夕霧 十
夕霧は六条院に入り、夏の御殿にてひと休みした。
花散里の御方は、
「一条宮の方を小野よりお移し申されたと、致仕大臣の辺りでお噂があるようですが、如何されましたの?」
優しく穏やかに問うた。夕霧がまだ学生で二条東院に住まっていた頃、養母として何くれとなく世話を焼いてくれていた花散里である。間に几帳を添えてはいるが形ばかりで、側からちらちらと顔や姿がほの見える。夕霧は笑って、
「ああ……まあ、そうですね。その通りです。亡き御息所は初め気強く、私の心ざしをあるまじきことと退けられましたが、もう最期という時には弱気になられ、これといって頼る人もいないのもお辛かったのでしょう、私に後見をというお言葉を遺されました。元からその心づもりもございましたからお引き受けしただけのことですが、どういう噂になっているのやら。大したことでもない話を、世間の人はあれこれと妙な尾ひれをつけたがるものですよね」
亡き御息所の許可を取っていることを匂わせつつ、更に声をひそめて続けた。
「当のご本人は、もう普通の暮らしはするまいと深く心を決めていらして、尼になりたいと思い詰めていらっしゃるもので……どうしたものかと。あちこちで浮いたような取り沙汰をされるのも困ったことですが、嫌われたり疑われたりを恐れるあまりご遺言を違えてはならない、という思いで助言もし、お世話もいたしているのでございます。父君が……ヒカル院がお渡りになった時、もののついでにでも夕霧がこんな風に言っていたとお伝えください。この年になってフラフラと浮気心を起したとお思いになろう、口にも出されようと気にはなりますが、このような筋のことではなかなか人の諫めなど耳に入らぬものだと、つくづくわかりました」
つい出た本音に気づいた素振りもみせず、花散里はほがらかに応えた。
「まあ、そうでしたか。どなたかのお話と間違えたのではないかと思っておりましたが、本当にそのような事情がおありでしたのね。すべて世の常のこととは申せ、三条の姫君のお気持ちは如何かしら。おいたわしい限りですね。これまで安らかなお心持ちに馴れていらしたでしょうに」
「姫君とはまた可愛らしい仰り方をなさいますね。鬼のような怖い妻ですよ」
夕霧は言って、
「とはいえ、どうして疎かに扱いましょうか。畏れながら、この六条院の皆さまのご様子からご推察できるでしょう。結局は穏やかに波風立てないのが正解なんです。口やかましく事を荒立てると男は面倒になって暫くの間は慎むでしょうが、必ずしも従いっぱなしでいるとも限りません。浮気が表沙汰になって揉めようものなら、お互い憎しみあい嫌気がさしてしまう。やはり春の御殿の紫上の成されようは比類なきこと、次いで此方の、貴女のお心がけこそ素晴らしいと考えるようになりました」
花散里を褒めちぎる。
「ほほほ、そこで引き合いに出されましては、わたくしの寵の薄さが際立ってしまいますわ。それにしてもおかしいのは、ヒカル院ご自身の今までのお癖を誰にも知られていないかのように、些細な恋愛沙汰すら大袈裟にお諫めになることですね。夕霧さまのことも陰で心配だ心配だと仰っておられますが、ご自分のことを棚に上げられて利口ぶっていらっしゃるわウフフ、なんて思ってしまいます」
「そうですよね。こと女性関係の話になるといつもやたらと厳しく仰せになるんですよ。わざわざあの父君にご教示いただかなくても、私の方が余程抑えているというのに」
二人和やかに微笑みあった。
その後、夕霧はヒカルのところにも挨拶に行った。ヒカルは勿論一条宮邸の件は聞いていたが、素知らぬ顔でただじっと顔を眺め、何を言うでも聞くでもない。
(夕霧、えらく男っぷりが上がったな。まさに今が盛りって感じ?例の浮気沙汰?がどうなってるのか知らないけど、誰が非難できるのこのイケメンを。鬼神も罪を許しそうな、あざやかで清潔感のある美貌、若いキラキラ感が溢れんばかり。チャラいだけの若造ってわけでもないし、不足なんてどこにも見当たらない。これは女だって惚れて当たり前だわ。自分でも鏡に映った姿に思わず見とれちゃうレベルだね。うん、我が息子ながら紛れもないイケメン)
