おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

若菜下 十六

2021年5月3日  2022年6月9日 


 女三の宮は罪悪感に堪えかね、ヒカルと顔を合わせるのも恥ずかしく気詰まりで、ろくに返事も出来ない。

 ヒカルは

(さすがに長いこと放置しすぎだったもんな。恨まれても仕方ないか)

 と思い込んで何かと宥めにかかる。

 年配の女房を呼んで宮の体調を尋ねると、

「普通のお体ではございません。つまり御気分がすぐれないのは、つわりのせいではないかと」

 と言うではないか。

「なんと、不思議だな。今頃になって珍しいこともあるものだ」

 ヒカルは嬉しいというより内心、

(長年一緒にいる女君たちは全然その気配もなかったのに?まあ、本当かどうかまだわかんないし、特に触れなくていいか)

 くらいに思っていた。とはいえ具合悪そうにしている宮は愛らしく、守ってやりたい風ではある。もう行かないとマズイ!と渋々来たヒカルも、これでは帰るに帰れない。

 が、二、三日滞在するうち、

「紫上はどうしているだろうか……」

 とどうにも気持ちが落ち着かず、やたらと手紙を書いては出していた。

「いつの間にあれだけお言葉が溜まるのかしらね。せっかく身ごもられたのに……宮さまの今後も心配でなりませんわ」

 この、如何にも幼い宮が犯した過ちを夢にも知らない女房達は、口々に不満を言う。ただ小侍従一人だけがどうなることかと胸を騒がせていた。

 一方で柏木は、ヒカルが宮のもとに滞在していると聞いて、身の程知らずな嫉妬心を起した。恋の熱に浮かされたような手紙を受け取った小侍従は、ヒカルが他の対に立ち寄って人少なになった僅かな隙をみて、こっそり宮に見せた。

「そんな厄介なものを見せないで。余計に辛くなるわ……ただでさえ気分が悪いのに」

 宮は突っ伏したまま目もやらない。

「まあそう仰らず、この端に書いてあるのをご覧なさいませ。心に沁みますわよ」

 といって広げたところ、誰か来る気配がする。小侍従は慌てて几帳を引きよせてその場を去った。 

 残された宮はもう胸がドキドキしてとても平静ではいられない。ヒカルがもう、すぐそこまで来ている。しまい込む暇はなく、咄嗟に自分の寝ている茵の下に挟み込んだ。

 

 ヒカルは今夜にも二条院に帰る予定でいたので、宮に挨拶をしに来たのだ。

「貴女はそこまで悪くもなさそうだけど、彼方はまだまだ弱弱しくいらしてね。見捨てたように思われても今更気の毒だから、そろそろお暇するよ。悪く言うような者もいるかもしれないけど、どうか私を信じてください。そのうちお分かりになりますから」

 いつもならば宮も、たわいもない冗談を返したりして気楽に過ごすところなのに、今はすっかり沈み込んで目を合わせることさえしない。ヒカルは、

(帰られるのが寂しくて拗ねてるのかな?)

 と思い、昼間の御座所に横たわって一日宮の相手をして過ごした。

 いつの間にかうとうとしていたヒカルは、賑やかに鳴き出したヒグラシの声に起こされた。

「それでは……『道たどたどし』くならないよう、そろそろ」

※夕闇は道たどたどし月待ちて帰れわが背子その間にも見む(古今六帖一、三七一、夕闇)

 ヒカルは言って、身づくろいを始めた。

「『月待ちて』とも言いますものを」

 いたいけな子供のように目を潤ませて呟く宮。

(月が出るまでの間だけでも、ということか)

