御法 二
待ち望んでいた秋が来た。
すこし涼しくなったので、紫上の体調もいくらか上向いたものの、ややもすれば急に悪化する不安定さはそのままであった。吹く秋風はまだ「身にしむばかり」ともいえないが、二条院では何かと涙で湿りがちな日々を過ごしていた。
※秋吹く風はいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ(詞花集秋-一〇九 和泉式部
二条院に里下がりしている明石中宮のもとには、参内するようにとの催促が引きもきらない。紫上としてはもう少し長くいてほしい気持ちであったが、差し出がましいようでもあり、頻繁な勅使に気もひけて口には出せない。中宮は、もう東の対へ渡って来ることもかなわない紫上を気遣い、自ら西の対へと渡ることに決めた。
畏れ多くはあるが仕方のないことである。西の対に中宮の御座所を特別に設えた。
(お母様……随分とやせ細ってしまわれたけれど、それでも今まで通り……いえ、さらに高貴にして優雅でいらっしゃる)
中宮が内心驚くほど、その日の紫上は可憐で美しかった。かつてあざやかに光り輝いていた女盛りを、花々が咲きほこるさまにたとえられた紫上は、いま透き通るようにあえかな姿でかろうじてこの世に留まっている―――言葉にならない哀しみがそこはかとなく辺りを覆い、居合わせる者の胸を打った。
夕暮れには風が強く吹き出した。
前栽を見ようと脇息に寄りかかっていた紫上を、ちょうど西の対に渡って来たヒカルが目にとめ、
「今日はそんな風に起きていられるんだね。やはり中宮の御前では気分もすっかり晴れるようだ」
と嬉しそうに言う。紫上は、
(たったこれだけのことでもあんなにお喜びに……おいたわしいこと。わたくしがいよいよ最期となればどれほどお嘆きになることか)
と思いつつ歌を詠む。
「起きていると見えますのも暫くの間だけのこと
ともすれば風に乱れ飛ばされる萩の上の露のような命ですから」
庭先には、今まさに風に返されてこぼれんばかりの露。
ヒカルは、
(やめてよ……あまりに嵌りすぎてる)
と浮かんだ涙を拭いきれないまま歌を返す。
「ともすれば消える、先を争う露のようなこの世で
せめて後れたり先立ったりすることなく共に消えたいものです」
中宮もまた、
「秋風に暫くの間も止まらず散ってしまう露の命を
誰が草葉の上の露だけと思いましょうか」
泣きながら詠む。
こんな風に歌を交わし合う母娘の姿は実に美しく見甲斐があるにつけ、ヒカルは
(このまま千年でも過したい)
と願うが、叶わないこともわかっている。消えゆく命を留める術がないことが、ただただ悲しかった。
ふと、紫上は顔を伏せて、
「もう……お帰りあそばせ。すこし、苦しくなってまいりました……情けない身体になってしまいまして……まことに失礼をば」
と言うと几帳を引きよせ横たわった。
「……お母さま?」
(いつもと様子が違う)
と直感した中宮は、
「どうなさいましたか、御気分は」
近づいて紫上の手を取った。と、みるみるその手から命が零れ落ちてゆく――今まさに風に吹き散らされんとする露のように。
「お父さま!」
悲痛な声に、ヒカルは弾かれたように駆け寄る。
誦経を請う使者が寺々に遣わされ、数知れない修験者が二条院に集まって大騒ぎとなった。
「以前は物の怪の仕業だった。後で息を吹き返したんだ。また同じことなのかもしれない。どうか、どうか頼む……!」
ヒカルが一縷の望みに縋る中、夜を徹してあらん限りの加持祈祷が行われた。
しかしその甲斐はなかった。奇跡は二度は起きなかった。
夜が明け果てる頃―――紫上の命も尽き果てた。
中宮が東の対に戻る前で、最期を看取ることができたのはせめてもの救いだったが、誰も彼もまともにその死を受け入れられない。
(これは夢……?明け方に見る、ほの暗い夢……?)
