通われて最終日の明け方――お庭には名残の雪が積もっておりました。まだ暗く寒い中早々に戻られたヒカルさまを、女房一同示し合わせてワザとお待たせしたこと、昨日の事のように覚えております。
「あの時は身体が冷え切っちゃってね。荒れた空模様だったし正直参った。紫上は何も知らないわって感じで普通に寝てたんだよ。でも」
その袖は涙でぐっしょりと濡れていました。
「私に知られまいと隠す、その気持ちが本当にね、いじらしくて切なくて……ああ、夢でもいいからまた逢いたいな……」
最後にはいつも涙、涙で終わるのでした。
夜が白々と明ける頃、自分の部屋に下がろうとした女房の、
「まあ、雪がよく積もったこと」
という声が聞こえました。
あの日と同じ雪の朝。
しかしそこにはもう御方さまの姿はありません。
ヒカルさまが涙声で歌を詠まれました。
「辛い此の世からは消えてしまいたいと思いつつ
思いのほかまだこうして生きていることよ」
このところ、起きられたら手水で手を浄められ勤行をなさるのが習慣になっておりました。埋火を起こした火桶もお傍に置きます。
古参の女房である中納言の君、そして私も御前近くでお話相手をつとめます。
「昨夜は独り寝がいつもより寂しかったよ。だけどこんな真面目な生活もやれば出来るものだね。まったく、どうでもいい俗世に関わってきたものだ」
と仰って、また考え事をしておられます。
ヒカルさまはもういつでも出家する気満々でいらっしゃるのですが、私たち女房がこうして居座っておりますのを放ってはおけない、自分までいなくなったらさらに嘆くだろうと気遣ってもいらっしゃるようです。実際、ヒカルさまがひっそりと勤行されるお姿、経を読まれる声は尊すぎて普段でも涙腺が緩んでしまいますのに、まして「袖のしがらみ」も堰き止める術もない今は心に沁みて、明け暮れお傍近く控えている私たち女房の胸はつぶれんばかりです。
※涙川落つる水上早ければせきかねつるぞ袖のしがらみ(拾遺集恋四-八七六 紀貫之)
「現世については物足りないと思うことなど全然ないが、高い身分に生まれながら、他人よりだいぶ残念な宿命を背負っているんじゃないかとずっと思ってた。この世の儚さ辛さを悟らせるため仏が運命づけた我が身なのだろうね。あえて知らぬ顔をしてここまで生きながらえてみれば、こんな人生の終焉近い時になって悲しみの極みを見る羽目になった。宿世のつたなさも自らの限界もすべて見尽くしたからもう怖いものは無いよ。今は露ほども未練はなくなったつもりだったけど、紫上を中心に繋がって親しんだ君たち女房が、もう別れ別れになるかと思うとまた一段と寂しくて辛い。ホント世の中って儚いね……諦めが悪いったらないよ」
ヒカルさまはそう仰ってお目を押さえられましたが、その隙間から堪えきれない涙がすーっと零れます。そんな尊すぎるお姿を見せられた私たちはもうどうしたらよいのでしょう……早晩ヒカルさまは世を捨てられる、お別れの日は確実に近づいている、と思うだけで申し上げたいことも申し上げられず、ただただ涙に咽ぶほかありませんでした。
こんな風に嘆き明かす明け方、ぼんやり物思いにふける夕暮れといった折々は、特にお気に入りであった女房達を近く侍らせて、昔語りをなさるのが常でした。
実のところ私も、畏れながらヒカルさまとは何度か……ただ、御方さまの手前出来るだけお呼びがかからないよう、塩対応を通しておりました。今はまったくそのような色めいた相手としてではなく、ただ「うない松」、御方さまの形見としてお傍に置いてくださっているようです。
ヒカルさまはもう滅多に人とお会いすることはなくなりました。上達部や仲の良い親王さまたちは今も度々六条院にいらっしゃいますが、直接言葉を交わすようなことはありません。もともと大して関係のない人であれば尚更です。
「人と会う時だけはしっかりしなきゃって思うし、悲しみも抑えて落ち着いた素振りでいることも出来ることは出来るけど、何しろ何か月もボヤーっと過ごして来た私だからね。うっかりとんでもない受け答えをしないとも限らない。若い人に迷惑をかけて後々の評判まで酷いことになっては困る。呆けて人前には出ないらしいと言われるのも同じことだけど、噂が元の想像より、直に見苦しいさまを見られちゃうほうが格段にマズイよね」
