横笛 三
夕霧はつくづくとあの夢の意味を考える。
(厄介だな……亡き柏木の想いが遺った笛、私が貰うべきではなかった。かといって女が吹くものでもないし、あのまま一条宮に置いても仕方ない。柏木はどう考えていたんだろう?現世では何てことのない些事でも、人生終わりって時には変に気にかかったり愛着を持ったりして、無明長夜の闇に迷うことになる。何事も執着しすぎるのはよくないんだろうな)
横笛の扱いに困った夕霧は、愛宕の寺や柏木が生前帰依していた寺で経を上げさせた。
(とはいえ、あの母御息所がわざわざ由緒ある格別な品として下さったものを即寺に納めるというのも……供養にはなるだろうが、あまりにあっけなさすぎるよね)
思案した末、夕霧は六条院に向かった。
「誰も見てないし、僕も顔を隠すから!ねえ早く」
と袖で顔を覆う仕草がいかにも愛らしい。夕霧はそのまま抱きあげて、ヒカルのいる寝殿の方に連れて行った。
こちらでも女御の二の宮が女三の宮の若君と一緒に遊んでいる。ヒカルはその様子に目を細めている。夕霧が三の宮を隅の間の辺りに下ろすと、二の宮が見つけて叫んだ。
「えーいいな!大将、僕も抱っこして!」
「ダメ!僕の大将だもん!」
三の宮はしがみついたまま離れない。
ヒカルが見咎めて、
「これこれ、お行儀の悪い。朝廷の近衛をご自分の随身に独り占めしようと争うとは。三の宮はわがままでいけないね。何かにつけて兄と張り合おうとなさる」
二人をたしなめて仲裁する。夕霧は笑って、
「二の宮は随分お兄様らしくなって、弟宮に譲る心も十分おありのようです。年齢の割に恐ろしいほどご立派に見えますよ」
と褒める。ヒカルも本気で叱ったわけでもなく微笑む。孫たちが可愛くて仕方がないようだ。
「公卿をこんな軽々しい御座所に置いてはいけないね。夕霧、あちらへ」
と夕霧を連れて出て行こうとするが、皇子たちがまとわりついて一向に離れようとしない。
(本来なら、女三の宮の若君は皇子たちと同列に扱うべきではないんだろうけど……同じ六条院で生まれ育っている同士を分けるのは可哀想だし、母親もあの密通のせいかと要らぬ気を回して僻むだろうしなあ)
元より堅苦しいことは好まないヒカルである。どの子も分け隔てなく可愛がり大事にしていた。
夕霧は、
(そういえば、この若君をまだよく見ていなかったな)
と思い、枯れて落ちた花の枝を手に取って、御簾の隙間から顔を覗かせた若君をさし招いた。
走り寄ってきた若君は、二藍の直衣だけを着て、艶々した白い肌は皇子たちよりきめ細かく美しい。体つきもふっくらと清らかであった。
(そう思って見るせいか、この目つき……こちらの方が更に強い才覚を感じるけど、すっきり切れ長の目じりが柏木によく似てる。何より口元、笑った時のこのはなやかな感じ、そっくりだ。真相を知らない私でも気づくのに、まして父院はどう思っておられるやら)
ますますヒカルの心中を知りたくなる。
皇子たちは身分柄気高くは見えるものの普通に可愛らしい子供、というだけだが、若君は上品な上に抜きんでた美しさがある。夕霧は密かに見比べつつ、
(何とも哀れなことよ。私の疑っている通りであっても……柏木の父大臣があれほど悲しまれて、
『柏木の子だと名乗り出て来る人もいない。形見として世話する者さえ残してくれなかった……』
と泣き焦がれておられるというのに、お知らせすることは叶わない……罪作りなことだ。いや、本当にそうなのかどうかもまだわからないが)
納得もいかず、推察のしようもない。
若君は気立ても優しく大人しかった。夕霧によく懐いて傍を離れず遊ぶ様子もいじらしい。
夕霧はヒカルとともに東の対へ移り、ゆったりと語り合う。日も暮れかかる頃、昨夜の一条宮邸への訪問の話を出した。ヒカルは微笑んで相槌を打ち、聞き終わると口を開いた。
「想夫恋を弾くって趣向、確かにそのシチュエーションならば定番中の定番って感じはするけど、女が男の心を惹きつける原因になるような振舞いはうかうか表に出すべきじゃないと思うね。多いんだ、それで後々揉めるの。夕霧も、故人への情誼でかくも長き『好意』を寄せたんだろうけどさ。相手に通じたのなら、この先も清らかな気持ちで何くれとなく関わって、面白くもない過ちはやらかさないようにね。それが誰にとっても利があるし世間体にも良い」
夕霧は、
(正論だけどさ。人に説教する時はもっともらしく仰るけど、自分が同じ立場になったらどうなの?色々と聞いてるけど?)
と顔には出さないが不満である。
「何の過ちと仰るのでしょう。世の無常に直面された方々への同情からお世話を始めましたのに、ほんの短いおつきあいで終わりましたら、かえって世間によくありがちな『言い寄って振られたから寄りつかなくなった』というような疑いをかけられるのでは?」
きっぱり言うと、
「想夫恋にしても宮ご自身が弾き始めたのならその非難もわかりますが、もののついでにほんの少し、それがまたその場の雰囲気にピッタリ嵌っていて情趣がございました。何事も、その人次第、状況次第ではございませんか?年齢的に、若い娘がするような振舞いはもうされないでしょうし、私の方もふざけて色めいた態度をとるようなことには慣れておりません。あれでお気を許されたはずもない。概ね、お優しくて感じの良い方とはお見受けいたしましたが」
よし、今しかない、と夕霧はヒカルににじり寄り、あの夢の話をした。
ヒカルはすぐには何も言わなかったが、当然思い当たるところはある。
「その笛は……私が預からねばならない筋のものだ。陽成院の御笛でね。亡き式部卿宮が秘蔵しておられた。柏木が子供の頃から良い音を吹いたものだから、故宮が萩の宴を催した日に贈り物として取らせたんだ。一条宮の方々は、そこまでの由縁とは知らずに贈ったのだろうね」
(子孫に伝えよということはどういうことか、間違えようもあるまい。若君に……我が子に渡したかったのだろう。夕霧も頭が回る男だから、きっとうすうす気づいてるよね)
あくまで穏やかなヒカルの表情に、夕霧はますます気が引けてすぐには言葉が出ない。しかしこの機会に、どうしても言わねばならないことがある。今ふと思いついたかのように装って、ついに切り出した。
「そういえば……亡き柏木を臨終の際に見舞ったところ、遺言の中に気になることがございました。ヒカル院に対し深く恐縮していることがある、と繰り返し申したのです。如何なる事情なのか今もって心当たりがなく……モヤモヤしております次第です」
ヒカルはこの夕霧の言葉と態度で、
(やはり……何か知ってる)
と察したが、とても洗いざらい打ち明けることはできない。暫く考えるふりをして、
「そんな風に、死ぬ間際まで人に怨まれるような言動をいつどこでしたものか……覚えがないね。それはひとまず置くとして、夢の件はもう少しよく考えてみてからまたいつか話すよ。夜に夢語りをするべきではない、と女房たちも言い伝えているからね」
と話を終わらせた。
(父はいったいどう思ったんだろう?やはり聞いてはいけないことだったのか)
期待していた答えもなく、ただただ気恥ずかしい思いで一杯の夕霧であった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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