おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

鈴虫 三

2021年6月15日  2022年6月9日 

 


 ヒカルは冷泉院の御前を辞したあと、后の宮――秋好中宮のもとに渡った。

「なんと静かにお住まいでいらっしゃる。特に何がなくとももっとお目にかかり、過ぎゆく年に添えて忘れられない昔話など承りたく思っておりますが、私のような半端な立場の者は何かと憚られてどうにも動けません。そうこうしているうちに私より若い人たちに次々と先を越される気がして、無常の世の心細さに急き立てられる思いです。俗世を離れて引き籠る準備は徐々にしていますものの、やはり残される者が心配で……以前もお願いした通り、六条院春の町に住まう春宮の御母ならびに紫上に、どうかお心を留めていただきますよう」

 丁重に申し上げる。

 中宮は、昔と変わらぬ若々しくおっとりとした様子で応える。

「内裏の奥深くにおりました頃よりも、却ってこの頃はお目にかかる機会も少なくなったように存じます。それが思いのほか寂しい反面、皆が捨てていくこの世を厭わしく思う気持ちもあり……そんな心の内を聞いていただくのはやはりヒカル院と、つい頼りにしてしまいます。どうにもモヤモヤが晴れませんわ」

「仰るとおり、内裏にいらした頃は決まりに従った折節の里下がりを楽しみにお待ち申し上げておりましたが、いつでも好きな時にとなると、逆にいらっしゃれないものでしょうね。しかしいくら無常の世とはいえ、さしたる理由もなくうかうかと出家するものではありません。気軽な身分の人でさえ、いざとなれば何だかんだとしがらみが出てくるものですから。人真似とも申すような出家への道心は、かえって邪推する者も出て来るでしょう。断じてあってはならないことにございます」
 ヒカルにキッパリと否定された中宮は、
(人真似だとか……そんな浅い気持ちだと思われてしまったのね)
 と辛い気持ちになる。
(亡き母・六条御息所の霊が苦しんでおられるというのに。どんな業火の中に迷っておられるのか……)
 紫上危篤の際、現れ出た物の怪……それが誰であったかはヒカル自身ひた隠しにしていたが、人の口に戸は立てられない。噂を耳にした中宮は悲しみ、人生そのものが厭になるほどショックを受けたが、一方でたとえ物の怪とはいえ母が語った言葉、詳しく聞きたい気持ちもある。が、さすがにはっきりとは言い出せない。
「亡き人の……母の罪障がどうやら軽くはなさそうだと聞きました。確とした徴があるかなきかではなく、そういうことも踏まえて供養を考えねばならないことでしたのに、先立たれた悲しみばかりにとらわれ、彼岸での苦しみを思いやることが出来ませんでした。こんな至らないわたくしを教え導いてくださる方はおられないでしょうか。わたくし自身でもその業火を冷まして差し上げたい。年を取るにつれ、そういった思いに至ったのでございます」
(例の話をご存知か……そんな風に思うのももっともなことだろうな)
 ヒカルは不憫に思い、
「業火の炎からは誰しも逃れられないものと知りながら、朝露のかかる間のように儚い命を生きる私たちには中々諦めはつかないものですね。仏説には、仏に近い聖僧であった目蓮が餓鬼道に堕ちた母を見事救ったという話がございますが、凡人には到底真似出来ることではありません。貴女が玉の簪を捨てて出家なさったところで、現世に悔いを残すことにはなりませんか?慌てずに少しずつ気持ちを落ち着かせて、かの人の妄執が晴れるような供養をして差し上げては」
 ぼやかしながら、あくまで優しく言い聞かせる。
「私自身もそのように勤めたく思っていながら慌ただしさに紛れ、出家への意欲もあるかなきかの日々を送っています。自分のための勤行のついでにそのうち供養も、と思っていましたのは本当に浅はかなことでした」
 世は無常で厭わしい、捨てても構わないと思ってはいても、立場上おちおちとは動けないヒカルと秋好中宮であった。

 ヒカルは、昨夜と打って変わった賑々しい行列とともに仙堂御所を去った。
 大事に育てた甲斐あって春宮の女御の隆盛は並ぶ者なく、夕霧大将もまた誰より優れた公達である。どちらも将来何の心配もない。
 ヒカルの胸の内にはもうひとりの息子――冷泉院がいて、この二人を上回る愛情を抱いていた。冷泉院の方も常にヒカルのことを気にかけており、在位中は滅多に対面の機会がなかったのが不満だった。心おきなくヒカルに逢える気楽な境遇になりたい――それが退位を急いだ大きな理由の一つでもある。
 そうして仙堂御所に落ち着いた冷泉院と共に普通の夫婦のごとく暮らす秋好中宮は、六条院へ里下がりすることもなくなった。在位中よりも仲は深まり、時にははなやかな催し事も楽しむ、何処から見ても幸福な二人である。いくら中宮が亡き母のために仏道へと心を傾けたところで、冷泉院にしてもヒカル同様いきなりの出家など許すはずもない。ただ追善供養を熱心に営むうち、日に日に道心も勝り、世の中を悟る気持ちも深くなりつつある中宮であった。
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