 さすがのヒカルも心苦しく思い、立ち止まってしまった。

「夕露に袖を濡らせと鳴くひぐらしの声を

聞きつつ起きて行かれるのですね」

 心のままに詠んだ歌が追い打ちをかけ、ヒカルは膝をついて

「ああ、これは困ったな……」

 と溜息をついた。

「私を待っている人も聞いているでしょうか

それぞれの心を騒がせるひぐらしの声を」

 ここまで言われて無下に出て行けるはずもなく、もう一晩泊まることにした。しかし紫上のことが気になって食事も喉を通らない。菓子類だけを少し食べて寝た。 

 

 翌朝。

 ヒカルは、涼しいうちに帰ろうと早く起きた。

「昨夜扇を落してしまった。もう一つあるけどこっちはイマイチ風が弱いんだよね。多分昨日うたた寝した辺りだな」

 と探していると、茵がすこしまくれたところに浅緑色の紙の端が見える。

 紙は薄様で、巻いて押し込んであるようだ。何気なく引っ張り出して見てみると、これが男の筆跡である。

 焚き染めた香もなまめかしく、何とも大仰な言葉遣いでびっしり書き連ねた、明らかな「恋文」。しかも、

(間違いない。これは……柏木衛門督の字だ)

 ヒカルは確信した。

 ちょうど身づくろいの世話をする女房たちが参集している。ヒカルに鏡を差し出す役の女房は、ヒカルが文らしきものを見ていても意に介さなかったが、遠目に浅緑色を認めた小侍従は仰天した。

(昨日、宮さまにお見せした文の色と似ている……え、まさか)

 心臓が早鐘を打つ。

 朝餉など配膳しながら、小侍従はヒカルの方に目も向けられない。

(いや、いくらなんでも違うわよね。そんな大変なことが起こるわけない。きっとお隠しになったはず)

 無理やり自分に言い聞かせた。

 当の女三の宮は何も知らずに、まだ眠っている。

 ヒカルは、

(余りにも迂闊すぎない……?こんなもの取り散らかして、私以外の誰かが見つけちゃったらどうする気だったのか)

 と呆れつつ、

(案の定だよ。まさにこういう、浅はかで軽々しいところが心配だったんだよね……)

  素知らぬ顔で文を持ち去った。


 ヒカルが二条院に戻った後、集まっていた女房達も三々五々散らばって行った。

 小侍従はすかさず宮のもとに詰め寄る。

「宮さま、昨日のアレはいかがなさいました?今朝、ヒカル院のご覧になっていた文の色が似ておりましたもので」

「えっ……?!」

 宮は酷く驚いて、ただ涙ばかりぽろぽろと零す。

(ああもう……可哀想だけど、宮さまももうちょっとしっかりしていただかないと)

 小侍従は思いつつ、

「どちらに置いてございますか?女房達が来たものですから、私が訳あり顔で近くにいては……とすぐに立ち去ってしまいました。そこまで気にすることでもなかったんですけどね。院が入られるまでに多少時間はありましたし、しっかり隠された……んですよね……?」

 おそるおそる聞く。

「ああ、アレね。ちょうど私が見ている時に院が入られたものだから、隠す暇がなくて。茵の下に挟んで……忘れてたわ」

 は?

 忘れてた?

 小侍従は耳を疑った。

 慌てて茵の下を探したが、もちろん見つかるはずもない。

「ああ、何てこと!かし……文を下さった方だって、ヒカル院を酷く怖がっておられて、毛ほども漏れ聞こえることないようにと、あれほど慎重にしておられたのに、こんなに早くバレてしまうなんて。宮さま、すべては貴女の大人らしくないお振舞いのせいですわよ?お姿を見られてしまったこともそうですし、それで長年思いつめられ、恨み言を言い続けられてこられたあの方だって、こうなるとは想像もしておられなかったでしょう。誰にとってもお気の毒なことを仕出かされましたわね」

 若い小侍従は言いたい放題にまくしたてた。元よりこの子供じみた宮への尊敬は薄く、普段から遠慮もない。宮は返事も出来ず、ただ泣きに泣くばかりだった。

 それからというもの、宮はなお沈み込んで一切何も食べようとしない。

「こんなにお辛そうにしていらっしゃる身重の宮さまを差し置いて、今はもう全快された方のお世話を熱心になさること!」

 何も知らない女房達は薄情だと愚痴っていたとか。

 

