夕霧 四
落葉の宮はようやく立ち上がり、母御息所のいる北廂の間に向かった。他の女房達の目につかないようにと、間にある塗籠の戸を開けさせて中を通っていく。
御息所は苦しい中でも体裁を整え、丁重に宮を迎えた。平生の作法と違わずしっかり起き上がっての対面である。
「病で見苦しい有様ですので、此方に来ていただくのも気が引けますね。この二、三日ばかり会わなかっただけで何年も経ったような気がして、心細くもあります。後世では必ずしも再会できるとは限らないといいますし、また此の世に産まれ変わったとしても甲斐の無いことです。思えば、親子でいられますのもほんの束の間。すぐに別れ別れにならねばならない此の世でむやみに睦まじくし過ぎましたのも、後悔の多いことですわ」
涙ながらの御息所の言葉に、宮も今までのさまざまな事で頭が一杯になり、言葉も見つからない。元より内向的な性格で、はきはきと弁明するなど思いも寄らない。恥ずかしさのあまり身の置き所も無い我が娘の内心は、母である御息所には痛い程わかる。昨夜の件について問いただすなど到底出来ないのだった。
大殿油など急ぎ灯し、早めの夕食を此方で取ることとした。宮が殆ど食べないというので御息所自ら指示して整えた食事だが、やはり箸もつけない。宮からすれば、母がすこし具合が良さそうに見えるのだけがせめてもの慰めになっているようだ。
夕霧からまた文が届いたのはそんな時だった。
「大将殿より、小少将の君にとお使いがありました」
と堂々と知らせてきた。気まずい空気の中、小少将が文を受け取った。
御息所もさすがにこれを無視も出来ず、
「どういうお文なの?」
と尋ねた。自分の命もそう長くはないと弱気になっていたところ、やはり夕霧に娘を託すしかないのか、という気持ちにも傾いていたが、このタイミングで手紙が来たということは……今日ここに夕霧が来る可能性は限りなく低い。
「宮、そのお文にはいくら何でもお返事なさい。失礼ですよ。一度立った噂を良きように言い直してくれる人などおりません。貴女は潔白だと思っていても、信用してくれる人は少ないものです。素直にお文のやり取りをして、態度を変えないのが上策でしょう。いい年をして甘えたではいけません」
と手紙を引き寄せた。小少将はきまりが悪かったが、もう隠しようがない。
「驚くほど冷淡なお心をはっきりと拝見して、却って気も楽になり、一途に突き進む気持ちに傾きそうです。
拒むゆえに浅いお心が見えましょう
山や川の流れのように浮名はつつみ隠せませんから」
何やら長々と書いてあったが、御息所は皆まで読まず文を置いた。
今回もまた二人の先行きも何も明らかにはせず、ただ拒否した宮を責めるだけという、上から目線の嫌味な書き方であった。
(何なのこの手紙は。とても一晩共に過ごした後とは思えない。その上今宵は来る気もないと?酷すぎる)
子供っぽいことはおやめなさいと我が娘を窘めたところなのに、何のことはない。夕霧も大概ではないか。
(亡き柏木の君が今一つ宮を愛してくれなかったのは辛かったけれど、概ね妻としての扱いは申し分なかった。此方の方が立場は上だとはっきり示されて、慰められるところもあった。それでもとうてい満足いく夫婦仲とは言えなかったのに。ああ、何てこと。致仕大臣の辺りでいったいどう思われていることやら)
御息所はいたく心を痛めたが、
(仕方がない。まず返事を書いて、大将殿がどう出るかを確かめなくては)
と、病で涙に曇ったような目を押し開き、震える指先で鳥の足跡のような力ない文を書く。
「わたくしももう回復の見込みもなくなりました。ちょうど宮がお見舞いにいらしておりますのでお返事を促したものの、わたくしの病状を心配し大層落ち込んでおられますのを見かねまして……
女郎花が萎れる野辺をいったいどういうおつもりで
一夜だけの宿をお借りになられたのか」
ここまで書いたところで力尽き、ひねり文にして女房に預けた。そのまま臥せってしまった御息所はやがて酷く苦しみ出した。さては今まで良さそうに見えていたのは物の怪が謀ったか、と女房達が騒ぎ出す。
いつもの霊験あらたかな修験者どもが集められ、壮絶な加持祈祷が始まった。
「宮さまはあちらへ戻られませ」
と女房達が勧めるも、宮は辛く悲しい気持ちごと母と共に逝きたい、と傍を離れようとしない。
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