おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

夕霧 五

2021年6月24日  2022年6月9日 


 同じ日の昼、夕霧は三条の邸にいた。

(今夜はどうしようか……訳アリのような顔で行くのはみっともないな……何もなかったっていうのに)

 小野の山荘に行きたい気持ちは大きかったが強いて抑えていた。この数年の心もとなさよりも「千重に」物思いを重ねて溜息ばかりである。

※心には千重に思へど人に言はぬわが恋妻を見むよしもがな(古今六帖四-一九九〇 かさのにらう)

 夕霧の北の方・雲居雁は、この夜歩きの一件を既に耳にしていた。当然面白くはなかったが、知らぬ顔で子供たちをあやして紛らわせつつ、自分の昼の座所で横になっていた。

 日が暮れてすっかり暗くなった頃、小野の山荘から母御息所の書いた返事が届いた。

(なんだこれは……いつもと違って随分と読みづらい筆跡だな)

 夕霧はじっくり見ようと灯りを近くに寄せた。背後からそっと近づいてきた雲居雁にはまるで気づかない。

 一瞬のうちに、手紙を取り去られた。

「あっ、何をするんだ。呆れたことを……六条院の、東の御殿からのお手紙だよ?花散里の御方が今朝、風邪を引かれて辛そうにしていらしたんだ。ヒカル院の御前に参上して、そのまま寄らずに帰ってしまったから、具合は如何ですかと文を出したその返事だ。よく見てみなよ、全然懸想文って書き方じゃないでしょ?何も面白くないよ?まったく、夫婦になって長年経ったからってここまで私を馬鹿にする?私にどう思われるかなんて考えてないんだね」

 夕霧は呆れた体で嘆いてみせたが、慌てた素振りはみせない。雲居雁もさすがにすぐに開くようなことはせず、手紙を持ったままで言い放った。

「長年経ったからといって馬鹿にする、というのは貴方の方こそでしょう?」

 あまりに動じない夕霧に気恥ずかしくなったか、若い娘のように拗ねてみせた雲居雁に、

「どっちでもいいよ。夫婦ならありがちなことだ。だけど私みたいな男はそうそういないよ?相当な身分に上ってもよそ見ひとつせず一人の妻を守り続けて、ビクビクしてる雄鷹みたいな男はさ。世の人もさぞかし笑っているだろうね。そんな偏屈者に守られているなんて、貴女にとっても不名誉なんじゃない?」

 余裕の微笑みで返す夕霧。

「大勢の妻妾の中で一段と際立って別格と見られる人こそ、他人からも評価され、夫もいつも新鮮な気持ちで興をそそることも愛情を育むことも絶えることはないものだ。偶然兎が手に入った切り株を延々守り続ける爺のように、愚直に貴女一筋でいる私はいい面の皮だよ。どこに栄えがあるのやら」

 どうやって手紙を取り返そうかと焦る気持ちはおくびにも出さず、故事まで引き合いに出して煙に巻こうとする夕霧を、雲居雁は高らかに笑い飛ばす。

「その栄えとやらを自らお作りになられるから、古い妻の私は辛いのよ。チャラチャラした若者みたいに浮ついちゃって……まるで別人よ?こんなこと初めてなんだもの、そりゃ悩みもしますわよ。最初からそういう人だってわかっていればまだよかったのに」

 ストレートに嫉妬する妻の姿は可愛くもある。

「急に変わったって、いったい私のどこが?それこそ貴女の被害妄想ってやつじゃないの?よからぬことを吹きこむ女房でもいた?よくわからないけど私は昔からよく思われてはいないよね。今でもあの浅葱の袍を侮ったそのままの心持ちで、貴女を操ってやろうって魂胆なのかな。あることないことほのめかしてるんじゃない?巻き添えにされた方にもご迷惑だよ」

 そうは言いつつも、夕霧の中では落葉の宮を妻にすることはもう決定事項である。だからこそ今ここで事を荒立てるわけにはいかない。その昔、若い夕霧を六位ふぜいがと言い捨てた大輔の乳母は、引き合いに出されてどうにもいたたまれず、何も言えない。

 あれこれ口論した挙句、手紙は雲居雁に持ち去られてしまった。後も追わず、何食わぬ顔で寝ることにした夕霧だが、どうにも胸騒ぎがして眠れない。

(どうやって取り返そうか……御息所の筆跡らしかったし、何事かあったのだろうに)

 雲居雁が寝入った後、昨夜座っていた敷物の下などをそれとなく探ったが見つからない。隠す暇もなかったはずなのに、と思うと口惜しくてますます寝付けず、夜が明けても起きる気になれなかった。

