夕霧 六
こんにちは、落葉の宮の女房・小少将にございます。
小野に移ってからこんな短い間で……まさかこんなことになろうとは思いもよりませんでした。一条宮のお邸にて平穏に暮らしていた日々が、もう何十年も昔のことのように思えます。
母御息所さまは、あの晩以来夕霧左大将さまがお見えにならないことに大層気を揉まれていらっしゃいました。外聞の悪さも何もかなぐり捨てられ、暗にご結婚を促すようなお手紙を書かれたというのに、待てど暮らせど返事が来ない。その日も暮れようという時にはもう、いったいどういうご了見なのかと怒るやら呆れ果てるやらで心も折れ、小康状態にあった体調もまた悪化されてしまいました。
当の落葉の宮さまは、夕霧さまから何も消息がないことを特に辛いとも何も思っておられず、ただ夫でも恋人でもない殿方をあれ程まで近づけてしまった、そのことだけを悔やんでおられました。その程度のお気持ちですのに、母君の御息所さまが一大事のように悩んでおられるのが心外で恥ずかしく、かといってあの一夜を弁明するすべもない、ということでいつになく言葉少なく小さくなっていらっしゃいました。その様子をご覧になった御息所さまがまた
「おいたわしい、この先ももっと悩みが増えていくことでしょう」
と胸を痛められる、といった堂々巡りでした。
御息所さまは苦しい息の下からも、宮さまに言葉を尽くされます。
「こんな歳になってからお小言でもないけれど……これも運命とはいえ存外な思慮の浅さゆえに、人の誹りを受けるようなことになってしまいましたわね。取り返しのつくことでもございませんが、今からでも慎重になさいませ。数ならぬ身のわたくしがこれまで何かとお世話申し上げてまいりましたが、もう何でもお分かりですし、世の中のなんたるかも理解して暮らしていけるほどに成られたと思います。ただ……男女の方面も安心と思いきやいたく幼くいらして、強いお心構えというものがなかった。まこと遺憾にございますので、もう少し長く生きていたく存じます。皇族ではなくとも、それなりの身分の女人が二人の夫にまみえるなど感心しない浅はかなこと。まして皇女である貴女にはみだりに殿方を近づけるべきではなかったのに、思いもかけないご結婚をされたもので長年心を痛めておりました。そういう運命だったのかしらね……朱雀院がまず乗り気になられ、あちらの致仕大臣に対して内々にお許しになられていたものを、わたくし一人がたてついたところで何になろう、と承知をいたしたものですが、後世にまで障りがありそうな結果となってしまって……貴女自身の過ちではないと天を仰いで見守ってまいりましたが、このような事態になり、貴女にも相手にも色々と聞きにくい噂が出て来ましょうね。それでも世間の目は知らぬ顔で普通のご夫婦になられたなら、時が経つにつれ心も安らいでいくだろうと思い成しておりましたのに……何と、大将殿がこれほどに薄情なお心の方でいらっしゃいましたとは」
ほろほろと泣かれます。
あの夜の出来事を独り決めして仰る御息所さまに、どうにも口を挟めずただ泣くばかりの宮さまは、いじらしくも可憐なご様子でした。御息所さまはそんな宮さまをじっと見つめられて、
「お可哀想に。どこに他人より劣ったところがありましょうか。どういう宿縁で心の休まらない、悩ましいばかりの因縁に絡まってしまったのか」
などと仰るうち、どんどん容態は悪くなっていきました。物の怪めも、こういった弱り目につけこんで勢いづくものでございましょう。御息所さまはあっという間に息を詰まらせ、身体はみるみるうちに冷えきってしまいました。
律師が騒ぎ立てて、願を立て大音声で祈祷を始めました。御仏に深く誓いを立て、命果てるまでと決心した山籠もりを翻し、並々ならぬ覚悟で出て来た律師にございます。虚しく壇を解体し再び山に入るのは如何にも面目なく、仏も辛く思われるだろうと、気力を奮い起こして祈り続けます。まして宮さまのご様子は、見ていられないくらい悲痛なものでした。
騒然とする中、夕霧さまからのお返事が届きました。御息所さまもその知らせをほの聞かれて、
「お手紙……つまり、今宵もいらっしゃらないと……何と情けない。さぞかし噂の種になることでしょう。何故、自ら受け入れるような言葉を書いてしまったのか、わたくしは……」
一縷の望みをも絶たれてしまった御息所さまのお身体からすっと力が抜け、そして―――ついに息絶えてしまわれました。
あまりにあっけなく、おいたわしく……どんな言葉でも言い表せないご臨終にございました。
昔から物の怪に悩まされておいでだった御息所さまです。これで最期と見えた折も何度かございます。律師たちは、
「これも物の怪の仕業なのかもしれない」
と更なる加持を尽くしますが、もうはっきりと死相が現れておいででした。
宮さまは一緒に死にたいと仰って、ぴったり寄り添ったまま離れようとしません。
女房たちが口々に道理を説きます。
「もう致し方ございません」
「いくら悲しまれても、命には限りがございます。帰ってはこられないのです」
「後を追いたくてもお心に叶うものでは」
「たいそう不吉にございます。亡くなられた方の御ためにも罪深きこと。さあ、離れてくださいませ」
引き離そうとしますが、身がすくんだように動きません。心ここにあらずといったご様子でした。
修法の壇は崩され、法師たちが一人また一人と去っていきます。主だった一部の僧のみ残っていますが、もうこれで全てが終わりと思い知らされるようで、それは悲しく心細いものでした。