 ヒカルにしても信じがたい事実であった。人知れずあの文を何度も読み返す。

(お付きの女房の中に、柏木と似た筆跡がいるとか?いやいやいや。明らかに男性だよねコレ。言葉遣いからしても)

 幼い頃から見知っている柏木の特徴が、隠れようもなく其処此処に現れている。

(長年思い続けていた願いがたまたま叶って、浮足立っている気持ちを書き尽くした言葉は、読み応えもあって感動的だけど、ここまであからさまに書くって……あの柏木にしちゃ考え無しだよね。手紙なんて落としたり散らばったりもするものなんだからさ。昔の私は、言いたいことが溢れんばかりって時でも極力削ぎ落して、知らない人が読んでも何のことかわかんないようにぼやかしたよ……事ほど左様に、細心の注意を払うっていうのは難しい) 

 柏木のことも一転、見下すヒカルだった。

(さて、あの宮をどうしようか。珍しいご懐妊も、どうやら父親は私ではなさそうだ。ああ、もう……情けない。人から言われたならいざ知らず、自分で動かぬ証拠を見つけちゃったんだもんなあ。今まで通りに接することって出来るだろうか)

 無理な気がする。

(単なる浮気の遊びごとで、初めから大して好きでもない女でも、二股かけられてたら面白くないし醒めちゃうものだけど……よりによって二品の、この私の妻だよ?あり得なくない?)

 ヒカル、かなり気分が悪い。

(帝の妻を寝取るような話は昔もあったけれど、それとはまた事情が違う。宮仕えとは、宮中にて誰もが同じ君主のもとにお仕えすること。いわば同じ職場・同じ志の仲間なわけだから、ふとしたことで心を交わし始めてそのうち恋に落ち……ということも起こり得る。女御や更衣といっても色々だよね。うわっこの人どうなのよっていうのもいるし、必ずしも嗜みが深い人ばかりでもない。思いがけないことが起こっても、よっぽど大っぴらに露見しない限りはそのまま宮仕えを続けるから、長いこと誰も知らないまま……ってこともあったんじゃないかなあ)

 その上で今度の件を考えてみても、

(あれほど……超がつくほど大事に大事に扱って、内心じゃ一番愛してる紫上よりも、最大級に慈しみ恭しくお世話し育んできたこの私を差し置いて……こんな事例他にある?聞いたことなくない?)

 超絶イライラするばかりのヒカルだった。

(帝相手であってもただ素直に、形ばかりの対応をしていては宮仕えも味気ない。私的な深い『ねぎ言』に靡いてお互いに思いのたけを尽くし、折節に見過ごせない応答をしたりしているうちに、自然に心が通いあった……なんて間柄なら、同じアヤマチにしてもまだ仕方ないかなーって気もするけど……我ながら、あの程度の若造にフラフラされる程度じゃないと思ってたのにな……)

ねぎごとをさのみ聞きけむ社こそ果てはなげきの森となるらめ(古今集俳諧歌、一〇五五、讃岐)

 腹は立つものの、

(でも、知ってるぞって態度に出すのも違うよね……)

 ふと、そこで気づくヒカル。

(もしかしたら故桐壺院も……こんな風に実は全部ご存知で、知らん顔していたのかもしれない。思えば、あの頃の藤壺女御との過ちこそとんでもない、恐ろしい罪だよなあ……)

 「恋の山路」は誰も非難できない。かつて自分もそう嘯いて散々無茶なことをやってきた。見事にブーメランで返って来たのだ。

いかはかり恋の山路のしけゝれはいりといりぬる人まとふらん(古今六帖四、一九七四)

参考HP「源氏物語の世界」他

<若菜下 十七 につづく

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