おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

御法 三

2021年7月14日  2022年6月9日 


 夕霧は二条院に留まり、ヒカルとともに忌籠りした。殆ど退出することなく一日中ヒカルの傍近くに控えてその悲しみを受け止め、何かと慰めていた。

 野分めいた風が吹きすさぶ夕暮れに、夕霧は

(お姿をちらりと拝見したのもこんな日だったな)

 と亡き人の面影を追う。

(最期にみたあのお顔は……夢のように美しかった)

 心の内でその場面を繰り返すたび、涙を堪えきれない。

(いけない、誰かに怪しまれては)

「阿弥陀仏、阿弥陀仏」

 と数珠を繰る仕草に紛らわせて涙の玉を隠す。

「昔の秋の夕べを恋うるにつけ

臨終の時に拝見した明け暗れの夢よ」

 残されたほのかな記憶さえもが夕霧の胸を締めつける。

 二条院では尊い僧たちを集め、忌籠りの念仏をはじめ法華経なども読経させた。どこもかしこもそれ以外の音は絶え、ただ悲哀に満ち満ちている。

 ヒカルは寝ても覚めても涙の枯れる時がなく、涙に溺れる日々を過ごしている。昔からの自分の人生を顧みるに、

(鏡の中の自分からして他人とは違ってた。幼い頃から悲しい世の無常を思い知るよう、仏に勧められてきた私なのに、強気でスルーし続けて遂に……過去にも未来にも類のない、超弩級の悲しみに遭ってしまった。今はもうこの世に思い残すことなんて何も無い。一気に仏道に邁進するのに何の支障もないけど、こんなに気持ちをコントロールできず心を騒がせたままで、願い通りに行ける?)

 どうにも危うい気がする。

「どうかこの悲しみを少しでも和らげて、忘れさせてくださいますよう」

 と阿弥陀仏に縋るヒカルであった。


 二条院には弔問が絶えることがない。内裏をはじめ、型通りの作法以上に度々の使いが遣わされた。

(出家しようという気持ちは決まってる。決まってるけど、本来はどれもこれも見ない聞かない!で、心に引っかかることもあってはならないはず……だからといって他人に呆けたと思われるのはイヤだな。五十も過ぎた爺がメソメソと悲しみに負けて出家したとか、後世まで語り伝えられるのは真っ平だ)

 とはいえ、今のヒカルの状態ではまだまだ思うに任せない。ただでさえ悲しみが深いのに別の悩みまで加わって、余計に辛い気持ちになるヒカルであった。

 ヒカルの親友にして元義兄・息子の舅でもある致仕大臣は、元からこういった一大事を見過ごせない性格で、まして紫上のような世にも稀なる優れた女性が若くして亡くなったと聞けば尚更である。自分事のように惜しみ同情して、始終二条院を見舞っていた。

「昔、夕霧の母の葵が亡くなったのもこの季節だったな」

 思い出すのも物悲しく、

「あの時、妹を惜しんでくれた人も多くは亡くなってしまった。後れるも先立つも大して差はないってことだね、人生は」

 しみじみ夕日を眺める。空模様も哀れを催す頃合いなので、息子の蔵人少将をヒカルのもとへ使いに出した。しんみりと思いを込めて綴り、端書きに歌も添えた。

「その昔の秋もたった今のような気がして

濡らした袖にまた涙を落しています」

 ヒカルからの返し、

「涙に濡れていますことは昔も今も変わりありません

だいたい秋の夜というのは辛い気持ちになるのです」

 あまりに今の気持ちそのままに吐き出してしまっては、あの大臣のことだ、すわ待ってましたとばかりにヒカルはもうダメだね弱っちゃって、などと決めつけるに違いない。

「たびたびの並々ならぬ御弔問を重ねて頂戴いたしましたこと」

 と、無難なお礼の言葉も忘れずに書き加えた。

 ヒカルは「薄墨衣」と詠んだ葵上の喪中よりもう少し濃い色の喪服を着ている。

 とかくこの世では、幸福に恵まれた人が理不尽に世間から嫉まれたり、身分が高くても驕り高ぶって他人を苦しめたりということがあるが、紫上は不思議にも、さして親しくもない人にも受けが良くちょっとしたことでもすべて世間から褒めそやされた。それでいて驕ることも威張ることもなく、折節につけ行き届いていた。本当に、滅多なことではお目にかからない稀有な女性だったのだ。

 紫上の死はヒカルが思っている以上に、かなりの衝撃を世に与えた。大して関わりのない赤の他人といっていい人々さえ、風の音や虫の声につけ落涙しないものはいない。ましてや僅かでも見知った者は例外なく悲嘆にくれた。長年睦まじく仕えてきた女房たちは、暫くの間でもこの女主に立ち後れた我が身が恨めしいと嘆く。尼になり俗世を離れた山寺に入ろうと思い立つ者も少なくなかった。

 冷泉院の后の宮(秋好中宮)からも見舞いの手紙が絶えず届く。尽きせぬ悲しみをあれこれと綴る中に、

「枯れ果てた野辺がお嫌いだったのでしょうか

亡き人が秋に心を留めなかったのは

 今になって理由がわかりました」 

 という歌があった。悲しみのただ中にいるヒカルにも響き、何度も繰り返し読み、なかなか手から離せなかった。

(ああホント、よくわかってらっしゃる。春と秋の町で競ったあの思い出をさり気なく入れて、ご自分のお気持ちも押しつけがましくなく上手に表現する。こういう気の利いたことが出来る人ってこの宮だけじゃないかな)

 多少は慰められた気になり返事を書こうと筆を持ったが、こぼれ落ちる涙を押さえる袖は下ろせず、どうにも書き出せない。

「煙となり昇っていった雲居からも振り返ってほしい

私はこの無常の世にすっかり飽きてしまった」

 やっとのことで書き上げて包みもしたものの、暫くの間ぼうっとして動けなかった。

 我ながらさすがに普通の状態ではない、自分を見失うにも程があると思う折が増えたので、つとめて女房たちのいる辺りにいるようにした。

 仏を安置した前に、女房たちを数人ばかり呼んで心静かに勤行する。

(紫上とは千年をもろともに~なんて思っていたけど、そんなことはできるわけないんだよね現世じゃ。所詮命には限りがある。別れなきゃいけないのって本当キツイ。此の世はもういいよ……来世の極楽浄土のことだけ考えていたい)

 つくづくと思うヒカルだったが、それでも世間の思惑や人聞きがどうとか、つまらないことばかり気になってしまう。

 法要の件もはっきり取り決めてはいなかったので、夕霧が万事引き受けて営んでくれた。ヒカルは依然終わりの見えない闇の中にいて、もうダメだ自分の命も終わりだと思うことも多々あったが、月日は委細構わず流れてゆく。七日毎の法要が過ぎる度、いつの間にこんなに経ったのか、夢ではないのかと驚くばかりのヒカルであった。

 紫上を看取った明石中宮も、この亡き義母を忘れる間もなく恋い慕っていたとか。

参考HP「源氏物語の世界」他

<幻 一 につづく

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