夕霧が去った後もしみじみ感心するヒカルであった。
邸内に入るや子供たちが次々と、遊ぼう遊ぼうとまとわりつくが、雲居雁は几帳の中で臥せっていた。
夕霧が入って来ても目も合わせない。酷いと思っているのだろう、仕方ないなと思いながらも、遠慮のない素振りで被っていた衣を引きのけた。雲居雁は、
「ここをどこだと思って帰ってらしたの?私はもう死にました!いつも鬼と仰るから、どうせなら早くそうなりたいと思って!」
と顔を伏せたまま言う。
何気ない風に返す夕霧が癪に障ったか、
「おめかしてどこやらへお出かけして優美なお振る舞いをされるような方に、もうつきあっていられません。どこへなりとも消え失せようと思います。わたくしのことなどもうお忘れになって。いつの間にか経った年月さえ口惜しくてたまらないんだから!」
と言って起き上がった。上気して赤みを帯びた顔がつやつやと美しく、何ともいえない魅力がある。
「そんな風に子供っぽく腹を立てるからかな、目馴れてしまって、もうこの鬼は恐ろしくなくなってしまったよ。もうちょっと神々しさが欲しいとこだね」
夕霧がからかうと、
「なんですって!もう死ねば?!わたくしも死ぬわ!顔は見るのも嫌、声を聞くのもイラっとする。とはいえわたくしだけ死ぬのは後が気になり過ぎて嫌!貴方が先よ!」
怒ってまくしたてるさまが可愛すぎて、つい笑ってしまう。
「近くにあれば見たくない、遠くにあれば気になると。なるほど、夫婦の契りがどれだけ深いかを示しているわけか。間を置かない冥途への旅も、元からそうお約束したことだもんね」
あくまで冷静に受け答えをする夕霧に、何だかんだと宥めたりすかしたりされているうち、徐々に機嫌を直していく雲居雁。何を口から出まかせを!とわかってはいても、元より単純で素直な性格なのだ。そんな妻を愛しいと思う一方、心は余所に飛んでいる夕霧であった。
(あの宮には、ここまで我を張って自分の意思を通す強さはないように思うけど、どうしても私との結婚を承服できないとなれば尼になってしまいかねない。もしそうなったら赤っ恥どころの騒ぎじゃないな)
そう思うといてもたってもいられない。暫くは間をあけずに通おうと心を決めた。
(今日も返事すらなかったな)
としょんぼり物思いに耽る夕霧をよそに、昨日今日と全く食事をとらなかった雲居雁が夕飯を食べていた。
訝しむ妻にゆっくりと切り出す夕霧。
「昔から、貴女のためにどれほど心を砕いたことか。致仕大臣には冷たい仕打ちをされ、世間からは振られ男と嗤われながら、耐え難きを耐えた。あちこちから降って来た縁談もことごとくスルーした。何という義理堅さか、女でもそこまでの者はいるまいと皮肉交じりに噂された。今考えると、どうしてそこまでのことが出来たのか、若かったとはいえ重すぎじゃない?なんて我ながら反省するばかりだけど……いくら憎らしくても、今は子供達がいる。貴女のお気持ち一つで、所狭しと増えたこの子たちを捨てるなんて出来るはずないよね。どうか、長い目でみてやってくれない?いつどうなるか定めがないのは寿命だけで、私のこの想いはずっと続くんだから」
涙ながらの訴えである。雲居雁も、
(そうね……ありえないくらい大変な思いをして結ばれたわたくしたちだった。前世からの宿縁がよほど深かったのだわ)
とあらためて昔を思い出す。
灯影に見送る雲居雁は涙を堪えきれず、夕霧が脱ぎ捨てていった単衣の袖を引き寄せて、
「馴れて古びた我が身を恨むより
いっそ松島の海人(尼)の衣に着替えてしまおうか
やっぱりこんなの我慢できない!」
と独り言めかして歌を詠む。
夕霧は立ち止まって、
「何と情けないことを。
馴れた衣を脱ぎかえて尼になるなど
どんな噂が立つやら」
と返して出て行った。急いだせいか、出来はあまりよくない。
参考HP「源氏物語の世界」他
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