夕霧 八
夕霧さまはいつもの妻戸の前にいらして、しばらくそのまま辺りを見回していらっしゃいました。着馴らした直衣に濃い色目の下襲、擣目(うちめ)が良い具合に透けています。弱い光とはいえ遠慮なく差し込む夕日に、眩しそうにさり気なく扇をかざしたその手つきは、
「女ならこうありたいけれど、なかなかできるものではないわね」
と言いたくなる仕草にございました。何の華もないわびしい山荘に住まう私どもには目の保養ともいうべき笑顔で、はっきり
「小少将をこれへ」
と御指名になりました。広くも無い簀子、御簾の向こうもさして奥深くはございません。夕霧さま側からは中にどのくらい女房たちがいるのか、どのくらい近くにいるのかもわからず決まりが悪かったのでしょう、
「もう少しこっちに寄ってくれない?何だか一人放っておかれてるみたいだ。こんな山奥まではるばる来た私に隔てを置くなんて。霧も深かったんだよ?」
と何気なく山の方を見やりながらもっと近く、と催促なさいます。仕方がないので、鈍色の几帳を御簾の端からすこし押し出して、衣装の裾をちらっと見せた上で引き隠して座りました。私は亡き御息所さまの姪であり、小さい頃から大変お世話になりました関係で、他の人より喪服の色も濃く橡の下襲に小袿を着ておりました。
確かに小少将であると認められてか、夕霧さまが早速小声で切り出されます。
「時が過ぎても尽きない悲しみはさて置いて、返事一つも下さらない冷淡さに打ちのめされております。魂も抜けたようで会う人ごとに怪しまれるほどです。もうこの気持ちを抑えるすべはありません」
諄々と恨み言を述べられるまま、例の、亡き御息所さまの最後のお文の話も涙ながらに語られました。私もつい大泣きしてしまって、
「あの時……御息所さまは、夕霧さまからのお返事も中身を見ないまま終わってしまいました。もはやこれまでと覚悟された上に思いつめられて、ああ今日もお渡りのないまま暮れると……お心が折れたその隙を、いつもの物の怪がつけ入ったのでございましょう。先の、柏木さまが亡くなられた際にも殆ど人心地を失ったような折が多々ございましたが、同じように沈んでらした宮さまを元気づけようと気強くなさったことで、御息所さまご自身も徐々に持ち直されたのでございます。その方を亡くされた悲しみに宮さまは我を失われ、茫然と暮らしていらっしゃるのです」
とめどもなく涙を流しながら、つっかえつっかえ申し上げました。
夕霧さまは、
「それはまあ、そうなのだろう。お気持ちはわかるけれども、あまりに頼りなく、情けないお心では?畏れ多くも申し上げるが、今から誰を頼りになさるおつもりか。父君は……朱雀院は出家され、俗世から離れた深い山奥で雲の中にお住まいでいらっしゃる。お手紙すらままならぬというのに。小少将、君たち女房からもよく言い聞かせてくれない?万事が前世からの宿縁なのだと。もう生きていたくないと思ってもそうはいかないのだと。世の中がお心にかなうことばかりならば、まず母君と死別することもなかっただろう」
いささか強い口調で仰いました。ええ、確かにその通りにございます。道理として何も間違ってはいません。ですが私にはどうにもお返事のしようがなく、ただ溜息とともに座り込むばかりにございました。
鹿の鳴く声が悲し気に響いております。
夕霧さまは、
「『我劣らめや』私は鹿より劣るのか、
人里離れた小野の篠原を分けて来たが
私も鹿のように声を惜しまず泣いています」
※秋なれば山とよむまで鳴く鹿に我劣らめや独り寝る夜は(古今集恋二-五八二 読人しらず)
と歌を詠まれました。私も
「喪服も露めいた秋の山人は
鹿の鳴く声にあわせて泣いています」
と返しました。あまり出来はよくないですが、この場の雰囲気に合ってはいたかもしれません。
そのほか色々とお取次ぎをいたしましたが、宮さまは―――
「今は此の世ならぬ夢の中におります。少しでも覚める折がありましたら、度々のお見舞いにもお返事できましょう」
つれないお言葉を告げられるばかりにございました。
「なんという……気が向いたら返事するかもしれないってこと?ああ」
夕霧さまはがっくり肩を落とされて、お帰りになられました。
態々来ていただいたというのにこの体たらく、さすがにお可哀想でしたが宮さまはもう固い殻を被られたようなもので、一切心を開こうとはなさいません。夕霧さまのせいでこんなことになった、そう思い込んでらっしゃる。理を説かれれば説かれるほど、夕霧さまの策略に嵌ってなるものかと、ますます意固地になられるばかりです。
どうしたらいいのか、私にももうわかりません。兄にも相談してみますが、どうなることやら。
小野の山荘からは以上です。小少将でした。
帰りの道すがら、車中から晩秋の夜空を眺める夕霧。十三夜の月が煌々と差し出ている。ほの暗い山も越えられそうだと思ううち、一条宮邸への道にさしかかった。車を止めさせて暫し佇む。
主を失った邸はだいぶ荒れて、南西の方の築地は崩れている。覗き込むと、一面に格子が下ろされて人影も無い。月だけが遣水の水面を明るく照らす。
(柏木がよくここで管弦の遊びをしてたよね)
しみじみと思い出して、
「もう影が映ることもないこの池水で
ひとり宿を守る秋の夜の月よ」
独りごちつつ帰った。
三条の邸でも、心ここにあらずといった風情で月を眺め続ける夕霧に、
「何ともお見苦しいこと。今までには無かったお振舞いですわね」
と主だった女房達も毒づく。雲居雁は真剣に憂慮しており、
「もう完全に浮かれちゃってるわね。元から大勢で一緒に住んでおられる六条院の女君がたを、何かと素晴らしい事例として引き合いに出されては、私を気立てのよくない愛想もない女だと見做されて……あんまりだわ。私だって、昔からそんな風なら人目も馴れて無難に暮らせたわよ。世の男性の規範にしてもいいお心ばえだと、親兄弟をはじめ世間から果報な妻よと呼ばれてきた私が、最後にはみじめに捨てられるなんて」
と嘆きに嘆いていた。
お互い言いたいことも言わないまま、背中合わせに嘆く夜を明かす。夕霧は朝霧の晴れ間も待たず、いつもの文を急ぎ書く。雲居雁はひどく不愉快だが、いつぞやのように奪うことはしない。夕霧はじっくり気持ちを入れて書きあげ、ふと置いて何かを呟いた。声を低めてはいたが雲居雁の耳には漏れ聞こえた。
「いつになったら目覚められるのでしょうか
明けない夜の夢から覚めたら、と仰っておられましたが
お返事がありません」
どうやら手紙に書いた歌らしい。包んだ後も「どうしたものか」などと言いつつ、家来を呼び手紙を託した。
(あちらからのお返事だけでも見たいものだわ。本当の所、どうなっているのかしら)
夫の不審な言動の理由を知りたい雲居雁であった。
返事が届いたのはもう日が高くなってからであった。味も素っ気もない濃い紫色の紙に、例によって小少将が書いたものである。内容も同じく、宮からの返事はない旨書いてあったが、
「あまりにもお気の毒なので、頂戴したお手紙に遊び書きしていらしたものを盗みました」
と、引き破った紙が入っていた。
(一応手紙をご覧になってはくださったのか)
と思うだけで嬉しい夕霧だが、何ともみっともない話である。とりとめもなく書かれた文字を眺めていると、
参考HP「源氏物語の世界」他
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