想像を絶する悲しみと惑乱に、二条院全体が震えた。
誰もが正気ではいられなかった。仕えていた女房達も一人残らず、悲鳴のような嗚咽の声を上げ続けている。ましてヒカルは気持ちの静めようがない。駆けつけて来た夕霧左大将を几帳の傍近くに呼び寄せ、
「どうやらもう、最期のようだ……紫上は長年出家を望んでいたのに、今わの際にまで果たせないまま終わってしまった。可哀想なことをした……呼び寄せた大徳たちや読経の僧は皆、加持をやめて出払ってしまったろうが、まだ残っている者もいるだろう。現世のためには何の役にも立たない仏の功徳だけど……今は冥途へのお導きとしてお頼み申さないといけない。紫上の髪を下ろすよう計らってくれ、良さそうな僧を見繕って」
などと声ばかりは気丈に指示をするが、その顔に色は無く、涙がとめどもなく流れ続けている。夕霧は、
(無理もない、おいたわしい)
と思いつつも努めて冷静に、
「物の怪などが今度も、人の心をかき乱そうと悪さをしているということはないのでしょうか?もしそうであるなら、ともかくもご希望を叶えて差し上げるのはよろしきことと存じます。一日一夜でも戒を守られたなら必ずや効験もございましょう。しかし、本当に息絶えてしまわれたなら、後から御髪だけを下ろされても後世での功徳とはならないでしょうし、かえって目の前の悲しみが深まるのでは……如何なものでしょう?」
と意見をした上で、まだ二条院に留まっている僧の中から、このまま忌籠りに伺候しようという志がある者を誰彼と選び出し、各々にすべきことを命じた。
夕霧は紫上に長く憧れていた。大それた恋心こそ持たなかったが、
(いつの日かまた、あの野分の時のようにお姿を見てみたい。どんなお声なのか少しでも聴けないだろうか)
偶然垣間見た姿が脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
(声はついに聴かずじまいだったが、むなしい亡骸であってもいい、もう一度拝見できないだろうか。この願いが叶えられるのは、今を逃せばもう二度とないんだ)
そう思うともう涙が抑えられない。周りで女房達が半狂乱で泣き騒ぐのを、
「静まれ、暫し静まれ」
と宥めるついでに、几帳の帷子をさり気なく引き上げた。夜明けの薄明りでは光も弱い。燈明を近くかかげる。
(なんと……)
思わず息を呑む。
紫上の死に顔はひたすらに美しく清らかだった。
ヒカルは独り茫然と枕元に座りこんでいる。夕霧が顔を覗かせても、もう隠そうという素振りもない。
「こんな……生きている時と何の変わりもない姿なのに……本当に亡くなってしまったんだね……」
と呟いて袖を顔に押しあてる。夕霧も涙で霞む目を強いて開けたものの、見れば見る程悲しみは増し心をかき乱される。無造作に投げ出された豊かな髪は清らかで、露ほどの乱れもなく艶々と波打つ。明るい燈明に照らされた顔の色は輝くばかりに白い。
髪を梳き身なりを整え、生きて動いていた紫上ではなく、もう二度と目を開けることもなく臥しているだけの、無心の抜け殻をいくら愛でたところで詮無いことである。が、
(死に向かう魂を何とか繋ぎ留められないものか)
夕霧が本気でそう願うほど、尋常ではない、類まれなる美しさの亡骸には違いなかった。
紫上の傍近く仕えていた女房たちは身も世もなく泣き崩れていて、どうにもならない。茫然自失のヒカルは無理に心を鎮め、葬儀の準備に取りかかった。昔からさまざまな死に遭って来たヒカルだが、自分が中心になって仕切ったことはない。この先もそうそうあることではないだろう。
亡骸はその日の内に荼毘に付された。所定の作法があり、気が済むまでそのままというわけにもいかないのだ。何とも無慈悲な世の習いである。
野辺送りには、広々とした野が埋まるほど大勢の人が集まった。盛大にして厳粛な葬送の儀式が終わると、亡き人はか細い煙となり、はかなく空に昇っていった。世の常のこととはいえ、あまりにもあっけなく胸の痛む別れであった。
ヒカルの足は地につかず、支えられていないと立っていることすらおぼつかない。周囲の人々は、
「なんとおいたわしい」「あんなに威厳のあったお方が……お気の毒に」
と囁き合い、ものの分からぬ下民でさえも涙を誘われずにはいられなかった。参列した女房達はまして夢の中を漂うようで、ややもすると車から転げ落ちそうになるのを従者たちに助けられていた。
(昔、夕霧の母――葵上が亡くなった時の葬儀も明け方だったな。月が明るく差し出ていたのを覚えてる。してみるとあの時はまだ少しはものを考えられたのか。今は―――何も見えない。ただ……闇の中だ)
ヒカルの目にはもう何ひとつ映らない。
紫上が亡くなったのは八月十四日、今は十五日の夜明けである。日は眩しいほどに明るく差し上がり、野辺の露も一面にキラキラと光を弾く。その光景に人の世の儚さを思い、何もかもが厭わしくてたまらなくなったヒカルは、
(先立たれたといってもあと何年生きられようか。いっそこの悲しみに紛れて、昔からの本意を遂げてしまうか)
(いや、最愛の妻を喪ったから出家するというのも女々しすぎる。誰に何を言われるやらわからない)
逡巡した挙句、今しばらくはこのまま過ごそうと決めた。胸の奥からこみ上げる悲しみは堪え難いが、出家しようがしまいが、どちらにせよ変わりはないのだ。
参考HP「源氏物語の世界」他
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