いったいいつの間に知れたものか、あちこちから御弔問の使いがやってきました。夕霧左大将さまを皮切りに、六条院、致仕大臣、その他ひっきりなしです。朱雀院さまの知るところともなったようで、心のこもったお手紙が届きました。
「長らく重く患っておられるのは聞いておりましたが、いつも病気がちとばかり聞き馴れて油断しておりました。今は何を申し上げても詮無いことですが、どんなにお嘆きのことかと思うとおいたわしく、胸が痛みます。すべて世の定めと思い成し、お心を静められますように」
涙で目も見えない宮さまでしたが、父院のお手紙だけは読まれ、お返事を書かれました。
普段から御息所さまが仰っていたご希望通り、葬儀は本日すぐに行うということになりました。御息所さまの甥である大和守、私の兄ですが、すべて取り仕切って人や物の手配をしてくださるようです。亡骸でもまだ母君を見ていたい、と宮さまは惜しまれましたが、どうしようもございません。
急ぎ葬儀の準備にとりかかっているところ、夕霧さまがいらっしゃいました。直接の御弔問としては余りにも早うございます。これは後から聞いた話ですが三条のお邸では、
「そこまで急いで行かれる程のご関係でもありますまいに」
などと女房たちが諫めたにも関わらず、
「今日を逃すと、日が悪くなってしまうのだ」
と仰って無理に出て来られた、とのこと。いったいどんな思いではるばるいらしたものやら。
弔いの儀式を行う辺りからは離れた西面にご案内です。まず大和守が出て、泣く泣くご挨拶を申し上げます。夕霧さまは妻戸の簀子に寄りかかられ、顔見知りの女房を……私のことです……呼び出されましたが、誰も彼もそれどころではなく、伝わるまでに結構な時間がかかりました。
それでも、ああやっといらしたのだ、と幾分慰められる気持ちで応対に出ました。しかし何と申し上げたらよいものか……夕霧さまご自身もすぐには言葉が出ないようでした。決して涙もろくはない気丈なお方ですが、この場の雰囲気や人々の嘆きぶりを思いやられたのでしょう。悲痛なお顔で暫し躊躇いつつ、ようやく仰られました。
「よくおなりになられたと承って安心しておりましたのに。夢なら覚めてほしいものですが……何とも思いがけないことで」
早速宮さまにお伝えしましたが、返事もなさいません。御息所さまのご心痛、ひいては容態が悪くなられたのも元はこの方のせい……とも思われておいでなので、まして今は考えたくもなかったのでしょう。
「どのように仰せになられたと申し上げればよろしいでしょうか?」
「軽くはないお立場で、こんなに急いで弔問に来ていただいたそのお志は汲んで差し上げないと。余りな仕打ちにございましょう」
女房達が口々にお諫めすると、
「もう適当に返事しておいて。わたくしは何を言っていいのかもわかりません」
と突っ伏してしまわれました。仕方がないので、
「今は悲しみの余り、亡き人と変わらぬ有様にございます。お渡りになられた旨はお伝えいたしました」
とだけ申し上げました。涙にむせぶ女房達の様子に夕霧さまが、
「お慰め申し上げようもございませんね。私自身ももう少し気持ちが落ち着いて、そちらもお鎮まりになった頃にもう一度伺います。どうしてこんなに急変されたのか、詳しく聞きたい」
と仰いましたので、御息所さまがお嘆きになっていたご様子をかいつまんでお話しいたしました。
「これ以上は恨み言になってしまいます。今日のところは皆が皆ひどく動揺しておりますから、言い間違うこともきっとございましょう。宮さまもそういつまでも取り乱してはおられないと思いますので、すこし落ち着きましたらゆっくりお話を承ればよろしいかと存じます」
私自身も、話している自分の声が遠くから聞こえる感じで、茫然としておりました。夕霧さまもさすがにこの騒がしい中延々と立ち話を続けるのも軽々しいと思われたか、
「いや本当に、闇に迷い込んだような心持ちだよ。どうかよく宮さまをお慰めして、わずかなりともお返事くださる気になられるといいんだけど」
とだけ仰って、お帰りになられました。
とても今夜中には無理だろうと思われた葬儀でしたが、兄の大和守の尽力により着々と準備が進みました。ただ、急なことでどうしても簡素な形にせざるを得ません。それを見かねてか、夕霧さまが山荘に程近い荘園の人々をお手伝い要員として招集してくださったのです。そのお蔭で人の頭数も増え、立派な葬儀となりました。大和守も、
「なんと有り難い、大将殿のお心遣いであろう」
と喜んでお礼を申し上げておりました。
しかし宮さまは、
「母君は、もう跡形もなく消えてしまった……」
と身も世もなく泣き続けられるばかりでした。誰にも慰めようがありません。
親といえども、あまりに睦まじくするものではない―――女房たちの間で、おいたわしい宮さまの御様子を不吉だとして嘆く者すらありました。
大和守は葬儀の後始末をしながら、
「そんな頼りない有様では、とてもこの山奥では暮らせないでしょう。悲しみも紛れないのではないですか」
と心配していましたが、この時の宮さまは、せめて母君が煙になられた峰に近いこの山里で、思い出とともに一生を送りたいと思っておられたのです。
忌中に籠る僧は東面から渡殿、下屋の辺りに仮の仕切りを立て、ひっそりと経を読んでいます。宮さまは飾りを取り払った西の廂に住まうことになりました。
いつ朝が来ていつ夜になったのかもお分かりでないまま、それでも月日は過ぎていきます。
もう九月ですね。早いものです。
参考HP「源氏物語の世界」他
にほんブログ村
コメント
コメントを投稿