 雲居雁は子供達に起こされて這い出ていった。夕霧は自分も今目覚めたかのように装い、あちこち視線をさまよわせるも見当たらない。雲居雁は夕霧の無関心さに、

「本当に懸想文じゃなかったのね」

 と決め込んで、もう気にも留めていないようだ。とにかく子供たちが騒がしくて、雛を作り並べて遊ぶ子、漢籍を読む子、手習いをする子、それぞれ見てやるだけでも忙しい。ハイハイする幼い子に裾を引っ張られててんてこ舞いの雲居雁は、隠した手紙などもう思い出しもしなかった。

 一方夕霧は他に何も考えられない。早く返事をせねばと気ばかり焦るが、昨夜の手紙の内容も碌に見ていないままでは書きようがない。

(的外れな返事をすれば、さては無くしたかと疑われるだろう)

 とくよくよ悩み続けていた。

 誰も彼も食事を済ませひと段落した昼、ようやく夕霧は切り出した。

「昨夜の手紙には何と?貴女が分からないことを言って見せてくれなかったものだから、今日もお見舞いに行かなきゃならない。だけどどうにも気分が悪くて六条院にも行けそうにないから、手紙を出したいんだ。どういう内容だったのか教えて」

 ごくさり気ない言い方だったので、

(あら、そういえば取り上げたんだっけわたくしが)

 急に自分のやったことが恥ずかしくなった雲居雁は手紙の行方には触れず、

「一夜の深山風に当たって具合を悪くしたらしいとでも、風流めかして言い訳なさればよろしいのでは?」

 と斬り捨てた。

「いい加減に冗談はやめてよ……何の風流なのそれ。世間にありがちな浮気男扱いは心外だな。女房達だって、こんな堅物の夫に何言ってるんだって笑うとこじゃない?」

 冗談めかしつつも内心は修羅場である。

「さあ、手紙はどこ?」

 言っても雲居雁ははぐらかして答えない。何やかんやと話をそらされるうち、あまり眠れていなかった夕霧は寝落ちしてしまった。

 蜩の声。

 目を覚ました夕霧は、

(しまった、もう夕方じゃないか……小野の山蔭ではどんなに霧が立ち込めていることか。情けないことだ、何としても今日中に返事をしないと)

 申し訳なさに胸が潰れそうだったが、顔には一切出さずに硯を出し墨をする。

(こんなに遅れた理由をどう言い繕うか)

 考えつつふと座所に目をやると、奥の方がすこし上がっている。試しに引き上げると、

(あった!見つけた……こんなところに挟んでたのか)

 嬉しいやら馬鹿々々しいやらで苦笑しながら、早速中身をあらためた。

(これは……御息所の容態はそれほど悪いのか。しかもあの夜のこと……何かあったのだと思ってらっしゃる)

 正式な結婚であれば三日を通して通うのがお約束である。なのに夕霧は行かなかった。

(昨夜はいったいどんな思いで明かしたのだろう。何をやってたんだ私は。今の今まで文すら差し上げないで)

 今更何を言えばいいのか。重病人がこんなに苦し気に、震える手でどうにか書いたらしいの手紙に。

(よほど思い余ってのことだったろうに……)

 返す返すも雲居雁の所業が情けなく腹立たしいことこの上ない。

(あんな埒も無い悪ふざけで隠したりして。……いや、すべては私が招いたことだ)

 はげしい自己嫌悪のあまり泣きたくなってくるがそんな暇はない。

(今すぐ小野へ……いや待て。きっと簡単には会っていただけないだろう。御息所もあんな風に仰っているし……しかも今日は坎日(かんにち)で外出を忌む日だ。万一お許しがあったとしても日が悪い。縁起の良い日にしないと)

 几帳面な性格からそう決め打って、やはりまず返事をと急ぎ書いた。

「大変珍しいお手紙を嬉しく拝見いたしましたが、このお咎めは?どのようにお聞きあそばしたのでしょうか。

 秋の野の草の茂みを踏み分けてお伺いはしましたが

仮初めの夜の枕に契りを結ぶようなことはしませんでした

 言い訳するのも筋違いですが、昨夜の罪は一方的過ぎないでしょうか」

 落葉の宮あてにはもっと多く書いて、厩の中でも足の速い馬に鞍を移しおき、あの夜と同じ家来に使いを命じた。

「昨夜から六条院に伺候していて、たった今帰ってきたところだと言うように」

 と、こっそり言い含めて。

参考HP「源氏物語の世界」他

<夕霧 六 につづく

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