おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

幻 二

2021年7月19日  2022年6月9日 


 ヒカルは三の宮とともに入道の宮のいる西の対に渡った。

 女房に抱かれていた若宮は、三の宮の姿を見るや駆け寄っていった。花のことなど忘れ去って、二人走り回って遊んでいる。やはり子供なのだ。

 入道の宮は仏前で経を読んでいた。大して道心深くもなさそうなこの宮が、世を恨むことも心を乱されることもなく、のんびり勤行三昧に暮らしている。ヒカルは、

(いいよなあ……俗世のしがらみからすっかり離れて仏道一筋。こんな、何にも考えてないポヤーンな人にさえ立ち後れてしまうとは情けない)

 と妬ましく、悔しい気持ちになる。

 閼伽の花が夕陽に映えてたいそう美しかったので、

「春に心を寄せた人もいなくなって、花の色も空々しいようにしか見えなかったんだけど、こういう仏のお飾りの花っていいね」

 と声をかけ、

「対の前の山吹はやはり滅多にない咲きようだよね。あの房の大きさといったら!品よく咲こうとは思ってもいない花なのか、華やかで賑わしい感じがとてもいい。植えた人がいない春とも知らず顔に、例年より見事に咲いているのは哀れでもある」

 しんみりと続けた。それに対し入道の宮は一言、

「谷には春も」

光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし(古今集雑下、九六七、清原深養父) 

 と答えた。

(えっ……言うに事欠いて『尼の私には余所事ですね』って……あんまりじゃない?)

 と呆れるヒカルだが、

(いや、この宮は元からそういう人だった。思いついたことをそのまま言っただけで特に悪意はないんだよね……だけどさあもうちょっと他に言いようないの?)

(紫上なら、ほんの些細なことでも、普通は△だけど〇だったらなお良いなって期待を外すことはなかった。小さい頃からそんなだったんだ。いったいどこに不足があった?何も無い。あの時もこの時も、才気があって行き届いていて、奥ゆかしく心惹かれる人柄、態度、口から出る一言二言……すべて素晴らしかった)

 思い出してまた涙腺が緩む。零れ出た涙は苦かった。


 夕暮れに霞が立ちこめて風情ある頃合いに、そのまま冬の町へ渡った。長いこと少しも顔を出していなかった上にいきなりだったので、明石の君は驚きつつも如才なく振る舞い、歓迎してくれた。

(やはり賢いな。どこかの宮さまとは違う)

と思いつつも、此方は此方で

(紫上の人柄や嗜みはまた格別だったな)

 つい比べてしまって、またぞろ面影が浮かんできてしまう。

(いったいどうしたらこの悲しみが癒えるのか)

 はっきり紫上の話題を出すにはまだ辛すぎる。

「誰かに想いをかけ過ぎるのはよくないことと、昔からわかっていたことだし、どんなことでも現世に執着が残らないようにって気をつけて来たつもりだったけどね。京を離れて、世間的にヒカルはもう終わりだと思われてたあの頃、つくづくと考えてそう結論づけた。今や命を自分から捨てるべく野山の果てをさすらっても、特に差支えの無い年になったけど、ここにきて――もう寿命も残り少ない身なのに、持たなくてもいい絆しに多くかかずらわって現世に留まってきたのは、心弱くももどかしいことだね」

 それと名指して言うわけではないが、ヒカルの胸の内の苦しみは明石の君には痛い程わかる。

「いざ世を捨てるとなると、取るに足りないような者でさえ内心の執着は自ずと増えてくるもの。ましてヒカル院のようなお方がどうしてあっさり思い切ることができましょうか。そんな浅いお心での出家は、かえって軽はずみだと非難されようことも出てきますから、止めた方がよろしいでしょう。ゆっくり時間をかけて心を決められてこそ、最後には澄み切った深い境地に至られるのではないかと存じます。昔の事例などを聞くにつけ、何か大きなショックを受けたとか、思うようにならなかったとかいったことが世を厭うきっかけになりがちです。そんな理由での出家は感心しないですね。やはり暫くはのんびりと、宮さまたちも大人になられ、まことに揺るぎない地位に就かれるまでは、そのまま平らかにいらっしゃるのが安心ですし、嬉しいことでございます」

 ヒカルの気持ちをよく理解し受けとめた上での、申し分ない語りである。

「さすがにそこまで慎重に考えすぎて出家を待つくらいなら、浅いと言われる方がマシなんじゃない?」

 ヒカルは言って、昔から悲しい目に数多く遭って来たことを愚痴り出す。

「故后の宮――藤壺女院が崩御された春は、咲く花の色を見ても本気で『心あらば』墨染に咲いてくれよと思ったものだ。何しろ故宮は世間の評判も高い素晴らしいお方で、私は幼い頃からよく見知っていたからね……ご臨終の際は本当に悲しかった。

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(古今集哀傷、八三二、上野峯雄)

 自分が特別な感情を持っているから悲しいというわけではないんだよ。長年連れ添った人に死に別れて、どうにも心を鎮められず忘れがたいのも、夫婦としての悲しさだけじゃない。幼い頃から育て上げ、一緒に年を取ってきたこの晩年に先立たれて……ぜんぶ重なっているんだよ、思い出のすべてが。次から次へと浮かんでくるのが悲しすぎて堪えられないんだ。何が美しいとか洒落ているとか、ああ風流だとか、何を見ても聞いてもね……浅いものではないよ、本当に」

 そんな風に今となく昔となくとりとめもない話を続けて、夜が更けた。

(いつもなら泊まっていくところだが)

 ヒカルは冬の町をあとにした。明石の君も態度には出さないが寂しくもあっただろう。

(我ながら変わったものだな……)

 と思わずにはいられない。

 東の対に戻ったヒカルは、いつも通り夜中まで勤行したのち、昼の座所に横たわって仮眠した。早朝、明石の君宛に手紙を出す。

「なくなくも帰って来てしまいました

仮の世は何処も永遠の住まいではないので」

 昨夜帰られてしまったことは少々恨めしく思っていた明石の君だが、ヒカルが今までに見たこともないくらい憔悴している姿が痛々しく、自分の気持ちはさて置いて涙ぐむ。

「雁がいた苗代水が絶えてからは

そこに映っていた花の影さえ見ることはありません」

 相変わらず由ある手蹟である。紫上ははじめ明石の君を目障りなものと思っていたが、終わりの頃にはお互いに理解し合い、信頼できる相手として心を交し合った。かといって無暗に打ち解けすぎることもない、常に一線を引いての付き合いだった。

(傍で見ていても誰も気が付かなかっただろうな。それくらい絶妙な距離の取り方だった)

 亡き紫上の心ばせの素晴らしさをまたも思い出すヒカルであった。

 あまりに寂しくて堪らない時はこんな風に、フラッと各部屋を訪れ泊まらずに帰る。昔のヒカルには考えられない行動ではあった。

参考HP「源氏物語の世界」他

<幻 三 につづく

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