そう思っていらしたので、ご子息の夕霧さまといえど御簾を隔てての対面です。「人が変わったようだ」という噂が広がっている隙にお心を癒そうと、耐えて過していらっしゃいます。元の自分を取り戻すまでは世を捨てられないというお気持ちもあってのことでしょう。六条院内に同居してらっしゃる花散里の御方さまや明石の御方さまなどは下手にお会いすると、まず間違いなく涙の雨ばかりが降ることになりますので、どうにもバツが悪くいらしたか、かえってご無沙汰気味にございました。
内裏に戻られた后の宮――明石中宮さまは、三の宮さまを寂しさの慰めにと六条院に留め置かれました。三の宮さまは、
「おばあちゃまが仰せでした!」
としきりに仰って、二条院へ行きたいとせがまれます。
「おばあちゃまが、大きくなったら二条院に住んで、対の前にある紅梅と桜を見てあげてねって!」
ご自分のお役目!とばかりにご家来を連れしょっちゅう二条院に通われて、面倒を見ているつもりでいらっしゃる三の宮さまがあまりにいじらしくお可愛らしくて、ヒカルさまも私たちもまた涙を誘われるのでした。
二月になれば花の木も、今を盛りと咲き誇っているもの、まだ蕾のものが入り混じって梢が一面美しく霞みます。三の宮さまと共に二条院へお越しになったヒカルさまは、あの形見の紅梅に鶯がとまり賑やかに鳴き始めたのに気づかれて、
「植えて眺めていた花の主もいない宿に
知らぬ顔で来て鳴く鶯よ」
口ずさみながらそぞろ歩いておられましたとか。
春も深くなるにつれ、六条院のお庭も昔と変わらず花が咲き乱れております。が、誰よりも春を愛でていらしたお方はもうおられません。ヒカルさまはさらに心をかき乱され、何を見ても聞いても胸が痛む有様で、
「いっそこの世ならぬ、鳥の声すら聞こえない深山に籠ってしまいたいな」
※飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ」(古今集恋一、五三五、読人しらず)
と呟かれておいででした。
山吹が露を含み満足げに咲き乱れておりますのも、涙に濡れているようにしか見えません。この春の町の庭は、まず一重の桜、次に八重桜、その盛りが過ぎるころに樺桜が開き、藤は後れて色づき始める、その順序をよく鑑みて植えてございますので、次々と切れ目なく花が咲き続けます。これも春を愛された御方さまの御采配によるものです。
六歳の三の宮さまは、
「私の桜が咲いたよ!綺麗だな、ずっと散らないといいな」
とはしゃいでおられます。
「そうだ!木の周りに几帳を立てて、帷子をずっと上げずにいたら風にも飛ばされないよね!」
と、とてもいい思いつきだとばかりに得意げに仰いました。そのお顔の何とも愛らしいこと!ヒカルさまもつられて微笑まれ、
「『覆うばかりの袖』を求める人よりずっと賢いやり方を思いつかれたね」
※大空におほふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ(後撰集春中、六四、読人しらず)
とお褒めになります。ヒカルさまにとって、今やこの宮さまが唯一の遊び相手でございました。
「こうして睦まじくしていられるのもあとどのくらいかな。命というものはもう暫く此の世にあっても、お会いすることは出来なくなる」
いつものようにヒカルさまが涙ぐまれると、宮さまはお顔を曇らせ、
「おばあちゃまとおんなじことを仰るなんて……縁起が悪うございます」
と仰って伏し目がちに衣の袖をもぞもぞと引きまさぐって、滲んだ涙を誤魔化していらっしゃいました。
ヒカルさまは隅の間の高欄に寄りかかられて、御前の庭、御簾の中をぼんやり見渡していらっしゃいます。女房たちはまだ喪服の色もそのままの者もいましたし、普通の衣装の者でも綾などはなやかなものは避けていました。ヒカルさまも、喪の色でこそありませんが殊更に地味な、無紋のお直衣をお召しになっておられました。お部屋の装飾もごく簡素なものだけで、寂しく心細げに、しんみりとした雰囲気が漂っています。
「いよいよ出家とならば、荒れ果ててしまうのだろうか
亡き人が心を留めた春の垣根も」
二条院は三の宮さまがきっと大事にしてくださるでしょう。では六条院の、この春の町は?
世を捨てようにも悲しみは未だ深く、捨てきれないものもまた多くあるヒカルさまにございました。
参考HP「源氏物語の世界」他
にほんブログ村
コメント
コメントを投稿